阿部日顕師語録

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二  謗法(逸脱)
 (昭和五十五年四月六日・御代替法要)

 「これらの一切を鑑み、当時の責任者であった池田名誉会長は、特に今月二日の聖教新聞に『恩師の二十三回忌に思う』と題する所感を投じ、過去の種々の面を総合的に含み、且つ要点を括って根本的な反省を致されております。私はこれをまことに誠意と勇気に充ちた、また深い信心を根本とする仏祖三宝への懺悔と受けとめるものであります。

 大聖人の御書の精神に照すとき、一時の誤りはあっても懺悔があればその罪が消えることは明らかであり、まして現に正法を受持信行する人達に根本的な謗法はありえないのであります。正法広布の大実績を持つ唯一の信徒団体である創価学会の逸脱は、それを改めなければ謗法に帰する意味はあっても、既に改めんと決意し、行いつつある以上、現在において謗法をあげつらう事は大きな誤りであります。」P一五

 「思うに創価学会のあくまで御本尊を中心根本とする信心や体験、組織等のあり方、そして池田名誉会長の過去における七八〇万世帯までの未曽有の折伏を果された指導性、平和文化に関する世界的な実績等を考えるとき、将来の世界に渉る広宣流布の為、大いに必要な団体であり、人物であると私は信ずるのであります。」P一六

☆四一四号

 (昭和五十五年七月四日・全国教師指導会)

 「次に、最近の宗門の姿のなかにおいて、謗法の論議が非常に多い。そのなかでも特に『創価学会は大謗法の団体だ』と言っておる人が、かなり多いのであります。それについて今日指導しておきますが、”絶対に誤りである”と断ずるものであります。」P一一

 「創価学会にももちろん、謗法はありました。いわゆる中謗法・小謗法というような意味での謗法はあったけれども、この御本尊を受持している以上、大謗法はないのであります。もしも、御本尊を受持している人に対して大謗法呼ばわりするのであれば、これは大聖人・大御本尊に背くものではないか、と私は思います。」P一二

 「私は今後も、責任をもって創価学会を善導し、指導しきっていくことを決意しております。
 ですから、創価学会に対する謗法呼ばわりはやめてください。このことを、はっきり申しておきます。」P一四

 「ただしこれは、阿部日顕個人ではなく、唯授一人の血脈を紹継するうえから申しますけれども、法主の心に背いて唱える題目は、功徳がありません。これだけは、はっきりと申し上げておきます。ですから『法主にも誤りはあるんだ』などということを信者に言いふらす僧侶も、また、それを信じて平気で法主を誹謗するような信徒も同じく、そういう人の唱えるお題目には功徳はない、と私は申し上げるものであります。」P一六

 「したがって、創価学会に対する謗法呼ばわりはやめて、また、創価学会員を檀徒にしようなどというけちな根性はやめて、自分自ら、また有縁の信徒を督励して邪宗・邪義を打ち破りつつ、そして正法正義の功徳がいかに大きいかを教えつつ、その法華講なり寺院の団体なりを、大きくしていくことが大事だと思うのであります。」P二〇

 「ですから、学会も現在、ゆっくり話をしていけば解ってくる時代に入っているのです。それをいつまでも、『学会は絶対に解らないんだ。学会は根本が違うんだ。今に学会は、爪をむき出して宗門に反抗するんだ。それが分からない法主が甘い』ということを、書いたり、言ったりする人がありましたが、それは違います。そうではありません。

 私は、すべてをよく見ながら、考え、そしてここに、確信をもってお話しをしておるのです。創価学会も解ってくる時代に入っているのです。当たり前ではありませんか。あの人達だって正しい御本尊を、あくまでも正しく信心し、この御本尊を一切の人々に弘通していきたいと願っておるのです。他に目的があるわけではないのであります。」P二六

☆四一七号

 (昭和五十五年十一月三日・「宗内檀徒の皆さんへ」)

 「前者のように正宗の外にある人、または、いったん入信しても退転し、御本尊や大聖人を誹謗するようになった場合を大謗法といいます。これに対して、正しい信心をしているうえにおける?慢、計我等の謗法は、中あるいは小謗法というべきものであり、僧俗ともに犯しやすいのであります。

 この意味から、三大秘法の御本尊を受持信行している以上、大謗法はないといえます。しかも、『大逆なれども懺悔すれば罪消えぬ』との仰せがあるように、たとえどのような謗法を犯したとしても、心からそれを改悔し、戒壇の御本尊を根本に仏道修行に励むならば、罪は次第に消えるのであります。この両意から考えて、学会の場合、過去において大謗法があったとすることも間違いであります。まして現在においても大謗法であるとすることはたいへんな間違いであり、そのような考えは、大聖人、大御本尊に背くものといわなくてはなりません。」P六九

 「この点、学会は池田前会長をはじめ最高幹部は率直に誤りを認め、その是正を誓っています。すなわち五十三年十一月七日には

 『これまで、いろいろな問題について行き過ぎがあり、宗内をお騒がせし、また、その収拾にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかったことは、総講頭の立場にある身として、この席で、深くおわびいたします』(池田会長)」P七二

 「今年に入ってからも、池田名誉会長は四月二日、機関紙上において過去のいろいろな面を総合的に含み、要点をくくって根本的な反省をしております。これは深い信心のうえから発した仏祖三宝への懺悔と思われます。」P七三

 「なかでも御本尊模刻の件は、二年前の五十三年十月、すべての経緯を見きわめられたうえで御本尊に関する一切の大権を所持される御法主のお立場から、日達上人が処置を完了し、今後このことについてとかくの論議は無用と決断済みであります。今もって蒸し返して謗法論議をすることは逆に日達上人の御意に背く謗法といわなくてはなりません。」P七三

 「過去に謗法があっても、それを指摘されて素直に改め、信伏随従して御奉公を誓う者は謗法の罪が消滅していくので罰する必要はありません。しかし宗務院が、大聖人の御書の精神に

何度注意しても改めることなく反抗し、我意我見をもって、止められた行為を敢えて行うのは、逆に謗法を犯す者であり秩序統制上からもやむを得ず処分するのは当然といえます。」P七四

☆四一八号

 (昭和五十五年十一月三日・第五回衆象会の砌)

 「私が先般”末法において、御本尊を受持しておられる方においては、基本的には謗法はない”と申し上げたことと、同意義であります。それに対しての反論は”それはおかしい。創価学会は謗法の団体なのに”というようなことを言って、まず創価学会は謗法の団体であるということを前提にして、それから御本尊をみようとするのですから、本末転倒しているといわなければなりません。

 あくまで、正法を受持する……阿弥陀信仰や、その他あるゆる邪義邪宗の仏像等の一切を払って、正しい三大秘法の御本尊を受持して信心をするという形においては、絶対に謗法はありません。」P五〇

  「御本尊を受持して信心している人においては、絶対に大謗法はありません。ただし、”中”や”小”というような形の謗法は当然ありますし、過去において、創価学会がそれを犯したことも事実であります。しかし、今は全く反省されています。」P五一

☆四一八号

 (昭和五十五年十一月二十六日・創価学会創立五十周年記念幹部登山の砌)


「確かに昭和五十三年六月三十日の訂正に見られる如き、逸脱があったのは事実でありますが、それは終局的に宗旨に背反するものでなく、未曽有の成果の実証にともなう教義解釈の行き過ぎ等に起因するのであります。

 故に、その根底に宗門の宗旨をないがしろにするごとき底意は、なかったと信ずるのであります。」P五七

 「むしろ改めて後は、なお一層の宗門への外護と御奉公を誓っている姿からみても、過去の逸脱を大謗法というべきではありません。それを、あえて大謗法呼ばわりをし、批判攻撃することは、同じ御本尊を信ずる僧俗のなすべきことではありません。むしろ大聖人の異体同心の御聖訓にも背き、各が信ずる御本尊の御意を謗り奉る大謗法となるのであります。」P五七

☆四一九号

 (昭和五十五年十月八日・信正寺本堂庫裡新築落慶法要の砌)

 「そして更に、その点において重大なことを申し上げるならば、この『令法久住』の根本である大聖人様の三大秘法を受持信行する人々はお互いに、その本質においては即身成仏の境界を得ているという、大きな功徳をもっておるのであります。したがっって、僧であれ俗であれ、その信心をしている人々の立場を攻撃し、非難し、悪口を言うことは、取りも直さず、大謗法でございます。このところの筋道が、最近の宗門においては間違っておる人が多いのであります。」P九二

☆四二一号

 (昭和五十五年十二月二十日・真光山聞仏寺落慶入仏法要の砌)

 「その指南に背いていつまでも、”これが良い””これが悪い””これが謗法だ”とかというようなことを、もしも大聖人様の仏法の中において考えるとするならば、それこそ小乗と大乗という立て分けを知らずにいつまでも小乗に執着した、謗法の考えと全く同じになってしまうのであり、したがって、そういう人々こそ謗法なのであります。」P六四

☆四二七号

 (昭和五十六年八月二十五日・全国教師講習会)

「また、私はかつて『法主の指南に背いて唱える題目は功徳がない』ということを申しました。これについて正信会とやらの者共は、私が自ら仏であると言ったかのよう誹謗しておりますが、これは全く反抗の心からくる意味の取り違えです。本宗伝統の血脈相伝の立場において、即ち仏法を継承する責任者、僧団・僧衆の上首としての法主が、仏法の道理に基づいて行う指示に対し、背く者はとりも直さず異端者であり、背信者であります。

 それは現在の法主に背くのみでなく、御本仏大聖人、日興上人以下、代々の上人に背き奉ることであるから、その背謗の言動・行為を改めずに題目を唱えても功徳がないのは当然であります。否、功徳がないどころか、大聖人様への背謗に当たる故に三途堕在の道であります。」P五一

☆四三八号

 (昭和五十七年七月三日・真法山宣徳寺落慶入仏法要の砌)

 「それを、謗法といえば何でもかんでも一つのもので、”謗法はいけないんだ”というようなことを言う者自体、頭が狂っておるということを、私は以前から思っておるのであります。」P六五

☆四六三号

 (昭和五十六年十一月十二日・玉泉寺本堂改装落慶法要の砌)

 「心が七つに破れるということは、実に、法華経を謗ることによって皆、頭がおかしくなっていってしまうのです。昨日はあれを考えたかと思うと、今日はこれを考えるというように全く統一がなくなってきて、そして、しょっちゅう口から出まかせの嘘を言うようになります。

 先程の法要における祝辞のなかで、最近はせっかく正法の僧となった者のなかにもおかしな者がいるという話がありましたけれども、それらの者が言っておることもやはり、皆そうなのであります。本当に、心に落ち着きがないというようなものではなく、悩乱の結果、自分で理義を正しく立てようとする気持ちがなくなってくるようで、そうすると今度は、いつでも何か嘘を言って、そして人をだましていなければ自分の身が立たないようになってしまっておるのであります。これは本当にかわいそうなものであります。

 それはやはり、正直の教え、その末法における相伝の法に背くというところに根本原因があるのであります。法華経は、あくまで正直の教えなのです。『正直捨方便』といわれておるのですから、正しく素直な気持ちをもって、素直に最勝の教えを信ずるというところに、無量無辺の功徳があるはずであります。また、あるのであります。したがって、それに背くところの者は、やはりそういう罰が自然に出てくるのであります。

 それが、ひとつの罰の姿として『心破作七分』という形があるわけです。心が七つにも十にも破れて、結局、本当の人間としての功徳も全部、失っていってしまうということになるのであります。」P三四

☆四七九号

 (昭和六十一年一月・新春の辞)

 「かの正信会と称する邪信の者どもの性根とその行動の一切が、@慢、懈怠、計我、浅識、著欲、不解、不信、顰蹙、疑惑、誹謗、軽善、憎善、嫉善、恨善なる十四誹謗のどれ一つをとってもピタリと当たっていることに、むしろ空恐ろしさを感ずる。」P五

これよりケンカ別れの後の発言

☆五四〇号

 (平成二年十二月十九日・光明寺本堂・客殿・庫裡新築落慶入仏法要の砌)


 「私をはじめとして皆様方は、お互いに大聖人様の血脈相伝の大仏法にお値いできたのでございます。しかし、今生において一生成仏を遂げるために南無妙法蓮華経を唱えておっても、この十四誹謗ということは、うかうかすれば信者の立場、僧侶の立場にも存するのである。信心していない人だけに十四誹謗があるのであって、信心した者には、もう十四誹謗はないという考え方は大きな間違いであります。」 P三七

☆五四〇号

 (平成三年一月四日・法華講連合会初登山お目通り)

 「ですから開創七〇〇年と口に言いますけれども、その開創七〇〇年の本義は、正義と邪義の峻別にあったということです。

 それがまさしく、七〇〇年のこの平成の時になって、やはり同じような意義がそこに感ぜられるということは、また仏法の不可思議な因縁と思うのであります。

 皆様も色々と聞かれておると思いますけれども、最近の宗門批判、あるいは法主批判等の、まことに信仰の上からもどうかと思われるような法主、僧侶に対する考え方ということが、ただ『我々は宗門に対してこれだけのことをやり、過去においてこれだけの功績を成したのであるから、我々が考えることは何でも正しい』という考え方からあるのですが、それがその本筋において違っておるならば、これは大変なことであります。」P五三

☆五五〇号

 (平成三年十一月二十八日・創価学会破門通告書)

 「しかも、池田氏は、過去にも、あろうことか何体もの板御本尊を、勝手に模刻するという大罪を犯しております。」P九九

 (平成三年十一月二十八日・創価学会破門通告書)

 「最近における創価学会の宗門に対する攻撃は、まさに『山崎・八尋文書』『北条文書』等の、『宗門支配か、しからずば独立か』との野望を、そのまま密かに懐き続け、機会を窺っていたことを示すものであり、昭和五十二年路線の反省が、まさしく欺瞞であったことを証する、無慚無愧の著しい背信行為と言わなければなりません。」P一一〇

☆五五七号

 (平成四年五月二十四日・東京第一布教区御親教の砌)

 「それはともかく、創価学会首脳の心には『@慢謗法』というものが根底に胚胎しておったのであります。『曽谷殿御返事』に、

 『何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し』

 という御文がございますが、いかに法華経の信心をしたというようなことで誇ってみても、根本に謗法の一念があれば、その信心の功徳は必ずや破れ、潰え去るのであります。

 しかるに、この謗法はいかなる姿かといえば、皆様も御承知の『十四誹謗』の姿であります。すなわち、@慢・懈怠・計我・浅識・著欲・不解・不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽善・憎善・嫉善・恨善という十四でありますが、この十四の内容を一々当てはめてみますと、今まさに創価学会の、宗門を敵視して日々夜々、誹謗、悪口、中傷を連ねておる姿は、この十四誹謗のすべてに当たっておるのであります。一つや二つではありません。また、三つ四つではなく、十四のすべてが創価学会の現在の所業に、大聖人様の仏法に背く姿としてはっきりと現れております。」P四八

☆五六〇号

 (平成四年八月二十四日・行学講習会閉講式)

 「『戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます。』

 ということを言っておるのでありますが、これに過ぎる謗法はありません。」P五七

☆五六〇号

(平成四年八月二十八日・全国教師指導会)

 「その上からも、過去を振り返ってみまするときに、創価学会の謗法は、実に間口も広ければ、奥行きも深いということを、私は本日、皆さんに申し上げたいのであります。

 それであるが故に、一朝一夕に、簡単に一切の問題を解決するわけにはまいりませんでした。また、過去からの色々な関係、つまり、僧侶と信徒、あるいは宗門の外郭団体として認めてきた創価学会と宗門との関係においても、そう簡単に、短絡的に処置ができるものではございません。かといって、その謗法の在り方に対しては厳として対処をし、それに対する正しい方策を講じなければならない次第であります。

 そういう点からも、その時その時に応じて、一つひとつ対処をしてまいりました。それは、ある見方からするならば、足が遅いような、のんびりし過ぎておるような見方すらあったかも知れませんけれども、これらをその時に応じて、御仏意の命ずるがままに、また、深い時の在り方に順応して処置をしてきたということを感ずるのであります。」P六一

☆五六三号

 (平成四年十一月十七日・全国教師指導会の砌)

 「さて、創価学会の謗法は、間口も広いが、奥行きも深いということを、何回かにわたって申し上げてまいりました。今日、その謗法の一つを取り上げるならば、もう無数であって、会員一人ひとりの考えとか行動、あるいは学会全体としての指導なり、池田大作等の狂った指導のなかにどれほどの誤りが含まれておるかといえば、実に数を挙げることもできないほどであると思います。」P五七

☆五六三号

 (平成四年十一月二十九日・大阪布教区御親教)

 「前回の昭和五十二年路線においては自分の考えを表面に現したために失敗をしたので、今度は、創価学会中心、あるいは池田本仏的指向等、実質的には同じであるが、表には現さないように、うまくやっていこうと考えたようであります。そのように、水面下に潜った悪い考えによる洗脳がずっと行われてきたようでありますが、うかつにも私は、そのような謗法の流れがあるということをほとんど知らなかったのであります。」P七三

☆五七四号

 (平成四年六月二十一日・東北第一布教区御親教の砌)

 「今、世間では、宗門と創価学会は喧嘩をして悪口を言い合っているというような見方をする向きもあるようですが、これは明らかに違います。創価学会は間違いなく正法を悪口・誹謗しておりますが、宗門は誤りは誤りとして、謗法は謗法として、その間違いを糾さなければ、その者達が地獄に堕ち、さらに迷う者が出ますので、慈悲の立場から堂々と論破し、教導しているのであります。そこに世間の者達には解らない、宗門の正しく高い境界があるのです。

 したがって、私が口から血を吐いて死ぬというようなことは絶対にありません。」P五〇

☆五七五号

 (平成五年九月十・大宣寺御宝蔵落成入仏法要の砌)

 「要するに、日寛上人は、ある方に対しての授与というお心をもってその御本尊を顕され、下附されたわけです。しかるに、創価学会では、その授与書きの部分その他を勝手に抹消して『ニセ本尊』を作成すると想像されますけれども、もしそうであるならば、まさに日寛上人のお心に背くところの大謗法であります。

 したがって、日寛上人の御本尊をそのような形で御形木にするということは、下種三宝、特に日寛上人を冒涜し、また、日寛上人に大きく背き奉るところの大謗法であって、その本尊はまさに『ニセ本尊』であり、いわゆる本物をただコピーしただけに過ぎないという次第であります。」P四六

☆五八一号

 (平成六年五月二十六日・全国教師・寺族指導会の砌)

 「あるいは日精上人は謗法の法主だとも言っておりますが、調べてみれば日精上人に謗法などはないのです。造仏にしても、ある近年の御先師にいささかの思い違いがあったから、その意味における考えの違いがあったとしても、今日の正しい見解からするならば、いささかの謗法もないのです。」P四一

 「色々な宗教があるけれども、今日の創価学会ぐらい、あらゆるものが大謗法に当たっておる姿はありません。この点を皆さん方の一人ひとりが、しっかり考えてもらいたいのであります。

 要するに、いい加減な生ぬるい考えは捨てて、創価学会に毒された者どもを徹底して破折し、そのなかから一人でも多く救ってあげなければいけない、この気持ちを持っていただきたいということを、私は声を大にして申し上げたいのであります。」P四二

☆五八三号

 (平成六年八月二十一日・第一回講頭・副講頭指導会の砌)

 「話が前後しますが、先程の戒壇問題をもっとはっきりと言えば、戒壇建立は、大聖人様が御入滅の年にお認めあそばされた『三大秘法抄』に初めて仰せになったことであり、これは三大秘法の御化導の終窮究竟の御指南であります。それを池田大作如き、小僧以下の浅識の者が、戒壇の尊い法門について『従の従、形式の形式』と述べたのですから、御仏意を見下し、さげすむこと、これほど甚だしいものはないわけです。

 こういう根本のところに謗法があるということを、皆さん方、よく肚に入れていただきたい。そういうところからあらゆる謗法が起こってきているのです。」P七五

☆五八四号

 (平成六年八月二十四日・全国教師講習会の砌)

 「しかし、その謗法の一番の元は、あの池田大作という者の狂った考えにあるのです。前から申しておりますが、既に昭和三十九年六月三十日の台東体育館における学生部の第七回総会で、

『戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます』

と、大聖人様の御仏意を『形式の形式』と言っているのです。

 戒壇建立ということは、大聖人様の三大秘法の終窮究竟の御指南であります。いくら『実質は全民衆が全大衆がしあわせになること』などと言ってみても、その民衆救済の根本の大法を『形式の形式』と下しているのです。そういうところに根本的な仏法軽視、御仏意に対する軽視があり、これが今日、御本尊の問題、信仰的な問題等、色々な形で波及してきております。」P一四

☆五八八号

 (平成六年十二月八日・中九州布教区御親教の砌)

 「最近において創価学会が、日寛上人の御本尊をある所から持ち出して、それをコピーして学会の者達に配っておるようでありますが、日寛上人がそのことを許されておるのならば、付嘱の上からその筋道が立つわけであります。

 ところが、日寛上人はどうですか。学会の者達が勝手に消してしまった部分に、小山市にある寺院の当時の住職に対する授与書きが、はっきり認められてあります。したがって、日寛上人のお心を拝するならば、今、学会が悪用している御本尊は、学会に与えられたものではなく、血脈付法の上からの御本尊の書写において、ただ一人の僧侶に与えた一機一縁の本尊であります。

 これを学会の者が、さも自分達にその所有権がある如くに、勝手にあちらこちらの人に渡すということは、全く仏法の筋道を蔑ろにするものであります。すなわち、付嘱を蔑する行為であり、大聖人様の仏法に対する大きな背反であると断ずるものであります。」P四三

☆五九〇号

 (平成七年二月二十三日・南九州布教区御親教の砌)

 「近年において、池田大作という仏法破壊の大悪人が現れ、下種三宝を深く尊んで正法を弘通するという、前に存在したと思われる創価学会の精神をいつの間にか忘れてしまって、我見の上から仏法を考え、法宝を考えて、大聖人様の仏法を私するようになりました。

法宝誹謗の顕著な例は最近における『ニセ本尊』の作製・販売でありますが、そのほかにも大作は、本門戒壇の大御本尊に対し奉り、実に不敬な言辞を弄しておるのであります。これらはすべて、大作が下種三宝のなかの法の宝を破壊しておるところの姿であります。

 仏宝について言えば、『大聖人様も人間である。我々と同じ人間なのだから、人間としての仏法、人間主義の仏法をこれから考え、行うべきである』という趣旨のことを言っております。これはまさに『摧尊入卑』、尊きを摧いて卑しきに入れるものであり、これほど仏を馬鹿にし、仏を蔑ろにする姿はありません。」P四四

☆五九三号

 (平成七年五月十一日・法光寺本堂・庫裡移転新築落慶法要の砌)

 「今日、すさまじい末法濁乱の姿をそのまま顕す、オウム真理教などというような宗教も起こってくると思われます。

 しかし、それよりもすさまじいのが、大聖人様の正しい法に背き、その正法を虐げておるところの創価学会であります。これが今日、オウム真理教などよりももっと根元が深い大謗法の存在であるということを、私ども日蓮正宗の僧俗はしっかりと肚に入れ、この創価学会のなかから一人でも多くの人を救ってあげたいという気持ちをもって、いよいよ破邪顕正の再折伏を行うことこそ大切であります。」P五四

 「ところが、第三代の池田大作という人間は、自分中心の立場から日蓮大聖人の仏法をことごとく利用し、その上に本末顛倒の大邪見と摧尊入卑の卑見をもって日蓮正宗を徹底的に打ち破ろうとしておる大莫迦者でありまして、これほどの大謗法はないのであります。」P五四

☆六〇二号

 (平成八年二月十一日・常泉寺開創四百年記念法要の砌)

 「計我というのは、自分の我見を計するということです。学会員の者達が『私が偉いから、私がやったんだ』と言い、『これだけ創価学会はやったではないか、だから学会が偉いのだ』というようなことを言いますが、このような姿が計我に当たるのです。この計我に墜ちたならば地獄行きなのであり、その元になるのは驕慢か懈怠のどちらかなのです。」P二九

 「もう一つ、気をつけなければならないことは、私どもをはじめとして、懈怠謗法ということがあります。懈怠ということは、やらなければならないことをやらないということです。勤行をきちんとしなければいけないところを、勤行をしない。あるいは教学試験を受けなければいけないのだけれども、私は今年はやめておこう、などといって逃げる人は、この懈怠謗法になるのです。この懈怠謗法は、自分自身の徳を落とし、色々な意味で仏法の功徳を受けられません。」P三〇

☆六一一号

 (平成八年十一月二十日・御大会に参詣の海外信徒お目通りの砌)

 「しかしながら、あの創価学会のように、ただ数さえ増やせばいいというような、実にめちゃくちゃな在り方は、今日においてはむしろ大謗法になると思います。  これからの広宣流布の在り方は、けっしてあせらず、また、数だけを増やし、その力によって、わがまま非道なことや自分の我欲・我見を通していくという創価学会のような考え方は絶対にあってはならないと思うのです。」P六七

☆六一五号

 (平成九年三月二十九日・第四回講頭・副講頭指導会の砌)

 「創価学会で言えば、あの宗教法人設立ということが、やはり一番の元をなしておるようであります。ですから、根本を忘れ、中心を忘れたところには、実に非道な姿や謗法の姿が次から次へと表れてくるのだと思います。」P五一

 「池田大作は、正本堂の着工法要において『三大秘法抄』の文を挙げて、『この法華本門の戒壇たる正本堂』と言明しております。これは、慢心と我見により、自分が広宣流布を達成したことにしたいがために、御本仏の御遺命をないがしろにする大謗法であり、ここに根本的な誤りが存していたのです。

 ところが、このような大謗法を犯しておきながら、自分自身は少しの反省も見せず、あとになって幹部の和泉などという者に、体裁を繕うような形でその発言を訂正させているのです。日蓮正宗の信徒でありながら、しかも創価学会という巨大な組織のなかで絶大な影響力を持つ立場にありながら、日蓮大聖人様の御遺命をないがしろにする大謗法の発言をしたのですから、はっきりと『間違っておりました』と自分自身で言うべきなのです。しかしながら、これは今もっていたしておりません。」P五二

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