十章抄

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十章抄の概要

【文永八年五月、三位房日行、聖寿五十歳、真筆−断存】 
華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり。而れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云。法相・三論も又又かくのごとし。
天台宗、彼の義に同ぜば別宗と立ててなにかせん。例せば法華・涅槃は一つ円なり。先後に依て涅槃尚をと(劣)るとさだむ。爾前の円・法華の円を一とならば、先後によりて法華豈劣らざらんや。
詮ずるところ、この邪義のをこり此妙彼妙円実不異、円頓義斉、前三為麁等の釈にばかされて起る義なり。
止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ。又二の巻の四修三昧は多分は念仏と見へて候なり。
源濁れば流清からずと申して、爾前の円と法華経の円と一つと申す者が、止観を人によませ候へば、但念仏者のごとくにて候なり。
但止観は迹門より出たり、本門より出たり、本迹に亘ると申す三つの義いにしえよりこれあり。これは且くこれををく。
「故に知んぬ、一部の文共に円乗開権の妙観を成す」と申して、止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり。
爾前の経々をひき、乃至外典を用て候も、爾前・外典の心にはあらず。文をばかれども義をばけづりすてたるなり。
「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して、文殊問・方等・請観音等の諸経を引て四種を立つれども、心は必ず法華経なり。
「諸文を散引して一代の文体を該ども、正意は唯二経に帰す」と申すこれなり。
止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。
前六重は修多羅に依ると申して、大意より方便までの六重は先き四巻に限る。これは妙解迹門の心をのべたり。
今妙解に依て以て正行を立つと申すは、第七の正観十章十乗の観法、本門の心なり。一念三千此れよりはじまる。
一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず。何に況や爾前に分たへたる事なり。
一念三千の出処は略開三の十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限るべし。
されば円の行まちまちなり。沙をかずへ、大海をみる、なを円の行なり。
何に況や爾前の教をよみ、弥陀等の諸仏の名号を唱ふるをや。但これらは時々の行なるべし。
真実に円の行に順じて、常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。
日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。
法華経に十七種の名あり。これ通名なり。別名は三世の諸仏皆、南無妙法蓮華経とつけさせ給ひしなり。
阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。
此等をしらざる天台・真言等の念仏者、口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申すあひだ、在家の者は一向に念ふよう、天台・真言等は念仏にてありけり。
又善導・法然が一門は、すなわち、天台・真言の人々も実に自宗が叶ひがたければ念仏を申すなり。
わづらわしくかれを学せんよりは、法華経をよまんよりは、一向に念仏を申して浄土にして法華経をもさとるべしと申す。
此の義日本国に充満せし故に、天台・真言の学者、在家の人々にすてられて六十余州の山寺はうせはてぬるなり。
九十六種の外道は仏恵比丘の威儀よりをこり、日本国の謗法は爾前の円と法華の円と一つという義の盛なりしよりこれはじまれり。
あわれなるかなや。外道は常・楽・我・浄と立てしかば、仏、世にいでまさせ給ては苦・空・無常・無我ととかせ給ひき。
二乗は空観に著して大乗にすすまざりしかば、仏誡めて云く、五逆は仏のたね、塵労の疇(ともがら)は如来の種、二乗の善法は永不成と嫌はせ給ひき。
常・楽・我・浄の義こそ外道はあしかりしかども、名はよかりしぞかし。而れども仏、名をいみ給ひき。
悪だに仏の種となる。ましてぜん(善)はとこそをぼうれども、仏二乗に向ては悪をば許して善をばいましめ給ひき。
当世の念仏は法華経を国に失ふ念仏なり。設ひぜん(善)たりとも、義分あたれりというとも、先ず名をいむべし。
其の故は仏法は国に随ふべし。天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あり、わかれたり。震旦亦復是くの如し。
日本国は一向大乗の国、大乗の中の一乗の国なり。華厳・法相・三論等の諸大乗すら猶相応せず。何に況や小乗の三宗をや。
而るに当世にはやる念仏宗と禅宗とは、源方等部より事をこれり。法相・三論・華厳の見を出ずべからず。
南無阿弥陀仏は爾前にかぎる。法華経にをいては往生の行にあらず。開会の後仏因となるべし。
南無妙法蓮華経は四十余年にわたらず、但法華八箇年にかぎる。南無阿弥陀仏に開会せられず。
法華経は能開、念仏は所開なり。法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも、南無阿弥陀仏並に十方の諸仏の功徳を備へたり。譬ば如意宝珠の如し、金銀等の財を備へたるか。
念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐすべからず。譬へば金銀等の如意宝珠をかねざるがごとし。
譬へば三千大千世界に積みたる金銀等の財も、一つの如意宝珠をばかうべからず。
設ひ開会をさとれる念仏なりとも、猶体内の権なり、体内の実に及ばず。
何に況や当世に開会を心得たる智者も少なくこそをわすらめ。設ひさる人ありとも、弟子・眷属・所従なんどはいかんがあるべかるらん。
愚者は智者の念仏を申し給ふをみては念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候はじ。
又南無妙法蓮華経と申す人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候はんずらん。
当世に父母を殺す人よりも、謀反ををこす人よりも、天台・真言の学者と云はれて、善公が礼讃をうたひ、然公が念仏をさえずる人々はをそろしく候なり。
この文を止観よみあげさせ給て後、ふみのざ(文座)の人にひろめてわたらせ給ふべし。止観よみあげさせ給はば、すみやかに御わたり候へ。
沙汰の事は本より日蓮が道理だにもつよくば、事切れん事かたしと存じて候ひしが、人ごとに問註は法門にはにず、いみじうしたりと申し候なるときに、事切るべしともををぼへ候はず。
少弼殿より平三郎左衛門のもとにわたりて候とぞ、うけ給はり候。
この事のび候わば問註はよきと御心得候へ。又いつにてもよも切れぬ事は候はじ。又切れずば日蓮が道理とこそ人々はをもい候はんずらめ。くるしく候はず候。
当時はことに天台・真言等の人々の多く来て候なり。事多き故に留め候ひ了ぬ。

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