四十九院申状

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四十九院申状の概要

【弘安元年三月、日興撰、聖寿五十七歳】 
駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧釈の日興等謹て申す。
寺務たる二位律師厳誉、日興並に日持・承賢・賢秀等の所学の法華宗を以て外道大邪教と称し、往古の住坊並に田畠を奪ひ取て寺内を追出せしむ謂れ無き子細の事。
右釈迦一代教の中には天台を以て宗匠と為し、如来五十年の間は法華を以て真実と為す。
是れ則ち諸仏の本懐なり、抑亦多宝の証誠なり。上一人より下万民に至るまで帰敬年旧り渇仰日に新なり。
而るに厳誉の状に云く「四十九院の内、日蓮が弟子等居住せしむるの由、其の聞え有り。彼の党類、仏法を学し乍ら外道の教に同じ、正見を改めて邪義の旨に住せしむ。以ての外の次第なり。大衆等評定せしめ、寺内に住せしむべからざるの由の所に候なり」云云。
(ここ)に因て、日興等忽に年来の住坊を追ひ出され、已に御祈祷便宜の学道を失ふ。
法華の正義を以て外道の邪教と称するは、何の経、何れの論文ぞや。
諸経多しと雖も未だ両眼に触れず。法華の中に諸経を破るの文之有りと雖も、諸経の裏に法華を破るの文全く之無し。
所詮、已今当の三説を以て教法の方便を破摧するは、更に日蓮聖人の莠言に非ず。皆是れ釈尊出世の金口なり。
爰に真言及び諸宗の人師等、大小乗の浅深を弁へず、権実教の雑乱を知らず。
或は勝を以て劣と称し、或は権を以て実と号し、意樹に任せて砂草を造る。
仍て愚痴の輩、短才の族、経経顕然の正説を伺はず、徒に師資相伝の口決を信じ、秘密の法力を行ずと雖も、真実の験証無し。
天地之が為に妖■を示し、国土之が為に災難多し。是れ併ら仏法の邪正を糺さず、僧侶の賢愚を撰ばざる故なり。
夫れ仏法は王法の崇尊に依て威を増し、王法は仏法の擁護(おうご)に依て長久す。
正法を学ぶの僧を以て外道と称せらるるの条理豈然るべけんや。外道か外道に非ざるか、早く厳誉律師と召し合はせられ、真偽を糺されんと欲す。
且去る文応年中、師匠日蓮聖人、仏法の廃れたるを見、未来の災を鑑み、諸経の文を勘へ一巻の書を造る、立正安国論と号す。
異国の来難果して以て符合し畢ぬ。未萠を知るを聖と謂つべきか。
大覚世尊、霊山・虚空・二処・三会・二門・八年の間・三重の秘法を説き窮むと雖も、仏滅後二千二百二十余年の間、月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師、漢土の天台・妙楽、日本の伝教大師等、内には之を知ると雖も外に之を伝へず、第三の秘法今に残す所なり。
是偏に末法闘諍の始、他国来難の刻、一閻浮提(いちえんぶだい)の中の大合戦起らんの時、国主此の法を用て兵乱に勝つべきの秘術なり。経文赫赫たり、所説明明たり。
彼れと云ひ此れと云ひ、国の為め世の為め、尤も尋ね聞し食さるべき者なり。仍て款状を勒して各言上件の如し。
弘安元年三月 日 
日興 日持 賢秀 承賢 

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