教機時国抄

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教機時国抄の概要

【弘長二年二月十日、聖寿】 
本朝沙門日蓮之を註す 
一に教とは、釈迦如来所説の一切の経律論五千四十八巻四百八十帙。天竺に流布すること一千年、仏の滅後一千一十五年に当て震旦国に仏経渡る。
後漢の孝明皇帝永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝開元十八年庚午に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢ぬ。
此の一切の経律論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経あり。此等を弁ふべし。此の名目は論師人師よりも出でず、仏説より起る。
十方世界の一切衆生一人も無く之を用ふべし。之を用ひざる者は外道と知るべきなり。
阿含経を小乗と説く事は、方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経より出でたり。
法華経には、一向に小乗を説て法華経を説かざれば、仏慳貪に堕すべしと説きたもう。
涅槃経には、一向に小乗経を用て仏を無常なりと云はん人は、舌口中に爛るべしと云云。
二に機とは、仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし。舎利弗尊者は金師に不浄観を教へ、浣衣の者には数息観を教ふる間、九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして、還て邪見を起し一闡提と成り畢ぬ。
仏は金師に数息観を教へ、浣衣の者に不浄観を教へたもう。故に須臾の間に覚ることを得たり。
智恵第一の舎利弗すら尚機を知らず。何に況や末代の凡師機を知り難し。
但し機を知らざる凡師は、所化の弟子に一向に法華経を教ふべし。
問て云く、無智の人の中にして此の経を説くこと莫れとの文は如何。
答て云く、機を知るは智人の説法する事なり。又謗法の者に向ては一向に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し。
亦智者と成るべき機と知らば、必ず先ず小乗を教へ、次に権大乗を教へ、後に実大乗を教ふべし。
愚者と知らば、必ず先ず実大乗を教ふべし。信謗共に下種と為ればなり。
三に時とは、仏教を弘めん人は必ず時を知るべし。譬へば農人の秋冬田を作るに、種と地と人の功労とは違はざれども、一分も益無く還て損す。一段を作る者は少損なり。一町二町等の者は大損なり。春夏耕作すれば、上中下に随て、皆分分に益有るが如し。
仏法も亦復是くの如し。時を知らずして法を弘めば益無き上、還て悪道に堕するなり。
仏出世したもうて必ず法華経を説かんと欲するに、縦ひ機有れども時無きが故に、四十余年には此の経を説きたまはず。故に経に云く「説時未だ至らざるが故なり」等云云。
仏の滅後の次の日より正法一千年は、持戒の者は多く破戒の者は少し。正法一千年の次の日より像法一千年は、破戒の者は多く無戒の者は少し。像法一千年の次の日より末法一万年は、破戒の者は少く無戒の者は多し。
正法には破戒無戒を捨てて持戒の者を供養すべし。像法には無戒を捨てて破戒の者を供養すべし。末法には無戒の者を供養すること仏の如くすべし。
但し法華経を謗ぜん者をば、正像末の三時に亘て持戒の者をも、無戒の者をも破戒の者をも、共に供養すべからず。
供養せば必ず国に三災七難起り、供養せし者も必ず無間大城に堕すべきなり。
法華経の行者の権経を謗ずるは、主君親師の所従子息弟子等を罰するが如し。
権経の行者の法華経を謗ずるは、所従子息弟子等の主君親師を罰するが如し。
又当世は末法に入て二百一十余年なり。権経念仏等の時か。法華経の時か。能く能く時刻を勘ふべきなり。
四に国とは、仏教は必ず国に依て之を弘むべし。国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国、一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国等之有り。又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り。
而るに日本国は一向に小乗の国か。一向に大乗の国か。大小兼学の国なるか。能く之を勘ふべし。
五に教法流布の先後とは、未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり。既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり。
必ず先に弘まれる法を知て後の法を弘むべし。先に小乗権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし。先に実大乗弘らば後に小乗権大乗を弘むべからず。
瓦礫を捨てて金珠を取るべし。金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ。
已上の此の五義を知て仏法を弘めば日本国の国師と成るべきか。
所以に法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは、是れ教を知る者なり。
但し光宅の法雲・道場の恵観等は涅槃経は法華経に勝れたりと。清涼山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと。嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと云ふ。
天台山の智者大師只一人のみ、一切経の中に法華経を勝れたりと立つるのみに非ず、法華経に勝れたる経之れ有りと云はん者を諫暁せよ。止まずんば現世に舌口中に爛れ、後生は阿鼻地獄に堕すべし等云云。
此等の相違を能く能く之を弁へたる者は教を知れる者なり。当世の千万の学者等一一に之に迷へるか。若し爾らば、教を知れる者之れ少きか。
教を知れる者之れ無ければ、法華経を読む者之れ無し。法華経を読む者之れ無ければ、国師となる者無きなり。
国師となる者無ければ、国中の諸人一切経の大小権実顕密の差別に迷て、一人に於ても生死を離るる者之れ無く、結句は謗法の者と成り、法に依て阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く、法に依て生死を離るる者は爪上の土よりも少し。恐るべし恐るべし。
日本国の一切衆生は桓武皇帝より已来四百余年、一向に法華経の機なり。例せば霊山八箇年の純円の機為るが如し。
〈天台大師・聖徳太子・鑑真和尚・根本大師・安然和尚・恵心等の記に之有り〉是れ機を知れる者なり。
而るに当世の学者の云く、日本国は一向に称名念仏の機なり等云云。例せば舎利弗の機に迷て所化の衆を一闡提と成せしが如し。
日本国の当世は如来の滅後二千二百一十余年。後五百歳に当て妙法蓮華経広宣流布の時刻なり。是れ時を知れるなり。
而るに日本国の当世の学者或は法華経を抛て一向に称名念仏を行じ、或は小乗の戒律を教へて叡山の大僧を蔑り、或は教外を立てて、法華の正法を軽しむ。此等は時に迷へる者か。
例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗じ、徳光論師が弥勒菩薩を蔑て、阿鼻の大苦を招きしが如し。
日本国は一向に法華経の国なり。例せば舎衛国の一向に大乗なりしが如し。
又天竺には一向に小乗の国・一向に大乗の国・大小兼学の国も之有り。日本国は一向大乗の国なり。大乗の中にも法華経の国為るべきなり。
〈瑜伽論・肇公の記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記之有り〉是れ国を知れる者なり。
而るに当世の学者日本国の衆生に向て一向に小乗の戒律を授け、一向に念仏者等と成すは「譬へば宝器に穢食を入れたるが如し」等云云。
〈宝器の譬伝教大師の守護章に在り〉日本国には欽明天皇の御宇に、仏法百済国より渡り始めしより、桓武天皇に至るまで二百四十余年の間、此の国に小乗権大乗のみ弘まり、法華経有りと雖も其の義未だ顕れず。
例せば震旦国に法華経渡て三百余年の間、法華経有りと雖も其の義未だ顕れざりしが如し。
桓武天皇の御宇に伝教大師有して、小乗権大乗の義を破して法華経の実義を顕せしより已来、又異義無く純一に法華経を信ず。
設ひ華厳・般若・深密・阿含大小の六宗を学する者も法華経を以て所詮と為す。況や天台・真言の学者をや。何に況や在家の無智の者をや。例せば崑崙山に石無く蓬莱山に毒無きが如し。
建仁より已来今に五十余年の間、大日仏陀禅宗を弘め、法然・隆寛浄土宗を興し、実大乗を破して権宗に付き、一切経を捨てて教外を立つ。譬へば珠を捨てて石を取り、地を離れて空に登るが如し。
此は教法流布の先後を知らざる者なり。仏誡めて云く「悪象に値ふとも悪知識に値はざれ」等云云。
法華経の勧持品に、後の五百歳二千余年に当て法華経の敵人三類有るべしと記し置きたまえり。
当世は後五百歳に当れり。日蓮仏語の実否を勘ふるに、三類の敵人之有り。之を隠さば法華経の行者に非ず。之を顕さば身命定めて喪はんか。
法華経第四に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し。況や滅度の後をや」等云云。
同じく第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」と。又云く「我身命を愛せず但無上道を惜む」と。同第六に云く「自ら身命を惜まず」云云。
涅槃経第九に云く「譬へば王使の善能談論し、方便に巧みなる命を他国に奉け寧ろ身命を喪ふとも、終に王の所説の言教を匿さざるが如し。智者も亦爾なり。凡夫の中に於て身命を惜まずして、要必大乗方等を宣説すべし」云云。
章安大師釈して云く「寧喪身命不匿教とは、身は軽く法は重し、身を死して法を弘めよ」等云云。
此等の本文を見れば、三類の敵人を顕さずんば法華経の行者に非ず。之を顕すは法華経の行者なり。而れども必ず身命を喪はんか。例せば師子尊者・提婆菩薩等の如くならん云云。
二月十日  日蓮花押 

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