十八円満抄

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十八円満抄の概要

【弘安三年 十一月三日、最蓮房日浄、聖寿五十九歳】 
問て云く、十八円満の法門の出処如何。答て云く、源蓮の一字より起れるなり。
問て云く、此の事所釈に之を見たりや。答て云く、伝教大師の修禅寺相伝の日記に之在り。此法門は当世天台宗の奥義なり。秘すべし秘すべし。
問て云く、十八円満の名目如何。答て云く、一に理性円満、二に修行円満、三に化用円満、四に果海円満、五に相即円満、六に諸教円満、七に一念円満、八に事理円満、九に功徳円満、
十に諸位円満、十一に種子円満、十二に権実円満、十三に諸相円満、十四に俗諦円満、十五に内外円満、十六に観心円満、十七に寂照円満、十八に不思議円満〈已上〉。
問て云く、意如何。答て云く、此の事伝教大師の釈に云く「次に蓮の五重玄とは、蓮をば華因成果の義に名く。
蓮の名は十八円満の故に蓮と名く。
一に理性円満、謂く万法悉く真如法性の実理に帰す、実性の理に万法円満す、故に理性を指して蓮と為す。
二に修行円満、謂く有相無相の二行を修して万行円満す、故に修行を蓮と為す。
三に化用円満、謂く心性の本理に諸法の因分有り、此の因分に由て化他の用を具す、故に蓮と名く。
四に果海円満とは、諸法の自性を尋ねて悉く本性を捨て無作の三身を成す、法として無作の三身に非ること無し、故に蓮と名く。
五に相即円満、謂く煩悩の自性全く菩提にして、一体不二の故に蓮と為す。
六に諸教円満とは、諸仏の内証の本蓮に諸教を具足して、更に欠減なきが故に。
七に一念円満、謂く根塵相対して一念の心起るに三千世間を具するが故に。
八に事理円満とは、一法の当体而二不二にして欠減無く具足するが故に。
九に功徳円満、謂く妙法蓮華経に万行の功徳を具して三力の勝能有るが故に。
十に諸位円満とは、但だ一心を点ずるに六即円満なるが故に。
十一に種子円満とは、一切衆生の心性に本より成仏の種子を具す。権教は種子円満無きが故に皆成仏道の旨を説かず、故に蓮の義無し。
十二に権実円満、謂く法華実証の時は、実に即して而かも権、権に即して而かも実、権実相即して欠減無き故に、円満の法にして既に三身を具するが故に、諸仏常に法を演説す。
十三に諸相円満、謂く一一の相の中に皆八相を具して、一切の諸法常に八相を唱ふ。
十四に俗諦円満、謂く十界百界乃至三千の本性常住不滅なり、本位を動せず当体即理の故に。
十五に内外円満、謂く非情の外器に内の六情を具す。有情数の中に亦非情を具す。余教は内外円満を説かず。故に草木成仏すること能はず。草木非成仏の故に亦蓮と名けず。
十六に観心円満とは、六塵六作常に心相を観ず更に余義に非るが故に。
十七に寂照円満とは、文に云く、法性寂然なるを止と名く、寂にして而かも常に照すを観と名くと。
十八に不思議円満、謂く細しく諸法の自性を尋ねるに、非有非無にして諸の情量を絶して、亦三千三観並に寂照等の相無く、大分の深義本来不思議なるが故に、名けて蓮と為るなり。
此の十八円満の義を以て委く経意を案ずるに、今経の勝能並に観心の本義良とに蓮の義に由る。二乗・悪人・草木等の成仏並に久遠塵点等は蓮の徳を離れては余義有ること無し。
座主の伝に云く、玄師の正決を尋ねるに十九円満を以て蓮と名く。所謂(いわゆる)当体円満を加ふ。
当体円満とは、当体の蓮華なり。謂く諸法自性清浄にして染濁を離るるを本より蓮と名く。
一経の説に依るに、一切衆生の心の間に八葉の蓮華有り。男子は上に向ひ、女人は下に向ふ。成仏の期に至れば設ひ女人なりと雖も、心の間の蓮華速かに還て上に向ふ。
然るに今の蓮、仏意に在るの時は本性清浄当体の蓮と成る。若し機情に就ては此の蓮華譬喩の蓮と成る。
次に蓮の体とは、体に於て多種有り。
一には徳体の蓮、謂く本性の三諦を蓮の体と為す。
二には本性の蓮体、三千の諸法本より已来当体不動なるを蓮の体と為す。
三には果海真善の体、一切諸法は本是れ三身にして寂光土に住す。設ひ一法なりと雖も三身を離れざる故に三身の果を以て蓮の体と為す。
四には大分真如の体、謂く不変随縁の二種の真如を並に証分の真如と名く。本迹寂照等の相を分たず、諸法の自性不可思議なるを蓮の体と為す。
次に蓮の宗とは、果海の上の因果なり。
和尚の云く、六即の次位は妙法蓮華経の五字の中には正しく蓮の字に在り。蓮門の五重玄の中には正しく蓮の字より起る。
所以何ん、理即は本性と名く、本性の真如理性円満の故に理即を蓮と名け。果海本性の解行証の位に住するを果海の次位と名く。
智者大師、自解仏乗の内証を以て明に経旨を見給ふに、蓮の義に於て六即の次位を建立し給へり。故に文に云く此の六即の義は一家より起れりと。
然るに始覚の理に依て在纏真如を指して理即と為し、妙覚の証理を出纏真如と名く。
正く出纏の為めに諸の万行を修するが故に、法性の理の上の因果なり故に、亦蓮の宗と名く。
蓮に六の勝能有り。一には自性清浄にして泥濁に染まず〈理即〉。二には華台実の三種具足して減すること無し〈名字即。諸法即是れ三諦と解了するが故に〉。
三には初め種子より実を成ずるに至るまで華台実の三種相続して断ぜず〈観行即。念念相続して修し廃するなき故に〉。四には華葉の中に在て未熟の実真の実に似たり〈相似即〉。
五には花開き蓮現ず〈分真即〉。六には花落て蓮成ず〈究竟即〉。此の義を以ての故に六即の深義は源蓮の字より出でたり。
次に蓮の用とは、六即円満の徳に由て常に化用を施すが故に。
次に蓮の教とは、本有の三身果海の蓮性に住して、常に浄法を説き、八相成道し四句成利す。
和尚云く、証道の八相は無作三身の故に、四句の成道は蓮教の処に在り、只無作三身を指して本覚の蓮と為す。此の本蓮に住して常に八相を唱へ、常に四句の成道を作す故なり」〈已上〉。
修禅寺相伝の日記之を見るに、妙法蓮華経の五字に於て各各五重玄なり〈蓮の字の五重玄義此くの如し余は之れを略す〉。
日蓮案じて云く、此の相伝の義の如くんば万法の根源、一心三観・一念三千・三諦六即・境智の円融・本迹の所詮、源蓮の一字より起る者なり云云。
問て云く、総説の五重玄とは如何。答て云く「総説の五重玄とは、妙法蓮華経の五字即五重玄なり。妙は名、法は体、蓮は宗、華は用、経は教なり」。
又「総説の五重玄に二種有り。一には仏意の五重玄、二には機情の五重玄なり。
仏意の五重玄とは、諸仏の内証に五眼の体を具する、即ち妙法蓮華経の五字なり。仏眼は〈妙〉、法眼は〈法〉、恵眼は〈蓮〉、天眼は〈華〉、肉眼は〈経〉なり。
妙は不思議に名くが故に真空冥寂は仏眼なり。法は分別に名く、法眼は仮なり、分別の形なり。恵眼は空なり、果の体は蓮なり。華は用なる故に天眼と名く。神通化用なり。経は破迷の義に在り。迷を以て所対と為す故に肉眼と名く。
仏智の内証に五眼を具する即ち五字なり。五字又五重玄なり。故に仏智の五重玄と名く。
亦五眼即五智なり。法界体性智は〈仏眼〉、大円鏡智は〈法眼〉、平等性智は〈恵眼〉、妙観察智は〈天眼〉、成所作智は〈肉眼〉なり。
問ふ、一家には五智を立つるや。答ふ、既に九識を立つ故に五智を立つべし。前の五識は成所作智、第六識は妙観察智、第七識は平等性智、第八識は大円鏡智、第九識は法界体性智なり。
次に機情の五重玄とは、機の為に説く所の妙法蓮華経は、即ち是れ機情の五重玄なり。首題の五字に付て五重の一心三観有り。伝に云く。
妙、不思議の一心三観天真独朗の故に不思議なり。法、円融の一心三観理性円融なり総じて九箇を成す。蓮、得意の一心三観果位なり。華、複疎の一心三観本覚の修行なり。経、易解の一心三観教談なり。玄文の第二に此の五重を挙ぐ。文に随て解すべし。
不思議の一心三観とは、智者己証の法体、理非造作の本有の分なり。三諦の名相無き中に於て、強て名相を以て説くを不思議と名く。
円融とは、理性法界の処に本より已来三諦の理有り。互に円融して九箇と成る。
得意とは、不思議と円融との三観は凡心の及ぶ所に非ず。但だ聖智の自受用の徳を以て量知すべき。故に得意と名く。
複疎とは、無作の三諦は一切法に遍して本性常住なり。理性の円融に同じからず。故に複疎と名く。
易解とは、三諦円融等の義知り難き故に、且らく次第に附して其の義を分別す。故に易解と名く。此れを附文の五重と名く。
次に本意に依て亦五重の三観有り。一に三観一心〈入寂門の機〉。二に一心三観〈入照門の機〉。
三に住果還の一心三観。上の機有て知識の説を聞て、一切の法は皆是れ仏法なりと、即ち聞て真理を開す。入真已後観を極めんが為に一心三観を修す。
四に為果行因の一心三観、謂く果位究竟の妙果を聞て此の果を得んが為に種種の三観を修す。
五に付法の一心三観、五時八教等の種種の教門を聞て、此の教義を以て心に入れて観を修す。故に付法と名く」。
山家の云く〈塔中の言なり〉「亦立行相を授く。三千三観の妙行を修し、解行の精微に由て深く自証門に入る。我汝が証相を領するに、法性寂然なるを止と名け、寂にして常に照すを観と名く」と。
「問て云く、天真独朗の止観の時、一念三千・一心三観の義を立つるや。
答て云く、両師の伝不同なり。座主の云く、天真独朗とは、一念三千の観是なり。山家師の云く、一念三千而も指南と為す。
一念三千とは、一心より三千を生ずるにも非ず、一心に三千を具するにも非ず、並立にも非ず、次第にも非ず。故に理非造作と名く。
和尚の云く、天真独朗に於ても亦多種有り。乃至迹中に明す所の不変真如も亦天真なり。
但し大師本意の天真独朗とは、三千三観の相を亡し、一心一念の義を絶す。此の時は解無く行無し。
教行証の三箇の次第を経るの時、行門に於て一念三千の観を建立す。
故に十章の第七の処に於て始めて観法を明すは是れ因果階級の意なり。大師内証の伝の中に第三の止観には伝転の義無しと云云。
故に知ぬ、証分の止観には別法を伝へざることを。今止観の始終に録する所の諸事は、皆是れ教行の所摂にして実証の分に非ず。
開元符州の玄師相伝に云く、言を以て之を伝ふる時は行証共に教と成り。心を以て之を観ずる時は教証は行の体と成る。証を以て之を伝ふる時は教行亦不可思議なりと。
後学此の語に意を留めて更に忘失すること勿れ。宛かも此の宗の本意立教の元旨なり。和尚の貞元の本義源此れより出でたるなり」。
問て云く、天真独朗の法、滅後に於て何れの時か流布せしむべきや。答て云く、像法に於て弘通すべきなり。
問て云く、末法に於て流布の法の、名目如何。答て云く、日蓮の己心相承の秘法、此の答に顕すべきなり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経是なり。
問て云く、証文如何。答て云く、神力品に云く「爾の時仏上行等の菩薩に告げたまはく、要を以て之を言はば、乃至、宣示顕説す」云云。
天台大師云く「爾時仏告上行の下は第三結要付属なり」。又云く「経中の要説、要は四事に在り、総じて一経を結するに唯四ならくのみ、其の枢柄を撮て之を授与す」。
問て云く、今の文は上行菩薩等に授与するの文なり。汝何んが故ぞ己心相承の秘法と云ふや。
答て云く、上行菩薩の弘通し給ふべき秘法を日蓮先き立て之を弘む、身に当るの意に非ずや。上行菩薩の代官の一分なり。
所詮末法に入て天真独朗の法門無益なり。助行には用ゆべきなり。正行には唯南無妙法蓮華経なり。
伝教大師云く「天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す」。
今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時日本国に弘通す。是れ豈時国相応の仏法に非ずや。
末法に入て天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は、必ず無間大城に墜ちんこと疑無し。
貴辺年来の権宗を捨てて日蓮が弟子と成り給ふ。真実時国相応の智人なり。
総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者学匠の身と為ても地獄に墜て何の詮か有るべき。所詮時時念念に南無妙法蓮華経と唱ふべし。
上に挙ぐる所の法門は御存知為りと雖も書き進らせ候なり。十八円満等の法門能く能く案じ給ふべし。
並に当体蓮華の相承等、日蓮が己証の法門等前前に書き進らせしが如し。委くは修禅寺相伝日記の如し。天台宗の奥義之に過ぐべからざるか。
一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出でず。敢て忘失すること勿れ敢て忘失すること勿れ。
伝教大師云く「和尚慈悲有て一心三観を一言に伝ふ」。玄旨伝に云く「一言の妙旨なり、一教の玄義なり」云云。
寿量品(じゅりょうほん)に云く「毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速に仏身を成就することを得せしめん」云云。
毎自作是念の念とは、一念三千、生仏本有の一念なり。秘すべし秘すべし。恐恐謹言。
弘安三年十一月三日  日蓮花押 
最蓮房に之を送る。

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