本因妙抄

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本因妙抄の概要

【弘安五年()十月十一日、日興、聖寿六十一歳】 
本因妙の行者日蓮之を記す
予が外用の師伝教大師生歳四十二歳の御時、仏立寺〈天台山仏隴寺〉の大和尚に値ひ奉り、義道を落居し、生死一大事の秘法を決したもうの日、大唐の貞元二十一年〈太歳乙酉〉五月三日三大章疏を伝へ、各七面七重の口決を以て治定し給へり。
所謂玄義七面の決とは、正釈五重列名に約して決したもう。
一に依名判義の一面。名とは法の分位に於て施設す。体とは宰主を義と為す。宗とは所作の究竟なり、受持本因の所作に由て口唱本果の究竟を得。用とは証体本因本果の上の功能徳行なり。教とは誡を義と為す。
誡とは本の為の迹なれば、迹は即ち有名無実・無得道なるを、実相の名題は本迹同じければ、本迹一致と思惟すべき事を大に誡んが為に、三種の教相を起て種熟脱の論不論を立つる者なり。経文解釈明白なり。
此くの如く文文句句の名妙正の深義、本迹勝劣の本意を顕し給ふ者なり。
然りと雖も天台・伝教の御弘通は偏に理の上の法相、迹化付属像法の理位、観行五品の教主なれば、迹を表と為して衆を救ひ本を隠して裏に用る者なり。甚深甚深、秘すべし秘すべし。
二に仏意機情二意の一面。仏意は観行・相似を本と為し、機情は理即・名字を本と為す。
何れも体用を離れず、体用は法華の心智に依て一代五時の次第浅深を開拓す。
次に機情とは大通結縁の衆の為に四味の調養を設け法華に来入す。
本迹二門乃至文文句句、此の二意を以て分別すべき者なり。
三に四重浅深の一面。名の四重有り。一には名体無常の義、爾前の諸経諸宗なり。二には体実名仮、迹門始覚無常なり。三には名体倶実、本門本覚常住なり。四には名体不思議、是れ観心直達の南無妙法蓮華経なり。湛然の云く「雖脱在現具騰本種」云云。
次に体の四重とは、一に三諦隔歴の体、爾前権教なり。二に理性円融の体、迹門十四品なり。三に三千本有の体、本門十四品なり。四に自性不思議の体、我が内証の寿量品(じゅりょうほん)事行の一念三千なり。
次に宗の四重とは、一に因果異性の宗、方便権教なり。二に因果同性の宗、是れ迹門なり。三に因果並常の宗、即ち本門なり。四に因果一念の宗、文に云く「芥爾も心有れば即ち三千を具す」と。是れ即ち末法純円結要付属の妙法なり云云。
次に用の四重とは、一に神通幻化の用、今経已前に明かす所の仏菩薩出仮利生の事。二に普賢色身の用、即ち一身の中に於て十界を具する事なり。本迹一代五時に亘る。三に無作常住の用、証道八相有り、無作自在の事なり。四に一心の化用、或説己身等なり。
次に教の四重とは、一には但顕隔理の教、権小なり。二には教即実理の教、迹門なり。三には自性会中の教、応仏の本門なり。四には一心法界の教、寿量品(じゅりょうほん)の文の底の法門、自受用報身如来の真実の本門、久遠一念の南無妙法蓮華経。雖脱在現具騰本種の勝劣是なり。
第四に八重浅深の一面なり。名の八重とは、一に名体永別の名、二に名体不離の名、三に従体流出の名、四に名体具足の名、五に本分常住の名、六に果海妙性の名、七に無相不思議の名、八に自性己己の名、乃至教知るべし云云。文に任せて思惟すべきなり。
第五に還住当文の一面。四八の浅深を以て本迹勝劣を知るべし。
第六に但入己心の一面。始め大法東漸より第十の判教に至るまで、文の生起を閣おき一向に心理の勝劣に入れて正意を成すべし。
謂く、大法とは即ち行者の己心の異名なり云云。釈の意は文義の広博を離れて首題の理を専にすと釈し給ふなり。
第七に出離生死の一面。心は一代応仏の寿量品(じゅりょうほん)を迹と為し、内証の寿量品(じゅりょうほん)を本と為し、釈尊久遠名字即の身と位とに約して南無妙法蓮華経と唱へ奉る、是を出離生死の一面と名く。「本迹約身約位」の釈、之を思ふべき者なり〈已上〉。玄文畢る。
文句の七面の決とは。一に依名の一面、其の義上の如し。
二に感応の一面、三時弘経に亘るべし。爾前迹門の正像二千年弘経の感応より、本門末法弘通の感応は真実真実勝るなり。
三に四教の一面、四に五時の一面、五に本迹の一面、六に体用の一面、七に入己心の一面、悉く皆其の心前に同じ。
智威大師の伝には、玄義文句の両部には爾前迹門に各三十重の浅深を以て口決し給へり。具には伝教大師七面決の如し。
摩訶止観(まかしかん)一部には十重顕観を立てて是を通じ給へり。
一は待教立観。爾前本迹の三教を破して不思議実理の妙法蓮華経の観を立つ。文に云く「円頓者初縁実相」云云。
迹門を理具の一念三千と云ふ、脱益の法華は本迹共に迹なり。本門を事行の一念三千と云ふ、下種の法華は独一の本門なり。是を不思議実理の妙観と申すなり。
二に廃教立観。心は権教並に迹執を捨て、本門首題の理を取て事行に用ひよとなり。
三に開教顕観。文に云く「一切諸法本是仏法、三諦の理を具するを名けて仏法と為す。云何んぞ教を除かん」云云。文意は観行理観の一念三千を開して、名字事行の一念三千を顕す。大師の深意・釈尊の慈悲・上行所伝の秘曲是なり。
四に会教顕観。教相の法華を捨てて観心の法華を信ぜよと。
五に住不思議顕観。文に云く「理は造作に非ず故に天真と曰ふ、証智円明なるが故に独朗と云ふ」云云。釈の意は、口唱首題の理に造作無し。今日熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為す。
信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即仏身なり。是を天真独朗の即身成仏と名く。
問て曰く、前代に此の法門を知れる人之有りや。答て曰く、之有り。求めて云く、誰人ぞや。示して云く、釈尊是なり。
尋ねて云く、仏を除き奉て余に之を知れる人師論師有りや。答て曰く、天台の云く「天親竜樹 内鑑冷然 外適時宜」と。
今日の南無妙法蓮華経は南岳・天台・妙楽・伝教の内鑑冷然 外適時宜なり。内鑑冷然 外適時宜の修行の日は本迹一致なり。
有智無智を嫌はず「円頓者初縁実相の理は造作に非ざる故に天真と曰ふ、証智円明の故に独朗と曰ふ」と云て、理位観行に趣かしめて利益を為し、末法の時を待つ者なり。
故に天台云く「但当時大利益を獲るのみに非ず、後五百歳遠く妙道に霑ふ」云云。
天台・章安・妙楽・伝教等の大聖は、内証は本迹勝劣、外用は本迹一致なり。
其の故は教相も観心も相似・観行解了の人師、時機亦像法なり。
付属は即妄授余人、御身も亦迹化の衆観音・妙音・文殊・薬王等の化身なり。
今末法は本化の薩■上行等の出世の境、本門流宣の時剋なり。何ぞ理観を用て事行を修せざらんや。
予が所存は内証・外用共に本迹勝劣なり。若し本迹一致と修行せば、本門の付属を失ふ物怪なり。
本迹の不同は処処に之を書す。然りと雖も宿習拙き者本迹に迷倒せんか。
若し本迹勝劣を知らずんば、未来の悪道最も不便なり。宿業を恥じず還て予を恨むべきか。
我が弟子等の中にも天台・伝教の解了の理観を出でず、本迹に就て一往勝劣再往一致の謬義を存して、自他を迷惑せしめんの条宿習の然らしむる所か。
閻浮提第一の秘事為りと雖も、万年救護の為に之を記し留る者なり。
我が未来に於て予が仏法を破らん為に、一切衆生の元品の大石第六天の魔王、師子身中の蝗蟲と成て、名を日蓮に仮て本迹一致と云ふ邪義を申し出して、多の衆生を当に悪道に引くべし。
若し道心有らん者は彼等の邪師を捨てて、宜く予が正義に随ふべし。
正義とは本迹勝劣の深秘、具騰本種の実理なり。日蓮一期の大事なれば、弟子等にも朝な夕なに教へ、亦一期の所造等悉く此の義なり。
然りと雖も迹執を出でず、或は軽〈見惑〉或は蔑〈思惑〉或は痴〈塵沙惑〉或は迷〈無明惑〉故に日蓮が立義を用ひざるか。
予が教相・観心は理即名字・愚悪愚見の為なり。日蓮は名字即の位、弟子檀那は理即の位なり。
上行所伝結要付属の行儀は、教観・判乗、皆名字即五味の主の修行なり。
故に教相の次第要用に依るべし。唯大綱を存する時は余は網目を事とせず。
彼は網目、此れは大綱、彼は網目の教相の主、此れは大綱首題の主。
恐くは日蓮の行儀には天台・伝教も及ばず。何に況や他師の行儀に於てをや。
唯在世八箇年の儀式を移して、滅後末法の行儀と為す。然りと雖も仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり。
彼の一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等凡夫の為には教相たり。
理即但妄の凡夫の為の観心は、余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり。
是くの如く深義を知らざる僻人出来して、予が立義は教相辺外と思ふべき者なり。此等は皆宿業の拙き修因感果の至極せるなるべし。
彼の天台大師には三千人の弟子ありて、章安一人朗然なり。伝教大師は三千人の衆徒を置く、義真已後は其れ無きが如し。
今以て此くの如し。数輩の弟子有りと雖も、疑心無く正義を伝ふる者は希にして一二の小石の如し。秘すべきの法門なり。
第六に住教顕観。七に住教非観。八に覆教顕観。九に住教用観。十に住観用教。此の五重は上の五重の如し思惟すべし。
問て云く、本迹雖殊不思議一、本迹の教に於て別して不思議の観理を顕はす故にと云云。
機情に約すれば本迹に於て久近の異有るべし、是れ一往の浅義なり。内証に約して之を論すれば勝劣有るべからず、再往の深義は不思議一なり云云。如何が意を得べけんや。
答て云く、住教顕観は煩悩即菩提、住教非観は法性寂然、覆教顕観は名字判教、住教用観は不思議一、住観用教は以顕妙円と申す大事是なり。
教観不思議天然本性の処に独一法界の妙観を立つ。是を不思議の本迹勝劣と云ふ。
亦絶待不思議の内証不可得・言語道断の勝劣は、天台・妙楽・伝教の残す所、我が家の秘密観心直達の勝劣なり。
迹と云ふ名ありと雖も、有名無実・本無今有の迹門なり。
実に不思議の妙法は唯寿量品(じゅりょうほん)に限る、故に不思議一と釈するなり。
迹門の妙法蓮華経の題号は、本門に似ると雖も義理天地を隔つ、成仏亦水火の不同なり。
久遠名字の妙法蓮華経の朽木書なる故を顕さんが為に一と釈するなり。
末学疑網を残すこと勿れ、日蓮霊山会上多宝塔中に於て、親たり釈尊より直授し奉る秘法なり。甚深甚深、秘すべし秘すべし、伝ふべし伝ふべし。
摩訶止観(まかしかん)七面口決とは、依名判義、附文元意、寂照一相、教行証、六九二識、絶諸思慮、出離生死の一面〈已上〉。
伝教大師云く「一切諸法 従本已来 不生不滅 性相凝然 釈迦閉口 身子絶言」云云。是は迹門、天台止観の内証なり。
本門日蓮の止観は、釈迦は口を開き文殊は言語す。迹門不思議不可説、本門不思議可説の証拠の釈是なり。
亦三大部に於て一同十異・四同六異之有り。伝教、仏立寺より之を口決す。
一同とは名同なり。十異とは、名同義異・所依異・観心異・傍正異・用教異・対機異・顕本理異・修行異・相承異・元旨異なり。
四同とは名同・義同・所依同・所顕同なり。六異とは、釈異・大綱網目異・本末異・観心異・教内外観異・自行化他異・是なり。
今要を以て之を言はば、迹・本・観心、同名異義なり。始終本末共に修行も覚道も時機も感応も皆勝劣なり。
此の下二十四番勝劣なり。彼の本門は我が迹門。彼の勝は此の劣。彼の深義は予が浅義。彼の深理は此の浅理。彼が極位は此の浅位。彼の極果は此の初心。彼の観心は此の教相。彼は台星の国に出生す、此れは日天の国に出世す。彼は薬王此れは上行。
彼は解了の機を利す、此れは愚悪の機を益す。彼の弘通は台星所居の高嶺なり、此の弘経は日王能住の高峰なり。彼は上機に教へ、此れは下機を訓ず。彼は一部を以て本尊と為し、此れは七字を本尊と為す。
彼は相対開会を表と為し、此れは絶対開会を表と為す。彼は熟脱、此れは下種。彼は衆機の為に円頓者初縁実相と示し、此れは万機の為に南無妙法蓮華経と勧む。彼は悪口怨嫉、此れは遠島流罪。
彼は一部を読誦すと雖も二字を読まざること之在り、此れは文文句句悉く之を読む。彼は正直の妙法の名を替へて一心三観と名く、有の儘の大法に非ざれば帯権の法に似たり、此れは信謗彼此決定成菩提、南無妙法蓮華経と唱へかく。
彼は諸宗の謬義を粗書き顕すと雖も未だ言説せず、此れは身命を惜まず他師の邪義を糺し三類の強敵を招く。彼は安楽普賢の説相に依り、此れは勧持不軽の行相を用ゆ。彼は一部に勝劣を立て、此れは一部を迹と伝ふ。
彼は応仏のいきをひかふ、此は寿量品(じゅりょうほん)の文底を用ゆ。彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千・一心三観、此れは久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法を直に唱ふ。
此れ等の深意は、迹化の衆普賢・文殊・観音・薬王等の大菩薩にも付属せざる所の大事なれば知らざる所の秘法なり。況や凡師に於てをや。
若し末法に於て本迹一致と修行し、所化等に教ゆる者ならば、我が身も五逆罪を造らずして無間に堕ち、其れに随従せんともがらも阿鼻に沈まん事疑無き者なり。
此の書一見の人人は、理〈普賢〉智〈文殊〉一言の薩■、生死絶断の際、定光覚悟の大菩薩なり。
伝教云く「文殊の利剣は六輪に通じ十二の生類を切断す。一刀を下して〈妙法〉万方に勅するに、自然に由お三諦を出だす見聞覚知に明なり。
此の一言の三際を示すに一言に如かず。若し未達の者も一頌を開くに〈題目〉三般〈三諦〉同じく通知せざること無し。生仏自ら一現なる、是を一言の妙旨・一教の玄義と謂ふ」云云。
天台の云く「一言三諦 刹那成道 半偈成道」云云。
伝教の云く「仏界の智は九界を境と為し、九界の智は仏界を境と為す。境智互に冥薫して凡聖常恒なる、是を刹那成道と謂ひ、三道即三徳と解れば諸悪■に真善なる、是を半偈成道と名く」。
今会釈して云く、諸仏菩薩の定光三昧も、凡聖一如の証道・刹那半偈の成道も、我が家の勝劣修行の南無妙法蓮華経の一言に摂し尽す者なり。
此の血脈を列ぬる事は、末代浅学の者の予が仮字の消息を蔑如し、天台の漢字の止観を見て、眼目を迷はし心意を驚動し、或は仮字を漢字と成し、新
或は止観明静前代未聞の見に耽り、本迹一致の思を成す、我が内証の寿量品(じゅりょうほん)を知らずして止観に同じ、但自見の僻見を本として予が立義を破失して悪道に堕つべき。
故に天台三大章疏の奥伝に属けて、天台・伝教等の秘し給へる正義、生死一大事の秘伝を書き顕し奉る事は、且は恐れ有り且は憚り有り、広宣流布の日、公亭に於て応に之を披覧し奉るべし。
会通を加へる事は且は広宣流布の為、且は末代浅学の為なり。又天台・伝教の釈等も予が真実の本懐に非ざるか。未来嬰児(えいじ)の弟子等彼を本懐かと思ふべきものか。
去る文永の免許の日、爾前迹門の謗法を対治し、本門の正義を立て被れば、不日に豊歳ならむと申せしかば、聞く人毎に舌を振い耳を塞ぐ。
其の時方人一人も無く、唯我と〈日蓮〉与我〈日興〉計りなり。
問て云く、寿量品(じゅりょうほん)文底の大事と云ふ秘法如何。答て云く、唯密の正法なり。秘すべし秘すべし。
一代応仏のいきをひかえたる方は、理の上の法相なれば、一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を、脱益の文の上と申すなり。
文の底とは久遠実成(くおんじつじょう)の名字の妙法を余行にわたさず、直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり。
権実は理〈今日本迹理〉なり、本迹は事〈久遠本迹事〉なり。亦権実は約智約教〈一代応仏本迹〉、本迹〈久遠本迹〉は約身〈名字身〉約位〈名字即位〉。
亦云く雖脱在現具騰本種といへり。釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時日蓮が名字即の身に移せり。
理は造作に非ざる故に天真と曰ひ、証智円明の故に独朗と云ふの行儀、本門立行の血脈之を注す。秘すべし秘すべし。
又日文字の口伝、産湯の口決二箇は両大師の玄旨にあつ。本尊七箇の口伝は、七面の決に之を表す。教化弘経の七箇の伝は弘通者の大要なり。
又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし秘すべし、伝ふべし。
法華本門宗血脈相承畢ぬ 
弘安五〈太歳壬午〉十月十一日  日蓮花押 

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