阿部語録 


第二十一 時


  ☆四四三号

 (昭和五十八年元旦・新年の辞)


 「日興上人御化導の特性の一つに、聖門下ながら似て非なる五人の弟子等の法義・信仰に対する破折と峻別が存し、それが必然的に正法の万年弘通の根幹となったのである。これと符節を合する如く、日興上人第六百五十回遠忌奉修の昨年において、宗内に盤踞する似て非なる迷僧・邪僧どもの専断横道の謗法に対し、最終の処分を断行する運びとなった。これも経典・祖書の大精神および先師方の御指南に照らすとき、止むを得ざる処置であり、更に未来への大法弘通の基礎を確立したものと信ずる。」P四

☆四四七号

 (昭和五十八年三月三十一日・第四回非教師指導会の砌)


 「そういうところからも、僧侶が主体となって折伏教化していくというような基盤が、昔のかたちとは違ってしまっておるのです。このへんも、歴史と現実の姿、あるいは色々と宗教の状態を見てみると、よく解るはずであります。

 そのような時代の特殊性、現実性ということも全く忘れ、考えないで、ただむやみに僧侶が主導権をもつことが祖道のかい復だというようなことを、狂った者どもが考えたり言っておりますが、これも現実を本当に正しく見ていない姿であります。

 今日、こうして非常に正法が弘まったのも、はっきり言って、創価学会の折伏によるところであるといえます。その創価学会がこのように弘まったことの根本について、君達はどのように思っているだろうか。

 これは、当時の御法主上人が、あるいは当時の宗門の責任者が、創価学会の折伏と、その折伏による成果をどのように受けとめていくかということを、宗門の今までのある固定化したところの考え方、殻を破って自由に、広く開いたからなのであります。」P九三

 「これはやはり、一つは”時”であり、一つは実際の”広宣流布の状況”であります。また正法正義が現在、どのようなかたちで受持されているかということ、あるいは僧俗の色々な関係についても現実を見る必要があります。そのうえで、私どもがその時、その時に応じての正しい筋道を示していっておるのであります。

 そういうことが全く解らないで、自分勝手なことから他人を誹謗し悪口を言う、その悪口を言ったことが原因となって、またさらに自分も救われないようなひどい境界に落ち込んでいっているのが、あの正信会とやら称する者どもであります。」P九五

☆四五四号

 (昭和五十八年十月十五日・開高山法厳寺移転新築寺号公称落慶入仏法要の砌)


 「戦後においては第二代会長・戸田城聖氏、さらにまた第三代会長・池田大作氏の卓越したところの信心と指導によりまして今日、広宣流布の相が実に目覚ましく、日本ないし世界に弘まっておるのでございます。

 これはまことに、大聖人出現以来七百年にして、真の仏法が日本ないし世界に広宣流布をし、未来万年の衆生の成仏の大功徳をここに植えられるところでございます。まことに大聖人の御金言が、まさに時を得て実証せられたということが感ぜられる次第でございます。」P五四

☆四六四号

 (昭和五十六年十一月十六日・妙源寺移転新築落慶法要の砌)


 「今日、それが日蓮正宗に伝わり、創価学会の現れによって今、世界にこの大聖人様の三大秘法の正法が弘まっておるということも、これはやはり折伏ということ、法華経の根本の法の相をあくまでも素直に正しく、大聖人様の御意にしたがって説いておることが『時』によって広宣流布の相を顕わし、また、したがって正法を信受する人々が本当に幸せになっておるということをお互いに確信いたして、いよいよ信心修行に邁進することが肝要であると存じます。」P三五

これよりケンカ別れの後の発言

☆五四〇号

 (平成三年一月四日・法華講連合会初登山お目通り)


 「ですから開創七〇〇年と口に言いますけれども、その開創七〇〇年の本義は、正義と邪義の峻別にあったということです。

 それがまさしく、七〇〇年のこの平成の時になって、やはり同じような意義がそこに感ぜられるということは、また仏法の不可思議な因縁と思うのであります。

 皆様も色々と聞かれておると思いますけれども、最近の宗門批判、あるいは法主批判等の、まことに信仰の上からもどうかと思われるような法主、僧侶に対する考え方ということが、ただ『我々は宗門に対してこれだけのことをやり、過去においてこれだけの功績を成したのであるから、我々が考えることは何でも正しい』という考え方からあるのですが、それがその本筋において違っておるならば、これは大変なことであります。」P五三

☆五五一号

 (平成三年十一月三十日・教師指導会の砌)


 「昨年の十二月の問題、その前の『十一・十六』の池田大作なる人物による宗門に対する不当な侮蔑の言等、仏法のあるべくしてある正法と誹謗の姿が明らかに現れたということ、そして開創七百年という不可思議なる年において、その行事をことごとく奉修して仏恩報謝の誠を捧げた、そののちにこれらの問題がはっきりと具体的に現れたこと、さらにまた今日に至るまで普賢岳の噴火は尽きることなく続いておりますが、この普賢岳噴火が始まったのが池田大作なる人の宗門を誹謗した十一月十六日の翌日である十七日から始まったということ、これも実に仏法の不思議な形を感ずるのでございます。」P七六

☆五六一号

 (平成四年八月二十八日・全国教師講習会)


 「あの四代会長の北条浩は、三座の観念において、日目上人までの観念しかしていなかったというようなことを聞いたことがあります。つまり、日道上人以下の御歴代に対しては御報恩を申し上げる必要はないとして、わざわざ省いておったというのです。このような狂った邪見の信心の在り方を、昔から創価学会では行っていたということでありますが、表向きの態度に私もずっとだまされておりました。

 私は、大聖人様の教えを信じている者は、その教えの上からも、常に正直たらんとしていると信じておりました。しかし、やはり彼等には根本的に信心がなかったということであると思います。

 このなかにも、昔、創価学会首脳の策謀を見抜いて立ち上がった方々がおりますが、私はその方々に対し、ここで改めて敬意を表するものであります。

 しかし、私がこのように申しますと、『だからあの時にこうしていれば・・・』と思われる人もいるかも知れませんが、やはり、『時』ということを考えていただきたいと思います。色々な時、種々の事情、因縁の姿があるのであります。

 終戦後、私は寺院において法華講を作って広布への御奉公を志しました。しかし、当時はまさに創価学会の興隆期で、色々な意味でぶつかったのです。ぶつかりぶつかり、ぶつかった上で、『これからの宗門においては創価学会を外して考えるべきではない』と言われ、そこで私は、寺院における僧俗和合という、自分の広布推進の考えは一時、見合わせ、創価学会が広宣流布の団体なんだ、僧侶として学会の発展のためにできる限りの援助をしなければならないというところに到達したのであります。」P五八

☆五七二号

 (平成五年八月二十六日・全国教師指導会の砌)


 「たしかに創価学会は、正法の弘通において色々と貢献する形がありましたし、基本的な意味で一番根本のところに従い奉る意味があれば、これは許せるのです。したがって、その後においてたとえ色々な意見の相違があっても、話し合いの上でそれが整合できると思います。

 ところが、根源のところで信心が狂い、自分中心ということになってしまったならば、これはもう全部が濁ってきます。そこにおいて、法脈をどこまでも正しく持ち、真の正法護持と広布を進めるためには、どうしても自浄作用の形が出てくるのであります。

 今までに何度もお話しいたしましたように、今度の学会問題もけっしてこちらから仕掛けたのではない。みんな向こうから仕掛けてきたのです。その仕掛けられた形のなかにおいて、筋道、立て分けをよく考えながら、きちんと処理をしてきたということなのです。しかもそれは、時が来て、総本山開創七百年という不思議な時に巡り値い、さらに、その他の因縁も相まって、そこに自浄作用がおのずと現れてきた姿なのです。したがって、それは何も学会との対立でもなければ、喧嘩をしているのでもありません。」 P七一

☆五七四号

 (平成四年六月二十一日・東北第一布教区御親教の砌)


 「近年、創価学会により大きく流布されたように見える姿がありました。しかし、やはり我見によって尊い三大秘法を蔑ろにし、私して把んだ形から、正本堂建立の意義をはじめとする誤った考えを抱くようになったのであります。しかし、先師日達上人によりその野望をくじかれたことによる池田大作の怨念が、あの昭和五十二年路線の結末であります。そして、その日達上人と宗門に対する憎悪を表面上は隠していたのですが、不思議にも日興上人が正邪峻別をあそばされた総本山開創からちょうど七百年の平成二年に明らかとなり、今日、様々な謗法の姿を露呈しております。」P五五

☆五八一号

 (平成六年五月二十六日・全国教師・寺族指導会の砌)


 「例えば、昭和五十一年ごろ、私が平安寺の住職をしておりました時に、今は自称正信会に入っている元僧侶が私の所へ来て、『今の学会には池田本仏の思想がある』と言った時に、『池田本仏ということは、私は信じたくない』と言い、『それは聖教新聞に出ているか』と問いました。それに対して『新聞には出ていませんけれども、裏では存在するのです』と言いましたので、『それは君が推測するだけであって、私は直ちに信じられない』との旨を言いました。

 その後、色々な経過がありましたが、最終的には日達上人が、昭和五十四年五月三日の本部総会において、五十二年路線等の問題におけるきちんとした処置をあそばされたのであります。私はその日達上人のあとをお受けしたのですから、やはり日達上人が公式にきちんとお決めあそばされたことを私が継承していくことは当然だと思い、ずっと進んできたのであります。

 しかし、『池田本仏』という不逞な、根本的に誤った考え方が学会内部に存在したことは、遺憾ながら本当でありました。そのことをもって、『おまえはその時に考え違いをしていたのではないか』と言われれば、ある一面においてそういう言い方もできるかも知れません。しかし、仏法流布の流れのなかでの、それぞれの時における役割があり、これを簡単に一辺倒の形だけで説明することはできないのです。」 P四九

☆五八六号

 (平成六年十月二十九日・西中国布教区御親教の砌)


 「ところが、往々にして我見をもって南無妙法蓮華経の教えを解釈する増上慢の人間が出てまいります。仏法の内容もろくに知らない素人が、いわゆる池田大作のような人間が慢心の上からそのようなことを考え、我見を構えて、仏法の法理を正しく立て分けて話をせんとする正法の僧侶に対して悪口を言うのであります。

 それが特に平成二年という時において、これは非常に不思議な時でありましたが、仏法のなかにおいて創価学会による大きな謗法の姿が具体的に表れて、七百年の仏法を埋没せんとするような考え方が存したのであります。」P四九

  ☆六一五号

 (平成九年三月三十日・法華講連合会第三十四回総会の砌)


   「日達上人は、お亡くなりになる年の昭和五十四年五月三日、創価学会の謗法を戒められて、今後は一切、宗門に付き従って法を護り、広布に向うという約束のもとに創価学会を許されたのであります。

 その三ヶ月後に、生前のお約束によりまして、私が跡をお受けするような形になりました。故に、私といたしましては、あくまで御先師の決められた約束と在り方を忠実にお受けして、法を護持していくことが大切であったのであります。

 したがって、その時においては、創価学会においても志を新たにして宗門に付き従うということを言っておりましたし、また、御先師の御指南もそのとおりでありましたから、私としては創価学会を守り、正しく指導していきたいという気持ちをもって、昭和五十四年の八月以降、行ってまいりました。

 その時に、その在り方に反乱をして逆らったのが、いわゆる自称正信会の者達でありました。これは、一言もって言うならば、

 『仏法は時によるべし』

ということであります。」P六一

☆六一五号

 (平成九年三月三十日・法華講連合会第三十四回総会の砌)


   「ですから、しばらくの間は、創価学会、池田大作等を正しく導かんがために心を砕いてまいりました。しかし、本来、その本性・本音が謗法の姿として持っておる者どもでありましたので、結局、池田中心、創価学会中心といところに仏法の本義を乱してしまったのであります。そういうところから、様々な現証が起こってきた関係上、平成二年以来、その問題に対して、宗門はきちんとしたけじめを立て分けてきた次第であります。

 ですから、正信会の者どもが独走し、御先師が決められた轍を乱して創価学会を打ち破ろうとした姿は、まさしく時と機を知らなかった姿であります。彼等は、『自分達がやったから、日蓮正宗もまた、それをまねしたのだ』というようなことを言っております。しかし、それは大きな誤りであります。これは時に随って初めて、真実の正法正義とともに、真の破折の姿が顕れてくるのであります。

 今、宗門がここに僧俗一致して正法広布を目指しつつ、邪義・池田創価学会を破折するに至ったことこそ、本当の時を得たところの姿であります。したがって、今こそ創価学会の謗法を徹底的に破折していくべき時であります。」P六二

 
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