滝泉寺申状

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滝泉寺申状の概要

【弘安二年十月、聖寿五十八歳、真筆完存】
大体此の状の様有る可き歟。但し熱原の沙汰の趣に其の子細出来せる歟。
駿河の国富士下方滝泉寺の大衆、越後房日弁・下野房日秀等謹て弁言す。
当寺院主代平左近入道行智、条条の自科を塞ぎ遮らんが為に、不実の濫訴を致す謂れ無き事。
訴状に云く、日秀・日弁日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経、或は真言の行人は、皆以て今世後世叶ふべからざるの由之を申す云云〈取意〉。
此の条は日弁等の本師、日蓮聖人去る正嘉以来の大彗星・大地動等を観見し、一切経を勘へて云く、当時日本国の体たらく、権小に執著し実経を失没せるの故に、当に前代未有の二難を起すべし。所謂自界叛逆難・他国侵逼(たこくしんぴつ)難なり。
仍て治国の故を思ひ、兼日彼の大災難を対治せらるべきの由、去る文応年中一巻の書を上表す〈立正安国論と号す〉。
勘へ申す所皆以て符合す。既に金口の未来記に同じ。宛も声と響との如し。
外書に云く「未萠を知るは聖人なり」。内典に云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」云云。
之を以て之を思ふに、本師は豈聖人に非ずや。巧匠内に在り、国宝外に求むべからず。
外書に云く「隣国に聖人有るは敵国の憂なり」云云。内経に云く「国に聖人有れば、天必ず守護す」云云。外書に云く「世必ず聖智の君有り、而して復賢明の臣有り」云云。
此の本文を見るに、聖人国に在るは、日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。
諸竜を駆り催して、敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。
君既に賢人に在さば、豈聖人を用ひずして、徒に他国の逼を憂へん。
抑大覚世尊、遥に末法闘諍堅固の時を鑑み、此くの如きの大難を対治すべきの秘術を、説き置かせらるるの経文明明たり。
然りと雖も、如来の滅後二千二百二十余年の間、身毒・尸那・扶桑等一閻浮提(いちえんぶだい)の内に未だ流布せず。
随て四依の大士、内に鑑て説かず、天台・伝教、而も演べず、時未だ至らざるの故なり。
法華経に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布す」云云。天台大師云く「後五百歳」。妙楽云く「五五百歳」。
伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東羯の西、人を原ぬれば則五濁の生闘諍の時」云云。東勝西負の明文なり。
法主聖人時を知り、国を知り、法を知り、機を知り、君の為、臣の為、神の為、仏の為、災難を対治せらるべきの由勘へ申すと雖も、御信用無きの上、
剰さえ謗法人等の讒言に依て、聖人頭に疵を負ひ左手を打ち折らるる上、両度まで遠流の責を蒙むり、門弟等所所に射殺され、切り殺され、毒害・刃傷・禁獄・流罪・打擲・擯出・罵詈等の大難、勝げて計ふべからず。
(ここ)に因て大日本国皆法華経の大怨敵と成り、万民悉く一闡提の人と為るの故に、天神国を捨て、地神所を辞し、天下静ならざるの由、粗伝承するの間、其の仁に非ずと雖も、愚案を顧みず、言上せしむる所なり。
外経に云く「奸人朝に在れば賢者進まず」云云。内経に云く「法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」云云。
又風聞の如くんば、高僧等を崛請して蒙古国を調伏す云云。
其の状を見聞するに、去る元暦承久の両帝、叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺等検校、長吏等の諸の真言師を請ひ向け、内裏の紫宸殿にして咒咀し奉る故源右将軍並に故平右虎牙の日記なり。
此の法を修するの仁は敬て之を行へば必ず身を滅し、強て之を持てば定めて主を失ふなり。
然れば則ち安徳天皇は西海に沈没し、叡山の明雲は流矢に当り、後鳥羽法皇は夷島に放ち捨てられ、東寺御室は自ら高山に死し、北嶺の座主は改易の恥辱に値ふ。現罰眼に遮り、後賢之を畏る。聖人山中の御悲みは是なり。
次ぎに阿弥陀経を以て例時の勤と為すべきの由の事。
夫れ以みれば花と月と、水と火と、時に依て之を用ゆ。必ずしも先例を追ふべからず。仏法又是くの如し。時に随て用捨す。
其の上汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は四十余年未顕真実(みけんしんじつ)の小経なり。
一閻浮提(いちえんぶだい)第一の智者たる舎利弗尊者は、多年の間、此の経を読誦するも、終に成仏を遂げず。然る後、彼の経を抛ち、末に法華経に至て、華光如来と為る。
況や末代悪世の愚人、南無阿弥陀仏の題目計りを唱へて順次往生を遂ぐべしや。
故に仏之を誡めて言く、法華経に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」云云。教主釈尊正しく阿弥陀経を抛ちたまう云云。
又涅槃経に云く「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生の虚妄の説に因るを知れば」云云。正しく弥陀念仏を以て虚妄と称する文なり。
法華経に云く「但楽て大乗経典を受持し、乃至、余経の一偈をも受けざれ」云云。
妙楽大師云く「況や彼の華厳、但以て称比せん。此の経の法を以て之を化するに同じからず。故に乃至不受余経一偈と云ふ」云云。
彼の華厳経は寂滅道場の説、法界唯心の法門なり。上本は十三世界微塵品、中品は四十九万八千偈、下本は十万偈四十八品。今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり。
其の外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密大乗経等を、尚法華経に対当し奉て、仏自ら或は「未顕真実(みけんしんじつ)」と云ひ、或は「留難多きが故に」、或は「門を閉じよ」或は「抛て」等云云。
何に況や阿弥陀経をや。唯大山と蟻岳との高下、師子王と狐兎との■力なり。
今日秀等、専ら彼等小経を抛ち、専ら法華経を読誦し、法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱へ奉る。豈殊忠に非ずや。
此等の子細御不審を相貽さば、高僧等を召され、是非を決せらるべきか。
仏法の優劣を糺明致す事は、月氏・漢士・日本の先例なり。今明時に当て何ぞ三国の旧規に背かんや。
訴状に云く、今月二十一日数多の人勢を催し、弓箭を帯し、院主分の御坊内に打ち入り、下野坊は乗馬相具し、熱原の百姓紀次郎男点札を立て、作毛を苅り取り、日秀の住房に取り入れ畢ぬ云云〈取意〉。
此の条跡形も無き虚誕なり。日秀等は行智に損亡せられて、不安堵の上は、誰の人か日秀等の点札を叙用せしむべき。将た又■弱なる土民の族、日秀等に雇ひ越されんや。
如し然らば、弓箭を帯し悪行を企つるに於ては、行智と云ひ近隣の人人と云ひ、争か弓箭を奪ひ取り、其の身を召し取りて、子細を申さざらんや。矯飾の至り、宜しく賢察に足るべし。
日秀・日弁等は当寺代代の住侶として、行法の薫修を積み、天長地久の御祈祷を致すの処に、行智は乍に当寺霊地の院主代に補し、寺家三河房頼円・並に少輔房日禅・日秀・日弁等に行智より仰せて、法華経に於ては不信用の法なり。
速に法華経の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み、念仏を申すべきの由、起請文を書けば、安堵すべきの旨、下知せしむるの間、
頼円は下知に随て起請を書て、安堵せしむと雖も、日禅等は起請を書かざるに依て、所職の住坊を奪ひ取るの時、日禅は即ち離散せしめ畢ぬ。
日秀・日弁は無頼の身たるに依て、所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむるの間、此の四箇年の程、日秀等の所職の住坊を奪ひ取り、
厳重に御祈祷を打ち止むるの余り、悪行猶以て飽き足らず、為に法華経行者の跡を削り、謀案を構へて種種の不実を申し付くるの条、豈在世の調達に非ずや。
凡そ行智の所行は、法華三昧の供僧和泉房蓮海を以て、法華経を柿紙に作り、紺形を彫り。
堂舎の修治を為す、日弁に御書下を給ひ構へ置く所の上、葺榑一万二千寸の内、八千寸を之を私用せしむ。
下方の政所代に勧め、去る四月御神事の最中に、法華経信心の行人四郎男を刃傷せしめ、去る八月弥四郎坊男の頚を切らしむ。(日秀等に頚を刎ぬる事を擬して此の中に書き入れ)。
無智無才の盗人兵部房静印より過料を取り、器量の仁と称して、当寺の供憎に補せしめ。
或は寺内の百姓等を催し、鶉狩狸殺狼落の鹿を取て、別当の坊に於て之を食らい、或は毒物を仏前の池に入れ、若干の魚類を殺し、村里に出して之を売る。見聞の人耳目を驚かさざるは莫し。仏法破滅の基、悲て余り有り。
此くの如き不善の悪行日日相積るの間、日秀等愁歎の余り、依て上聞を驚かさんと欲す。
行智条条の自科を塞がんが為に、種種の秘計を廻らし、近隣の輩を相語らい、遮て跡形も無き不実を申し付け、日秀等を損亡せしめんと擬するの条言語道断の次第なり。冥に付け顕に付け戒めの御沙汰無からんや。
所詮仏法の権実、沙汰の真偽淵底を究めて御尋ね有り、且は誠諦の金言に任せ、且は式条の明文に准し、禁遏を加へられば、守護の善神は変を消し擁護の諸天は咲を含まん。
然れば則ち、不善悪行の院主代行智を改易せられ、将た又本主此の重科を脱れ難からん。何ぞ実相寺に例如せん。
誤まらざるの道理に任せて、日秀・日弁等は安堵の御成敗を蒙むり、堂舎を修理せしめ、天長地久御祈祷の忠勤を抽てんと欲す。仍て状を勒し披陳。言上件の如し。
弘安二年十月 日、沙門日秀日弁等上 

法華三昧供僧和泉房蓮海、法華経を柿紙に作り、紺形に彫るは、重科の上、謗法なり。
仙予国王は閻浮第一の持戒の人、慈悲喜捨を具足する菩薩の位なり。而も又師軌なり。
然りと雖も、法華経を誹謗する婆羅門五百人を刎頭す。其の功徳に依て妙覚位に登る。
有徳王も又初依の菩薩なり。歓喜仏の末、諸小乗権大乗の者、法華経の行者覚徳比丘を殺害せんとす。
有徳国王、諸小乗法師等を、或は射殺し、或は切殺し、或は打殺し、迦葉仏等と為る。
戒日大王・宣宋皇帝・上徳太子等、此の先証を追て、仏法の怨敵を討罰す。
此等の大王は皆持戒の仁、善政の流なり。未来今日□□□躬不可□□□。
然りと雖も、日本一同為□□の上は、其の子細御召に隨て之を申すべし。

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