十如是事

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十如是事の概要

         【正嘉二年、聖寿三十七歳】 
我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説て云く、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等文。

初めに如是相とは、我が身の色形に顕れたる相を云ふなり。是を応身如来とも、又は解脱とも、又は仮諦とも云ふなり。
次に如是性とは、我が心性を云ふなり。是を報身如来とも、又は般若とも、又は空諦とも云ふなり。
三に如是体とは、我が此の身体なり。是を法身如来とも、又は中道とも、法性とも、寂滅とも云ふなり。
されば此の三如是を三身如来とは云ふなり。此の三如是が三身如来にておはしましけるを、よそに思ひへだてつるが、はや我が身の上にてありけるなり。かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり。

此の三如是を本として、是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり。此の十如是が百界にも千如にも、三千世間にも成りたるなり。
かくの如く多くの法門と成て八万法蔵と云はるれども、すべて只一つの三諦の法にて、三諦より外には法門なき事なり。
其の故は百界と云ふは仮諦なり。千如と云ふは空諦なり。三千と云ふは中諦なり。
空と仮と中とを三諦と云ふ事なれば、百界千如三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども、唯一つの三諦にてある事なり。
されば始の三如是の三諦と、終の七如是の三諦とは、唯一つの三諦にて、始と終と我が一身の中の理にて、唯一物にて不可思議なりければ、本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり。是を如是本末究竟等とは申したるなり。
始の三如是を本とし、終の七如是を末として、十の如是にてあるは、我が身の中の三諦にてあるなり。
此の三諦を三身如来とも云へば、我が心身より外には善悪に付けて、かみすぢ計りの法もなき物を、されば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり。

是をよそに思ふを衆生とも迷ひとも凡夫とも云ふなり。是を我が身の上と知りぬるを、如来とも覚とも聖人とも智者とも云ふなり。
かう解り明かに観ずれば、此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして、即身成仏とはいはるるなり。
譬へば春夏田を作りうへつれば、秋冬は蔵に収めて心のままに用ふるが如し。
春より秋をまつ程は久しき様なれども、一年の内に待ち得るが如く、此の覚に入て仏を顕はす程は久しき様なれども、一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。

此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども、同じく一生の内に顕はすなり。
上根の人は聞く所にて覚を極めて顕はす。中根の人は若は一日、若は一月、若は一年に顕はすなり。
下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば、一生の内に限りたる事なれば、臨終の時に至て、諸のみえつる夢も覚てうつつになりぬるが如く、
只今までみつる所の生死妄想の邪思、ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつつの覚にかへりて、法界をみれば皆寂光の極楽にて、日来賎と思ひし我が此の身が、三身即一の本覚の如来にてあるべきなり。
秋のいねには、早と中と晩との三のいね有れども、一年が内に収むるが如く、此れも上中下の差別ある人なれども、同じく一生の内に諸仏如来と、一体不二に思ひ合せてあるべき事なり。
妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは、何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば、我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり。
されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば、経の名にてはあらずして、はや我が身の体にてありけると知りぬれば、
我が身頓て法華経にて、法華経は我が身の体をよび顕し給ひける仏の御言にてこそありければ、やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり。

かく覚ぬれば、無始より已来今まで思ひならわしし、ひが思ひの妄想は昨日の夢を思ひやるが如く、あとかたもなく成りぬる事なり。
是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば、法華経を覚て如法に一部をよみ奉るにてあるなり。十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり。かく信ずるを如説修行の人とは申すなり。南無妙法蓮華経。

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