星名五郎太郎殿御返事

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星名五郎太郎殿御返事の概要

【文永四年十二月五日、星名五郎太郎、聖寿四十六歳】 
漢の明、夜夢みしより迦竺二人の聖人初めて長安のとぼそに臨みしより以来、唐の神武皇帝に至るまで、天竺の仏法震旦に流布し、梁の代に百済国の聖明王より我が朝の人王三十代欽明の御宇に仏法初めて伝ふ。其れより已来一切の経論・諸宗・皆日域にみてり。
幸なるかな生を末法に受くるといへども、霊山のきき耳に入り、身は辺土に居せりといへども、大河の流れ掌に汲めり。
但し委く尋ね見れば、仏法に於て大小・権実・前後のおもむきあり。
若し此の義に迷ひぬれば、邪見に住して、仏法を習ふといへども還て十悪を犯し、五逆を作る罪よりも甚しきなり。
爰を以て世を厭ひ道を願はん人、先ず此の義を存ずべし。例せば彼の苦岸比丘等の如し。
故に大経に云く「若し邪見なる事有らんに、命終の時正に阿鼻獄に堕つべし」と云へり。
問ふ、何を以てか邪見の失を知らん。予不肖の身たりといへども、随分後世を畏れ仏法を求めんと思ふ。
願くは此の義を知らん。若し邪見に住せば、ひるがへして正見におもむかん。
答ふ、凡眼を以て定むべきにあらず 浅智を以て明らむべきにあらず。経文を以て眼とし、仏智を以て先とせん。
但恐くは、若し此の義を明さば、定めていかりをなし、憤りを含まん事を。さもあらばあれ、仏勅を重んぜんにはしかず。
其れ世人は皆遠きを貴み、近きをいやしむ。但愚者の行ひなり。其れ若し非ならば遠くとも破すべし、其れ若し理ならば近くとも捨つべからず。人貴むとも非ならば何ぞ今用ひん。
伝へ聞く、彼の南三北七の十流の学者、威徳ことに勝れて天下に尊重せられし事、既に五百余年まで有りしかども、陳隋二代の比、天台大師是を見て邪義なりと破す。天下に此の事を聞て大きに是をにくむ。
然りといへども、陳王・隋帝の賢王たるに依て、彼の諸宗に天台を召し決せられ、邪正をあきらめて、前五百年の邪義を改め、皆悉く大師に帰す。
又我が朝の叡山の根本大師は、南都・北京の碩学と論じて、仏法の邪正をただす事皆経文をさきとせり。
今当世の道俗貴賎、皆人をあがめて法を用ひず、心を師として経によらず。
之に依て或は念仏権教を以て大乗妙典をなげすて、或は真言の邪義を以て一実の正法を謗ず。
是等の類豈大乗誹謗のやからに非ずや。若し経文の如くならば、争か那落の苦みを受けざらんや。之に依て其の流をくむ人もかくの如くなるべし。
疑て云く、念仏・真言は是れ或は権或は邪義、又行者或は邪見或は謗法なりと。此の事甚だ以て不審なり。
其の故は弘法大師は是れ金剛薩■の化現、第三地の菩薩なり。真言は是れ最極甚深の秘密なり。
又善導和尚は西土の教主弥陀如来の化身なり。法然上人は大勢至菩薩の化身なり。かくの如きの上人を豈に邪見の人と云ふべきや。
答て云く、此の事本より私の語を以て是を難ずべからず。経文を先として是をただすべきなり。
真言の教は最極の秘密なりと云ふは、三部経の中に於て蘇悉地経を以て王とすと見えたり。全く諸の如来の法の中に於て第一なりと云ふ事を見ず。
凡そ仏法と云ふは、善悪の人をゑらばず、皆仏になすを以て最第一に定むべし。是れ程の理をば何なる人なりとも知るべきことなり。若し此の義に依らば経と経とを合せて是を校すべし。
今法華経には二乗成仏あり、真言経には之無し。あまつさへ、あながちに是をきらへり。法華経には女人成仏之有り、真言経にはすべて是なし。法華経には悪人の成仏之有り、真言経には全くなし。何を以てか法華経に勝れたりと云ふべき。
又若し其の瑞相(ずいそう)を論ぜば、法華には六瑞あり。所謂、雨華地動し、白毫相の光り上は有頂を極め、下は阿鼻獄を照せる是なり。又多宝の塔大地より出て、分身の諸仏十方より来る。
しかのみならず、上行等の菩薩の六万恒沙・五万・四万・三万、乃至一恒沙・半恒沙等大地よりわきいでし事、此の威儀不思議を論ぜば、何を以て真言は法華にまされりと云はん。
此等の事委くのぶるにいとまあらず。はづかに大海の一滴を出す。
爰に菩提心論と云ふ一巻の文あり。竜猛菩薩の造と号す。此の書に云く「唯真言法の中に即身成仏す。故に是三摩地の法を説く。諸経の中に於て欠て書さず」と云へり。
此の語は大に不審なるに依て、経文に就てこれを見るに、即身成仏の語は有れども、即身成仏の人全くなし。
たといありとも、法華経の中に即身成仏あらば、諸経の中にをいて、かいて而もかかずと云ふべからず。此の事甚だ以て不可なり。
但し此の書は全く竜猛の作にあらず。委しき旨は別に有るべし。設ひ竜猛菩薩の造なりとも、あやまりなり。
故に大論に、一代をのぶる肝要として「般若は秘密にあらず二乗作仏(にじょうさぶつ)なし。法華は是秘密なり二乗作仏(にじょうさぶつ)あり」と云へり。
又云く「二乗作仏(にじょうさぶつ)あるは是秘密、二乗作仏(にじょうさぶつ)なきは是顕教」と云へり。
若し菩提心論の如くならば、別しては竜樹の大論にそむき、総じては諸仏出世の本意、一大事の因縁をやぶるにあらずや。
今竜樹・天親等は皆釈尊の説教を弘めんが為に世に出ず。付法蔵二十四人の其の一なり。何ぞ此くの如き妄説をなさんや。
彼の真言は是れ般若経にも劣れり。何に況や法華に並べんや。
而るに弘法の秘蔵宝鑰に、真言に一代を摂するとして、法華を第三番に下し、あまつさへ戯論なりと云へり。
謹て法華経を披きたるに、諸の如来の所説の中に第一なりと云へり。又已今当の三説に勝れたりと見えたり。
又薬王の十喩の中に法華を大海にたとへ、日輪にたとへ、須弥山にたとへたり。
若し此の義に依らば、深き事何ぞ海にすぎん。明かなる事何ぞ日輪に勝れん。高き事何ぞ須弥山に越ゆる事有らん。喩を以て知ぬべし。何を以てか法華に勝れたりと云はんや。
大日経等に全く此の義なし。但己が見に任せて永く仏意に背く。
妙楽大師曰く「請ふ眼有らん者は委悉に之を尋ねよ」と云へり。法華経を指して華厳に劣れりと云ふは、豈眼ぬけたるものにあらずや。
又大経に云く「若し仏の正法を誹謗する者あらん、正に其の舌を断べし」と。
嗚呼誹謗の舌は世世に於て物を云ふことなく、邪見の眼は生生にぬけて見ること無からん。
加之らず「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」の文の如くならば、定めて無間大城に堕て無量億劫のくるしみを受けん。善導・法然も是に例して知ぬべし。
誰か智恵有らん人、此の謗法の流れを汲て共に阿鼻の焔にやかれん。行者能く畏るべし。此れは是れ大邪見の輩なり。
所以に如来誠諦の金言を按ずるに云く「我が正法をやぶらん事は、譬へば猟師の身に袈裟をかけたるが如し。或は須陀■・斯那含・阿那含・阿羅漢・辟支仏及び仏の色身を現じて我が正法を壊らん」といへり。
今此の善導・法然等は種種の威を現じて、愚痴の道俗をたぶらかし、如来の正法を滅す。
就中、彼の真言等の流れ、偏に現在を以て旨とす。所謂、畜類を本尊として男女の愛法を祈り、荘園等の望をいのる。是の如き少分のしるしを以て奇特とす。
若し是を以て勝れたりといはば、彼の月氏の外道等にはすぎじ。彼の阿竭多仙人は十二年の間恒河の水を耳にたたへたりき。
又耆菟仙人の四大海を一日の中にすひほし、拘留外道は八百年の間石となる。豈是にすぎたらんや。
又瞿曇仙人が十二年の程、釈身と成り説法せし、弘法が刹那の程にびるさなの身と成りし、其の威徳を論ぜば如何。若し彼の変化のしるしを信ぜば即ち外道を信ずべし。
当に知るべし彼れ威徳ありといへども、猶阿鼻の炎をまぬがれず。況やわづかの変化においてをや。況や大乗誹謗にをいてをや。
是一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏るべし畏るべし。
仏の曰く「悪象等に於ては畏るる心なかれ。悪知識に於ては畏るる心をなせ。何を以ての故に。
悪象は但身をやぶり意をやぶらず、悪知識は二共にやぶる故に。此の悪象等は但一身をやぶる、悪知識は無量の身無量の意をやぶる。悪象等は但不浄の臭き身をやぶる、悪知識は浄身及び浄心をやぶる。
悪象は但肉身をやぶる、悪知識は法身をやぶる。悪象の為にころされては三悪に至らず、悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る。此の悪象は但身の為のあだなり、悪知識は善法の為のあだなり」と。
故に畏るべきは大毒蛇・悪鬼神よりも、弘法・善導・法然等の流れの悪知識を畏るべし。略して邪見の失を明すこと畢ぬ。
此の使あまりに急ぎ候ほどに、とりあへぬさまに、かたはしばかりを申し候。此の後又便宜に委しく経釈を見調べてかくべく候。穴賢穴賢。
外見あるべからず候。若命つれなく候はば仰せの如く明年の秋下り候て且つ申すべく候。恐々。 文永
十二月五日  日蓮花押 
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