白米一俵御書

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白米一俵御書の概要

【建治二年、南条時光、聖寿五十五歳、真筆−完存】 
 白米一俵・けいも(毛芋)ひとたわら(一俵)・こふのり(河苔)ひとかご(一篭)、御つかいをもつてわざわざをくられて候。
人にも二つの財あり。一には衣、二には食なり。経に云く「有情は食に依て住す」云云。文の心は、生ある者は衣と食とによつて世にすむと申す心なり。
魚は水にすむ、水を宝とす。木は地の上にをいて候、地を財とす。人は食によつて生あり、食を財とす。
いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり。遍満三千界無有直身命ととかれて、三千大千世界にみてて候財も、いのち(命)にはかへぬ事に候なり。
さればいのちはともしび(灯)のごとし。食はあぶら(油)のごとし。あぶらつくればともしび(灯)きへぬ。食なければいのちたへぬ。
一切のかみ(神)仏をうやまいたてまつる始の句には、南無と申す文字ををき候なり。
南無と申すはいかなる事ぞと申すに、南無と申すは天竺のことばにて候。漢土・日本には帰命と申す。帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり。
我が身には分に随て妻子・眷属・所領・金銀等をもてる人人もあり、又財なき人人もあり。
財あるも財なきも、命と申す財にすぎて候財は候はず。さればいにしへの聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。
いわゆる雪山童子と申せし人は、身を鬼にまかせて八字をならへり。薬王菩薩と申せし人は、臂をやいて法華経に奉る。
我が朝にも聖徳太子と申せし人は、手のかわ(皮)をはいで法華経をかき奉り、天智天皇と申せし国王は、無名指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る。
此れ等は賢人聖人の事なれば、我等は叶ひがたき事にて候。ただし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。
志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。
観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをわぐにて候ぞ。
うへたるよ(世)に、これはなしては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、ただひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。
これは薬王のひぢをやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にも、あいをとらぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供やう(養)、凡夫のためには理くやう(供養)。止観の第七の観心の檀ばら(波羅)蜜と申す法門なり。
まことのみち(道)は世間の事法にて候。金光明経(こんこうみょうきょう)には「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」ととかれ、涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を、
妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」との経文に、引き合せて心をあらわされて候には、彼れ彼れの二経は深心の経経なれども、彼の経経はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。
法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
爾前の経の心心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地則草木なり。
爾前の経経の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。
此れをもつてしろしめせ。白米は白米にはあらず、すなはち命なり。
美食ををさめぬ人なれば力をよばず、山林にまじわり候ひぬ。されども凡夫なればかん(寒)も忍びがたく、熱をもふせぎがたし。食ともし。
表○目が万里の一食忍びがたく、思子孔が十旬九飯堪ゆべきにあらず。読経の音も絶えぬべし。観心の心をろそかなり。
しかるにたまたまの御とぶらいただ事にはあらず。教主釈尊の御すすめか、将又過去宿習の御催か、方方紙上に尽し難し。恐恐謹言。

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