顕仏未来記

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顕仏未来記の概要

【文永十年閏五月十一日、聖寿、真筆曽存】 
沙門日蓮之を勘ふ 
法華経の第七に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」等云云。
予一たびは歎て云く、仏滅後既に二千二百二十余年を隔つ。何なる罪業に依て仏の在世に生れず、正法の四依、像法の中の天台・伝教等にも値はざるやと。
亦一たびは喜て云く、何なる幸あつて後五百歳に生れて此の真文を拝見することぞや。
在世も無益なり。前四味の人は未だ法華経を聞かず。正像も又由し無し。南三北七並に華厳真言等の学者は法華経を信ぜず。
天台大師云く「後の五百歳遠く妙道に沾おわん」等云云。広宣流布の時を指すか。
伝教大師云く「正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り」等云云。末法の始を願楽するの言なり。
時代を以て果報を論ずれば、竜樹・天親に超過し、天台・伝教にも勝るるなり。
問て云く、後五百歳は汝一人に限らず。何ぞ殊に之を喜悦せしむるや。
答て云く、法華経の第四に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」文。
天台大師云く「何に況や未来をや理化し難きに在り」文。妙楽大師云く「理在難化とは此の理を明すことは意衆生の化し難きを知らしむるに在り」文。
智度法師云く「俗に良薬口に苦しと言ふが如く此の経は五乗の異執を廃して一極の玄宗を立つ。故に凡を斥ぞけ聖を呵し大を排し小を破る。乃至此くの如きの徒悉く留難を為す」等云云。
伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の始、地を尋れば唐の東羯の西、人を原れば則ち五濁の生闘諍の時なり。経に云く、猶多怨嫉況滅度後と。此の言良に以有るなり」等云云。
此の伝教大師の筆跡は、其の時に当るに似たれども、意は当時を指すなり。「正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り」の釈は心有るかな。
経に云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」云云。
言ふ所の等とは、此の経に又云く「若は夜叉、若は羅刹、若は餓鬼、若は富単那、若は吉遮、若は毘陀羅、若は■駄、若は烏摩勒伽、若は阿跋摩羅、若は夜叉吉遮、若は人吉遮」等云云。
此の文の如きは、先生に四味三教乃至外道人天等の法を持得して、今生に悪魔・諸天・諸人等の身を受けたる者が、円実の行者を見聞して留難を至すべき由を説くなり。
疑て云く、正像の二時を末法に相対するに、時と機と共に正像は殊に勝るるなり。何ぞ其の時機を捨てて偏に当時を指すや。
答て云く、仏意測り難し。予未だ之を得ず、試みに一義を案じ小乗経を以て之を勘ふるに、正法千年は教行証の三つ具さに之を備ふ。像法千年には教行のみ有て証無し。末法には教のみ有て行証無し等云云。
法華経を以て之を探るに、正法千年に三事を具するは在世に於て法華経に結縁する者か、其の後正法に生れて小乗の教行を以て縁と為し小乗の証を得るなり。
像法に於ては在世の結縁微薄の故に小乗に於て証すること無く、此の人権大乗を以て縁と為して十方の浄土に生ず。
末法に於ては大小の益共に之無し。小乗には教のみ有て行証無し。大乗には教行のみ有て冥顕の証之無し。
其の上正像の時の、所立の権小の二宗漸漸末法に入て執心弥強盛にして小を以て大を打ち、権を以て実を破り、国土に大体謗法の者充満するなり。
仏教に依て悪道に堕する者は大地微塵よりも多く、正法を行じて仏道を得る者は爪上の土よりも少きなり。
此の時に当て諸天善神其の国を捨離し、但邪天邪鬼等有て王臣比丘比丘尼等の身心に入住し、法華経の行者を罵詈毀辱(きにく)せしむべき時なり。
爾りと雖も仏の滅後に於て四味三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並に地涌千界等の菩薩法華の行者を守護せん。
此の人は守護の力を得て本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。
例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩我深敬等の二十四字を以て、彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。
彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も、其の意是れ同じ。彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり。
疑て云く、何を以て之を知る、汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云ふことを。
答て云く、法華経に云く「況や滅度の後をや」。又云く「諸の無智の人有て悪口罵詈等し及び刀杖を加ふる者あらん」。又云く「数数擯出せられん」。
又云く「一切世間怨多くして信じ難し」。又云く「杖木瓦石をもつて之を打擲す」。又云く「悪魔魔民諸天竜夜叉鳩槃荼等其の便りを得ん」等云云。
此の明鏡に付て仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣四衆の面目に引き向へたるに、予よりの外には一人も之無し。
時を論すれば末法の初め一定なり。然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん。
難じて云く、汝は大慢の法師にして大天に過ぎ、四禅比丘にも超えたり如何。
答て云く、汝日蓮を蔑如するの重罪、又提婆達多に過ぎ、無垢論師にも超えたり。我が言は大慢に似たれども、仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり。
然りと雖も日本国中に、日蓮を除ては誰人を取り出して法華経の行者と為さん。汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす。豈大悪人に非ずや。
疑て云く、如来の未来記汝に相当るとして、但し五天竺並に漢土等にも法華経の行者之有るか如何。
答て云く、四天下の中に全く二の日無し。四海の内豈両主有らんや。
疑て云く、何を以て汝之を知る。答て云く、月は西より出でて東を照し、日は東より出でて西を照す。
仏法も又以て是くの如し。正像には西より東に向ひ、末法には東より西に往く。
妙楽大師の云く「豈中国に法を失て之を四維に求むるに非ずや」等云云。天竺に仏法無き証文なり。
漢土に於て高宗皇帝の時、北狄東京を領して今に一百五十余年、仏法王法共に尽き了ぬ。
漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く、大乗経は多分之を失す。
日本より寂照等少少之を渡す。然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し。
故に遵式の云く「始西より伝ふ猶月の生ずるが如し。今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云。
此等の釈の如くんば、天竺・漢土に於て仏法を失せること勿論なり。
問て云く、月氏漢土に於て仏法無きことは之を知れり。東西北の三洲に仏法無き事は何を以て之を知る。
答て云く、法華経の第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云。内の字は三洲を嫌ふ文なり。
問て曰く、仏記既に此くの如し。汝が未来記如何。答て曰く、仏記に順じて之を勘ふるに、既に後五百歳の始に相当れり、仏法必ず東土の日本より出づべきなり。
其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか。所謂(いわゆる)仏生の時、転法輪の時、入涅槃の時、吉瑞凶瑞共に前後に絶えたる大瑞なり。
仏は此れ聖人の本なり。経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気四方に遍くして夜も昼の如し。
仏御入滅の時には十二の白虹南北に亘り、大日輪光り無くして闇夜の如くなりし。
其の後正像二千年の間、内外の聖人生滅有れども此の大瑞には如かず。
而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで、或は大地震、或は大天変、宛かも仏陀の生滅の時の如し。当に知るべし、仏の如き聖人生れたまはんか、滅したまはんか。
大虚に亘て大彗星出づ。誰の王臣を以て之に対せん。当瑞大地を傾動して三たび振裂す。何れの聖賢を以て之に課せん。
当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし。惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり。
天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、華の盛なるを見て池の深きを知る」等云云。妙楽の云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云。日蓮此の道理を存して既に二十一年なり。
日来の災、月来の難、此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす。今年今月万が一も脱がれ難き身命なり。世の人疑ひ有らば委細の事は弟子に之を問へ。
幸なるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことを。悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍へ奉らんことよ。
願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん。我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん。我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん。
但し今夢の如く宝塔品の心を得たり。此の経に云く「若し須弥を接て他方の無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ為難しとせず。乃至若し仏の滅後に悪世の中に於て能く此の経を説かん是れ則ち為難し」等云云。
伝教大師云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去て深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通ず」等云云。
安州の日蓮は恐くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加へて三国四師と号く。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
文永十年〈太歳癸酉〉後五月十一日  桑門日蓮之を記す 

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