四恩抄

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四恩抄の概要

【弘長二年正月十六日、工藤吉隆、聖寿】 
抑此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり。一には大なる悦びあり。
其の故は、此の世界をば娑婆と名く、娑婆と申すは忍と申す事なり。故に仏をば能忍(のうにん)と名けたてまつる。
此の娑婆世界の内に百億の須弥山、百億の日月、百億の四州あり。其の中の中央の須弥山・日月・四州に仏は世に出でまします。
此の日本国は其の仏の世に出でまします国よりは丑寅(うしとら)の角にあたりたる小島なり。
此の娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて候へば、人の心もやはらかに、賢聖をのり悪む事も候はず。
此の国土は、十方の浄土にすてはてられて候十悪・五逆・誹謗賢聖・不孝父母・不敬沙門等の科の衆生が、三悪道に堕て無量劫を経て、還て此の世界に生れて候が、
先生の悪業の習気失せずして、ややもすれば十悪五逆を作り、賢聖をのり、父母に孝せず、沙門をも敬はず候なり。
故に釈迦如来世に出でましませしかば、或は毒薬を食に雑て奉り、或は刀杖・悪象・師子・悪牛・悪狗等の方便を以て害し奉らんとし、或は女人を犯すと云ひ、或は卑賎の者、或は殺生の者と云ひ、
或は行き合ひ奉る時は面を覆て眼に見奉らじとし、或は戸を閉じ窓を塞ぎ、或は国王大臣の諸人に向ては邪見の者なり、高き人を罵者なんど申せしなり。大集経・涅槃経等に見えたり。
させる失も仏にはおはしまさざりしかども、只此の国のくせかたわとして、悪業の衆生が生れ集て候上、第六天の魔王が此の国の衆生を他の浄土へ出さじと、たばかりを成して、かく事にふれてひがめる事をなすなり。
此のたばかりも詮する所は、仏に法華経を説かせまいらせじ料と見えて候。
其の故は魔王の習として、三悪道の業を作る者をば悦び、三善道の業を作る者をばなげく。
又、三善道の業を作る者をばいたうなげかず、三乗とならんとする者をばいたうなげく。
又、三乗となる者をばいたうなげかず、仏となる業をなす者をば強になげき、事にふれて障をなす。
法華経は一文一句なれども、耳にふるる者は既に仏になるべきと思て、いたう第六天の魔王もなげき思ふ故に、方便をまはして留難をなし、経を信ずる心をすてしめんとたばかる。
而るに仏の在世の時は濁世なりといへども、五濁の始たりし上、仏の御力をも恐れ、人の貪瞋痴邪見も強盛ならざりし時だにも、
竹杖外道(ちくじょうげどう)は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世(あじゃせ)王は悪象を放て三界の独尊ををどし奉り、提婆達多は証果の阿羅漢蓮華比丘尼(れんげびくに)を害し、瞿迦利尊者は智恵第一の舎利弗に悪名を立てき。
何に況や世漸く五濁の盛になりて候をや。況や世末代に入て法華経をかりそめにも信ぜん者の人にそねみねたまれん事はおびただしかるべきか。
故に法華経に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」云云。
始に此の文を見候ひし時はさしもやと思ひ候ひしに、今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと、殊に身に当て思ひ知れて候へ。
日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども、此の御経を若しや我も信を取り人にも縁を結ばしむるかと思て、随分世間の事おだやかならんと思ひき。
世末になりて候へば、妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ、魚鳥を服する僧もさてこそ候か。
日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず、只法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯憎の名四海に満ち、螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり。恐くは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり。
是れ偏に法華経を信ずることの、余人よりも少し経文の如く信をもむけたる故に、悪鬼其の身に入てそねみをなすかとをぼえ候へば、
是れ程の卑賎・無智・無戒の者の、二千余年已前に説かれて候法華経の文にのせられて、留難に値ふべしと仏記しをかれまいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候。
此の身に学文つかまつりし事、やうやく二十四五年にまかりなるなり。
法華経を殊に信じまいらせ候ひし事はわづかに此の六七年よりこのかたなり。
又信じて候ひしかども懈怠の身たる上、或は学文と云ひ、或は世間の事にさえられて、一日にわづかに一巻一品題目計なり。
去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。
其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき。
凡夫の習ひ我とはげみて菩提心を発して、後生を願ふといへども、自ら思ひ出し十二時の間に一時二時こそははげみ候へ。
是は思ひ出さぬにも御経をよみ、読まざるにも法華経を行ずるにて候か。
無量劫の間、六道四生を輪回し候ひけるには、或は謀叛をおこし強盗夜打等の罪にてこそ国主より禁をも蒙り流罪死罪にも行はれ候らめ。
是は法華経を弘むるかと思ふ心の強盛なりしに依て、悪業の衆生に讒言せられて、かかる身になりて候へば、定て後生の勤にはなりなんと覚え候。
是れ程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は、末代には有がたくこそ候らめ。
又止事なくめでたき事侍り。無量劫の間六道に回り候けるには、多くの国主に生れ値ひ奉て、或は寵愛の大臣関白等ともなり候けん。若し爾らば国を給はり、財宝官禄の恩を蒙けるか。
法華経流布の国主に値ひ奉り、其の国にて法華経の御名を聞て修行し、是を行じて讒言を蒙り、流罪に行はれまいらせて候国主には未だ値ひまいらせ候はぬか。
法華経に云く「是の法華経は無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず。何に況や見ることを得て受持し読誦せんをや」云云。
されば此の讒言の人、国主こそ我が身には恩深き人にはをわしまし候らめ。
仏法を習ふ身には必ず四恩を報ずべきに候か。四恩とは、心地観経に云く、一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し。
又悪人無くして菩薩に留難をなさずば、いかでか功徳をば増長せしめ候べき。
二には父母の恩、六道に生を受くるに必ず父母あり。其の中に或は殺盗・悪律儀・謗法の家に生れぬれば、我と其の科を犯さざれども其の業を成就す。
然るに今生の父母は我を生て法華経を信ずる身となせり。梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生まれて、三界四天をゆづられて人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重きは今の某が父母なるか。
三には国王の恩、天の三光に身をあたため、地の五穀に神を養ふこと皆是れ国王の恩なり。
其の上、今度法華経を信じ、今度生死を離るべき国主に値ひ奉れり。争か少分の怨に依ておろかに思ひ奉るべきや。
四には三宝の恩、釈迦如来無量劫の間、菩薩の行を立て給ひし時、一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり。其の一分をば我が身に用ひ給ふ。
今六十三分をば此の世界に留め置て、五濁雑乱の時、非法の盛ならん時、謗法の者国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光勢力減ぜん時、日月光りを失ひ天竜雨をくださず地神地味を減ぜん時、草木・根茎・枝葉・華菓・薬等の七味も失せん時、
十善の国王も貪瞋痴をまし父母六親に孝せずしたしからざらん時、我が弟子、無智無戒にして髪ばかりを剃て守護神にも捨てられて、活命のはかりごとなからん比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり。
又果地の三分の功徳二分をば我が身に用ひ給ひ、仏の寿命百二十まで世にましますべかりしが、八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置て我等に与へ給ふ恩をば、
四大海の水を硯の水とし、一切の草木を焼て墨となして、一切のけだものの毛を筆とし、十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも、争か仏の恩を報じ奉るべき。
法の恩を申さば、法は諸仏の師なり。諸仏の貴き事は法に依る。されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし。
次に僧の恩をいはば、仏宝法宝は必ず僧によりて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。
仏法有りといへども僧有て習伝へずんば、正法像法二千年過て末法へも伝はるべからず。
故に大集経に云く、五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云て是を悩すは、此の人仏法の大燈明を滅せんと思へと説かれたり。然れば僧の恩を報じ難し。
されば三宝の恩を報じ給ふべし。古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等、此等は皆我が身を鬼のうちかひ(打飼)となし、身の血髄をうり、臂をたき、頭を捨て給ひき。
然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙て三宝の恩を報ぜず。いかにしてか仏道を成ぜん。
然るに心地観経・梵網経等には、仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり。
某は愚痴の凡夫・血肉の身なり。三惑一分も断ぜず。只法華経の故に罵詈毀謗せられて、刀杖を加へられ、流罪せられたるを以て、大聖の臂を焼き、髄をくだき、頭をはねられたるになぞらへんと思ふ。是れ一つの悦びなり。
第二に大なる歎きと申すは、法華経第四に云く「若し悪人有て不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん、其の罪尚軽し。若し人一つの悪言を以て、在家出家の法華経を読誦する者を毀呰せん、其の罪甚だ重し」等云云。
此等の経文を見るに、信心を起し、身より汗を流し、両眼より涙を流すこと雨の如し。
我一人此の国に生れて多くの人をして一生の業を造らしむることを歎く。
彼の不軽菩薩を打擲せし人、現身に改悔の心を起せしだにも、猶罪消え難くして千劫阿鼻地獄に堕ちぬ。今我に怨を結べる輩は未だ一分も悔る心もおこさず。
是体の人の受くる業報を大集経に説て云く「若し人あつて千万億の仏の所にして仏身より血を出さん。意に於て如何。此の人の罪をうる事寧ろ多しとせんや否や。
大梵王言さく、若し人只一仏の身より血を出さん、無間の罪尚多し。無量にして算をおきても数をしらず、阿鼻大地獄の中に堕ちん。何に況や万億の仏身より血を出さん者を見んをや。
終によく広く彼の人の罪業果報を説く事ある事なからん。但し如来をば除き奉る。
仏の言く、大梵王若し我が為に髪をそり、袈裟をかけ、片時も禁戒をうけず、欠犯をうけん者を、なやまし、のり、杖をもつて打ちなんどする事有らば、罪をうる事彼よりは多し」と。
弘長二年〈壬戌〉正月十六日  日蓮花押 
工藤左近尉殿 

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