寺泊御書

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寺泊御書の概要

【文永八年()十月二十二日、富木常忍、聖寿、真筆−完存】 
今月〈十月なり〉十日相州愛京郡依智の郷を起て、武蔵の国久目河の宿に付き、十二日を経て、越後の国寺泊の津に付きぬ。
此れより大海を亘て、佐渡の国に至らんと欲す。順風定まらず、其の期を知らず。
道の間の事、心も及ぶこと莫く、又筆にも及ばず。但暗に推し度るべし。又本より存知の上なれば、始めて歎くべきに非ずと、之を止む。
法華経の第四に云く「而も此の経は、如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」。第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」。
涅槃経の三十八に云く「爾の時に一切の外道の衆、咸く是の言を作さく、大王○今は唯一の大悪人有り瞿曇沙門なり。
○一切の世間の悪人、利養の為の故に、其の所に往き集り、而も眷属と為て、善を修すること能はず。呪術力の故に迦葉及び舍利弗・目■連等を調伏す」云云。
此の涅槃経の文は、一切の外道我が本師たる二天三仙の所説の経典を仏陀に毀られて出す所の悪言なり。法華経の文は、仏を怨と為す経文には非ず。
天台の意に云く「一切の声聞・縁覚並に近成を(ねが)ふ菩薩」等云云。
聞かんと欲せず、信ぜんと欲せず、其の機に当らざるは、言を出して謗ること莫きも、皆怨嫉の者と定め了ぬ。
在世を以て滅後を推すに、一切諸宗の学者等は皆外道の如し。
彼等が云ふ、一大悪人とは日蓮に当れり。一切の悪人之に集まるとは、日蓮が弟子等是なり。
彼の外道は先仏の説教流伝の後、之を謬て後仏を怨と為せり。今諸宗の学者等も亦復是くの如し。
所詮仏教に依て邪見を起す。目の転ずる者大山転ずと欲ふ。今八宗十宗等、多門の故に諍論を至す。
涅槃経の第十八に贖命重宝と申す法門あり。天台大師の料簡に云く、命とは法華経なり。重宝とは涅槃経に説く所の前三教なり。
但し涅槃経に説く所の円教は如何。此の法華経に説く所の仏性常住を重ねて之を説て帰本せしめ、涅槃経の円常を以て法華経に摂す。涅槃経の得分は但前三教に限る。
天台の玄義の三に云く「涅槃は贖命の重宝なり。重ねて掌を抵つのみ」文。
籤の三に云く「今家の引意は大経の部を指して以て重宝と為す」等云云。
天台大師の四念処と申す文に、法華経の「雖示種種道」の文を引て、先ず四味を又重宝と定め了ぬ。若し爾らば、法華経の先後の諸経は法華経の為の重宝なり。
世間の学者の想に云く、此れは天台一宗の義なり。諸宗は之を用ひず等云云。
日蓮之を案じて云く、八宗十宗等は皆仏滅後より之を起し、論師人師之を立つ。滅後の宗を以て現在の経を計るべからず。
天台の所判は一切経に叶ふに依て、一宗に属して、之を棄つべからず。
諸宗の学者等自師の誤りを執する故に、或は事を機に寄せ、或は前師に譲り、或は賢王を語らい、結句最後には悪心強盛にして闘諍を起し、失無き者を之を損て楽と為す。
諸宗の中に真言宗、殊に僻案を至す。善無畏・金剛智等の想に云く、一念三千は天台の極理・一代の肝心なり。顕密二道の詮たるべきの心地の三千は且く之を置く。此の外印と真言とは仏教の最要等云云。
其の後真言師等事を此の義に寄せて、印真言無き経経をば之を下す。外道の法の如し。
或る義に云く、大日経は釈迦如来の外の説なりと。或る義に云く、教主釈尊第一の説なりと。或る義には釈尊と現じて顕経を説き、大日と現じて密経を説くと。道理を得ずして無尽の僻見之を起す。
譬へば乳の色を弁へざる者種種の邪推を作せども本色に当らざるが如し。又象の譬の如し。今汝等知るべし。
大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く、已後ならば涅槃等の如し。
又天竺の法華経には印真言有れども訳者之を略して羅什は妙法経と名づけ、印真言を加へて善無畏は大日経と名づくるか。譬へば正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利等の如し。
仏の滅後、天竺に於て此の詮を得たるは竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)、漢土に於て始めて之を得たるは天台智者大師なり。
真言宗の善無畏等、華厳宗の澄観等、三論宗の嘉祥等、法相宗の慈恩等、名は自宗に依れども其の心は天台宗に落ちたり。其の門弟等此の事を知らず。如何ぞ謗法の失を免れんや。
或る人日蓮を難じて云く、機を知らずして麁議を立て難に値ふと。或る人云く、勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。或る人云く、我も此の義を存すれども言はずと云云。或る人云く、唯教門計りなり。理は具に我之を存すと。
卞和は足を切らる。清丸は穢丸と云ふ名を給て死罪に及ばんと欲す。時の人之を咲ふ。然りと雖も其の人未だ善き名を流さず。汝等が邪難も亦爾るべし。
勧持品に云く「諸の無智の人有て悪口罵詈し」等云云。日蓮此の経文に当れり。汝等何ぞ此の経文に入らざる。
「及び刀杖を加ふる者」等云云。日蓮は此の経文を読めり。汝等何ぞ此の経文を読まざる。
「常に大衆の中に在て我等が過を毀らんと欲す」等云云。「国王大臣婆羅門居士に向て」等云云。
「悪口して顰蹙し、数数擯出せられん」。数数とは度度なり。日蓮擯出衆度、流罪は二度なり。
法華経は三世の説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来は不軽品為るべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為るべし。
一部八巻二十八品、天竺の御経は一由旬に布くと承はる。定めて数品有るべし。今漢土日本の二十八品は略の中の要なり。
正宗は之を置く。流通に至て、宝塔品の三箇の勅宣は霊山虚空の大衆に被らしむ。
勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩の御誓言は日蓮が浅智には及ばず、但し「恐怖悪世中」の経文は末法の始を指すなり。
此の「恐怖悪世中」の次下の安楽行品等に云く「於末世」等云云。同本異訳の正法華経に云く「然後末世」。又云く「然後来末世」。添品法華経に云く「恐怖悪世中」等云云。
時に当り当世三類の敵人は之れ有るに、但八十万億那由他の諸菩薩は一人も見えたまはず。
乾たる湖の満たず、月の虧けて満ちざるが如し。水清めば月を浮かべ、木を植ふれば鳥棲む。
日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す。彼の諸の菩薩の加被を請ふ者なり。
此の入道佐渡の国へ御供為すべきの由之を承り申す。然るべけれども用途と云ひ、かたがた煩有るの故に之を還す。御志し始めて申すに及ばず候。
人人に是くの如く申させ給へ。但し囹僧等のみ心に懸り候。便宜の時早早之を聴かすべし。穴賢穴賢。
十月二十二日酉の時  日蓮花押 
土木殿 

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