秋元御書

ホームへ 資料室へ 御書の目次へ メール

秋元御書の概要

 弘安三年一月 五十九歳御作

                 於身延
 筒御器一具付三十並に盞付六十送り給び候い畢んぬ、御器と申すはうつはものと読み候、大地くぼければ水たまる青天浄ければ月澄めり、月出でぬれば水浄し雨降れば草木昌へたり、器は大地のくぼきが如し水たまるは池に水の入るが如し、月の影を浮ぶるは法華経の我等が身に入らせ給うが如し、器に四の失あり一には覆と申してうつぶけるなり又はくつがへす又は蓋をおほふなり、二には漏と申して水もるなり、三には・と申してけがれたるなり水浄けれども糞の入りたる器の水をば用ゆる事なし、四には雑なり飯に或は糞或は石或は沙或は土なんどを雑へぬれば人食ふ事なし、器は我等が身心を表す、我等が心は器の如し口も 器耳も器なり、法華経と申すは仏の智慧の法水を我等が心に入れぬれば或は打ち返し或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆ひ或は口に唱へじと吐き出しぬ、譬えば器を覆するが如し、或は少し信ずる様なれども又悪縁に値うて信心うすくなり或は打ち捨て或は信ずる日はあれども捨つる月もあり_

是は水の漏が如し、或は法華経を行ずる人の一口は南無妙法蓮華経一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し、法華経の文に「但大乗経典を受持することを楽うて乃至余経の一偈をも受けざれ」等と説くは是なり、世間の 学匠は法華経に余行を雑えても苦しからずと思へり、日蓮もさこそ思い候へども経文は爾らず、譬えば后の大王の種子を妊めるが又民ととつげば王種と民種と雑りて天の加護と氏神の守護とに捨てられ其の国破るる縁となる、父二人出来れば王にも あらず民にもあらず人非人なり、法華経の大事と申すは是なり、種熟脱の法門法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり、南無阿弥陀仏は仏種にはあらず真言五戒等も種ならず、能く能く此の事を習い給べ し是は雑なり、此の覆漏・雑の四の失を離れて候器をば完器と申してまたき器なり、塹つつみ漏らざれば水失る事なし、信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし、今此の筒の御器は固く厚く候上漆浄く候へば法華経の御信力の堅固なる事を 顕し給うか、毘沙門天は仏に四つの鉢を進らせて四天下第一の福天と云はれ給ふ、浄徳夫人は雲雷音王仏に八万四千の鉢を供養し進らせて妙音菩薩と成り給ふ、今法華経に筒御器三十盞六十進らせて争か仏に成らせ給はざるべき。

 抑日本国と申すは十の名あり扶桑野馬台水穂秋津洲等なり、別しては六十六箇国島二つ長さ三千余里広さは不定なり、或は百里或は五百里等、五畿七道郡は五百八十六郷は三千七百二十九田の代は上田一万一千一百二十町乃至八十八万五千五百六十七町  人数は四十九億八万九千六百五十八人なり、神社は三千一百三十二社寺は一万一千三十七所男は十九億九万四千八百二十八人女は二十九億九万四千八百三十人なり、其の男の中に只日蓮第一の者なり、何事の第一とならば男女に悪まれたる第一の者なり  、其の故は日本国に国多く人多しと云へども其の心一同に南無阿弥陀仏を口ずさみとす、阿弥陀仏を本尊とし九方を嫌いて西方を願う、設い法華経を行ずる人も真言を行ふ人も、戒を持つ者も智者も愚人も余行を傍として念仏を正とし罪を消さん謀は名  号なり、_

故に或は六万八万四十八万返或は十返百返千返なり、而るを日蓮一人阿弥陀仏は無間の業禅宗は天魔の所為真言は亡国の悪法律宗持斎等は国賊なりと申す故に上一人より下万民に至るまで父母の敵宿世の敵謀叛夜討強盗よりも或は畏れ或は瞋り或は詈り或 は打つ、是を・る者には所領を与へ是を讃むる者をば其の内を出だし或は過料を引かせ殺害したる者をば褒美なんどせらるる上両度まで御勘気を蒙れり、当世第一の不思議の者たるのみならず人王九十代仏法渡りては七百余年なれどもかかる不思議の者なし 、日蓮は文永の大彗星の如し日本国に昔より無き天変なり、日蓮は正嘉の大地震の如し秋津洲に始めての地夭なり、日本国に代始まりてより已に謀叛の者二十六人第一は大山の王子第二は大石の山丸乃至第二十五人は頼朝第二十六人は義時なり、二十四人 は朝は責められ奉り獄門に首を懸けられ山野に骸を曝す、二人は王位を傾むけ奉り国中を手に拳る王法既に尽きぬ、此等の人人も日蓮が万人に悪まるるに過ぎず、其の由を尋ぬれば法華経には最第一の文あり、然るを弘法大師は法華最第三慈覚大師は 法華最第二智証大師は慈覚の如し、今叡山東寺園城寺の諸僧法華経に向いては法華最第一と読めども其の義をば第二第三と読むなり、公家と武家とは子細は知ろしめさねども御帰依の高僧等皆此の義なれば師檀一同の義なり、其の外禅宗は教外別伝と 云云法華経を蔑如する言なり、念仏宗は千中無一未有一人得者と申す心は法華経を念仏に対して挙げて失ふ義なり、律宗は小乗なり正法の時すら仏免し給う事なし況や末法に是を行じて国主を誑惑し奉るをや、妲己妹喜褒似の三女が三王を誑らかして 代を失いしが如し、かかる悪法国に流布して法華経を失う故に安徳尊成等の大王天照太神正八幡に捨てられ給いて或は海に沈み或は島に放たれ給い相伝の所従等に傾けられ給いしは天に捨てられさせ給う故ぞかし、法華経の御敵を御帰依有りしかども 是を知る人なければ其の失を知る事もなし、「知人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」とは是なり。

 日蓮は智人に非ざれども蛇は竜の心を知り烏の世の吉凶を計るが如し、此の事計りを勘へ得て候なり、此の事を申すならば須臾に失に当るべし申さずば又大阿鼻地獄に堕つべし。

 法華経を習うには三の義あり一には謗人、勝意比丘苦岸比丘無垢論師大慢婆羅門等が如し、彼等は三衣を身に纒い一鉢を眼に当てて二百五十戒を堅く持ちて而も大乗の讎敵と成りて無間大城に堕ちにき、今日本国の弘法慈覚智証等は持戒は彼等が如  く智慧は又彼比丘に異ならず、但大日経真言第一法華経第二第三と申す事百千に一つも日蓮が申す様ならば無間大城にやおはすらん、此の事は申すも恐れあり増して書き付くるまでは如何と思い候へども法華経最第一と説かれて候に是を二三等と読  まん人を聞いて人を恐れ国を恐れて申さずば即是彼怨と申して一切衆生の大怨敵なるべき由経と釈とにのせられて候へば申し候なり、人を恐れず世を憚からず云う事我不愛身命但惜無上道と申すは是なり、不軽菩薩の悪口杖石も他事に非ず世間を恐  れざるに非ず唯法華経の責めの苦なればなり、例せば祐成時宗が大将殿の陣の内を簡ばざりしは敵の恋しく恥の悲しかりし故ぞかし、此れは謗人なり。

 謗家と申すは都て一期の間法華経を謗せず昼夜十二時に行ずれども謗家に生れぬれば必ず無間地獄に堕つ、例せば勝意比丘苦岸比丘の家に生まれて或は弟子となり或は檀那と成りし者共が心ならず無間地獄に堕ちたる是なり、譬えば義盛が方の者軍  をせし者はさて置きぬ腹の内に有りし子も産を待たれず母の腹を裂かれしが如し、今日蓮が申す弘法慈覚智証の三大師の法華経を正しく無明の辺域虚妄の法と書かれて候は若し法華経の文実ならば叡山東寺園城寺七大寺日本一万一千三十七所の寺寺  の僧は如何が候はんずらん、先例の如くならば無間大城疑無し、是れは謗家なり。

 謗国と申すは謗法の者其の国に住すれば其の一国皆無間大城になるなり、大海へは一切の水集り其の国は一切の禍集まる、譬えば山に草木の滋きが如し、

三災月月に重なり七難日日に来る、飢渇発れば其の国餓鬼道と変じ疫病重なれば其の国地獄道となる軍起れば其の国修羅道と変ず、父母兄弟姉妹をば簡ず妻とし夫と憑めば其の国畜生道となる、死して三悪道に堕つるにはあらず現身に其の国四悪道と 変ずるなり、此れを謗国と申す。

 例せば大荘厳仏の末法師子音王仏の濁世の人人の如し、又報恩経に説かれて候が如くんば過去せる父母兄弟姉妹一切の人死せるを食し又生たるを食す、今日本国亦復是くの如し真言師禅宗持斎等人を食する者国中に充満せり、是偏に真言の邪法より  事起れり、竜象房が人を食いしは万が一顕れたるなり、彼に習いて人の肉を或は猪鹿に交へ或は魚鳥に切り雑へ或はたたき加へ或はすしとして売る、食する者数を知らず皆天に捨てられ守護の善神に放されたるが故なり、結句は此の国他国より責め  られ自国どし打ちして此の国変じて無間地獄と成るべし、日蓮此の大なる失を兼て見し故に与同罪の失を脱れんが為め仏の呵責を思う故に知恩報恩の為め国の恩を報ぜんと思いて国主並に一切衆生に告げ知らしめしなり。

 不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり、五戒の初めにも不殺生戒八戒十戒二百五十戒五百戒梵網の十重禁戒華厳の十無尽戒瓔珞経の十戒等の初めには皆不殺生戒なり、儒家の三千の禁の中にも大辟こそ第一にて候へ、其の故は「・満三千界無  有直身命」と申して三千世界に満つる珍宝なれども命に替る事はなし、蟻子(ぎし)を殺す者尚地獄に堕つ況や魚鳥等をや青草を切る者猶地獄に堕つ況や死骸を切る者をや、是くの如き重戒なれども法華経の敵に成れば此れを害するは第一の功徳と説き給う  なり、況や供養を展ぶ可けんや、故に仙予国王は五百人の法師を殺し覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき、此等の国王比丘等は閻浮第一の賢王持戒第一の智者なり、仙予国王は釈迦仏覚徳比丘は迦葉仏(かしょうぶつ)阿育大王は得道の仁なり、  今日本国も又是くの如し持戒破戒無戒王臣万民を論ぜず一同に法華経誹謗の国なり、設い身の皮をはぎて法華経を書き奉り肉を積んで供養し給うとも必ず国も滅び身も地獄に堕ち給うべき大なる科あり、

唯真言宗念仏宗禅宗持斎等を禁めて身を法華経によせよ、天台の六十巻を空に浮べて国主等には智人と思われたる人人の或は智の及ばざるか、或は知れども世を恐るるかの故に或は真言宗をほめ或は念仏禅律等に同ずれば彼等が大科には百千超えて候、 例せば成良義村等が如し、慈恩大師(じおんたいし)は玄賛十巻を造りて法華経を讃めて地獄に堕つ、此の人は太宗皇帝の御師玄奘三蔵の上足十一面観音の後身と申すぞかし、音は法華経に似たれども心は爾前の経に同ずる故なり、嘉祥大師は法華玄十巻を造りて既 に無間地獄に堕つべかりしが法華経を読む事を打ち捨てて天台大師に仕えしかば地獄の苦を脱れ給いき、今法華宗の人人も又是くの如し、比叡山は法華経の御住所日本国は一乗の御所領なり、而るを慈覚大師は法華経の座主を奪い取りて真言の座主 となし三千の大衆も又其の所従と成りぬ、弘法大師は法華宗の檀那にて御坐ます嵯峨の天皇を奪い取りて内裏を真言宗の寺と成せり、安徳天皇は明雲座主を師として頼朝の朝臣を調伏せさせ給いし程に、右大将殿に罰せらるるのみならず安徳は西海 に沈み明雲は義仲に殺され給いき、尊成王は天台座主慈円僧正東寺御室並に四十一人の高僧等を請下し奉り内裏に大壇を立てて義時右京の権の大夫殿を調伏せし程に、七日と申せし六月十四日に洛陽破れて王は隠岐の国或は佐渡の島に遷され座主御室 は或は責められ或は思い死に死に給いき、世間の人人此の根源を知る事なし此れ偏に法華経大日経の勝劣に迷える故なり、今も又日本国大蒙古国の責を得て彼の不吉の法を以て御調伏を行わると承わる又日記分明なり、此の事を知らん人争か歎かざるべき。

 悲いかな我等誹謗正法(ひぼうしょうほう)の国に生れて大苦に値はん事よ、設い謗身は脱ると云うとも謗家謗国の失如何せん、謗家の失を脱れんと思はば父母兄弟等に此の事を語り申せ、或は悪まるるか或は信ぜさせまいらするか、謗国の失を脱れんと思はば国主を  諫暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり、我不愛身命但惜無上道と説かれ身軽法重(しんきょうほうじゅう)死身弘法(ししんぐほう)と釈せられし是なり、

過去遠遠劫より今に仏に成らざりける事は加様の事に恐れて云い出さざりける故なり、未来も亦復是くの如くなるべし今日蓮が身に当りてつみ知られて候、設い此の事を知る弟子等の中にも当世の責のおそろしさと申し露の身の消え難きに依りて或は 落ち或は心計りは信じ或はとかうす、御経の文に難信難解(なんしんなんげ)と説かれて候が身に当つて貴く覚え候ぞ、謗ずる人は大地微塵の如し信ずる人は爪上の土の如し、謗ずる人は大海進む人は一・。

 天台山に竜門と申す所あり其の滝百丈なり、春の始めに魚集りて此の滝へ登るに百千に一つも登る魚は竜と成る、此の滝の早き事矢にも過ぎ電光にも過ぎたり、登りがたき上に春の始めに此の滝に漁父集りて魚を取る網を懸くる事百千重或は射て  取り或は酌んで取る、鷲・鴟梟虎狼犬狐集りて昼夜に取り・ふなり十年二十年に一つも竜となる魚なし、例せば凡下の者の昇殿を望み下女が后と成らんとするが如し、法華経を信ずる事此にも過ぎて候と思食せ、常に仏禁しめて言く何なる持戒智慧  高く御坐して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大城に堕つべし、譬えば我は謀叛を発さねども謀叛の者を知りて国主にも申さねば与同罪は彼の謀叛の者の如し、南岳大師の云く「法華経の讎を見て呵責せざる者は謗法の者なり無間地獄の上に堕ちん」と、見て申さぬ大智者は無間の底に堕ちて彼の地獄の有らん限りは出ずべからず、日蓮此の禁めを恐るる故に国中を責めて候程に一度ならず流罪死罪に及びぬ、今は罪も消え過も脱れなんと思いて鎌倉を去りて此の山に入つて七年なり。

 此の山の為体日本国の中には七道あり七道の内に東海道十五箇国、其の内に甲州飯野御牧波木井の三箇郷の内波木井と申す、此の郷の内戌亥の方に入りて二十余里の深山あり、北は身延山南は鷹取山西は七面山東は天子山なり、板を四枚つい立てた  るが如し、此の外を回りて四つの河あり_

北より南へ富士河西より東へ早河此れは後なり、前に西より東へ波木井河の内に一つの滝あり身延河と名けたり、中天竺の鷲峰山を此の処へ移せるか将又漢土の天台山の来れるかと覚ゆ、此の四山四河の中に手の広さ程の平かなる処あり、爰に庵室 を結んで天雨を脱れ木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ秋は果を拾いて命を支へ候つる程に、去年十一月より雪降り積て改年の正月今に絶る事なし、庵室は七尺雪は一丈四壁は冰を壁とし軒のつららは道場荘厳 の瓔珞の玉に似たり、内には雪を米と積む、本より人も来らぬ上雪深くして道塞がり問う人もなき処なれば現在に八寒地獄の業を身につくのへり、生きながら仏には成らずして又寒苦鳥と申す鳥にも相似たり、頭は剃る事なければうづらの如し、衣は 冰にとぢられて鴦鴛の羽を冰の結べるが如し、かかる処へは古へ眤びし人も問わず弟子等にも捨てられて候いつるに此の御器を給いて雪を盛りて飯と観じ水を飲んでこんずと思う、志のゆく所思い遣らせ給へ又又申すべく候、恐恐謹言。

  弘安三年正月二十七日             日蓮花押

 秋元太郎兵衛殿御返事

ホームへ 資料室へ 御書の目次へ メール