妙法尼御前御返事

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妙法尼御前御返事弘安元年七月三日の概要

【弘安元年七月三日、妙法尼、聖寿五十七歳】 
先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事、ありがたき大善根にて候。
須弥山を他方の世界へつぶてになぐる人よりも、三千大千世界をまりの如くにけあぐる人よりも、無量の余の経典を受け持て人に説ききかせ、
聴聞の道俗に六神通をえせしめんよりも、末法のけふ(今日)このごろ、法華経の一句一偈のいはれをも尋ね問ふ人はありがたし。
此の趣を釈し給て人の御不審をはらさすべき僧もありがたかるべしと、法華経の四の巻、宝塔品と申す処に、六難九易と申して大事の法門候。
今此の御不審は六の難き事の内なり。爰に知ぬ。若し御持ちあらば即身成仏の人なるべし。
此の法華経には我等が身をば法身如来、我等が心をば報身如来、我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候。
南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候。然れども同じ一句の中にも肝心にて候。
南無妙法蓮華経と唱ふる計りにて仏になるべしやと、此の御不審所詮に候。一部の肝要、八軸の骨髄にて候。
人の身の五尺六尺のたましひ(神)も一尺の面にあらはれ、一尺のかほ(顔)のたましひも一寸の眼の内におさまり候。
又日本と申す二の文字に、六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賎・七珍・万宝一もかくる事候はず収めて候。
其のごとく南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字一字ももれずかけずおさめて候。されば経には題目たり、仏には眼たりと、楽天ものべられて候。
記の八に「略して経題を挙ぐるに、玄に一部を収む」と妙楽も釈しおはしまし候。心は略して経の名計りを挙ぐるに、一部を収むと申す文なり。
一切の事につけて所詮肝要と申す事あり。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候。
朝夕御唱へ候はば正く法華経一部を真読にあそばすにて候。二返唱ふるは二部、乃至百返は百部、千返は千部、加様に不退に御唱へ候はば不退に法華経を読む人にて候べく候。
天台の六十巻と申す文には此のやうを釈せられて候。かかる持ちやすく行じやすき法にて候を、末代悪世の一切衆生のために説きをかせ給て候。
経文に云く「於末法中」、「於後末世 法欲滅時 受持読誦」、「悪世末法時 能持是経者」、「後五百歳中 広宣流布」と。
此れ等の文の心は、当時末法の代には法華経を持ち信ずべきよしを説かれて候。
かかる明文を学しあやまりて、日本・漢土・天竺の謗法の学匠達、皆念仏者・真言・禅・律の小乗権教には随ひ行じて法華経を捨てはて候ぬ。
仏法にまどへるをばしろしめされず、形まことしげなれば、云ふ事も疑ひあらじと計り御信用候間、をもはざるに法華経の敵、釈迦仏の怨とならせ給て、今生には祈る所願も虚しく、命もみじかく、後生には無間大城をすみか(栖)とすべしと正しく経文に見えて候。
さて此の経の題目は習ひ読む事なくして大なる善根にて候。悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、水の底なる石に火のあるが如く、百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる。
世間のあだなるものすら尚加様に不思議あり。何に況や仏法の妙なる御法の御力をや。
我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕はれん事疑ひなかるべし。
「妙法経力 即身成仏」と伝教大師も釈せられて候。心は法華経の力にてはくちなは(蛇)の竜女も即身成仏したりと申す事なり。
御疑候べからず。委くは見参に入り候て申すべく候と申させ給へ。
弘安元年戊寅七月三日  日蓮花押 
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