阿部語録 


第十六 宗門方針


  ☆四二〇号

 (昭和五十五年十一月二十八日・富士学林研究科閉講式の砌)


 「そのような時に当たり我々は、すべての善悪・是非の判断について、法華経の根本であり、大聖人様の御本懐である御本尊に対し奉り、信伏随従か誹謗背反かを根本として決めていかなければなりません。」P七〇

☆四五二号

 (昭和五十八年八月二十九日・全国教師講習会の砌)


 「皆さん方ははっきりと、あの者どものような法賊は絶対に許さないという気持ちをもってください。いい加減な気持ちで”昔は友達だったのだから”という気持ちで、電話がかかってくれば『どうだ、元気か』などと、そのような対話なんかをしてはいけません。もしも電話でもかかってこようものなら『汝は大聖人の仏法を盗み、大聖人の仏法を土泥に踏みにじるところの大賊であるぞ』と言い切りなさい。そして皆さん方は信心において彼等と決別しなさい。彼等は『明治教学と決別する』と言っておりますけれども、皆さん方は大謗法の彼等と決別することこそ、本当の日蓮正宗の僧侶としての在り方だと思います。」P五二

これよりケンカ別れの後の発言

☆五四三号

 (平成三年三月十八日・法華講支部指導教師指導会の砌)


 「私は、皆さんの前でこのようなことを言いたくはないけれども、やはり僧侶は信徒に対し、本当に正しい心をもって接してもらいたいと思うのです。相手の信徒も色々であって、狂っておる人もあります。そのような人は、僧侶がいくら正しい気持ちをもって接し、教導しても、なおかつ悪口を言い、様々なところで色々と、法を破るような姿も出てきます。これはもう、仕方がありません。それでも機会があれば戒めることは、もちろん必要だと思います。しかし、どうしても直らない者は、そのような者をそこに置いておくことが毒になるとすれば、ほかの人の信心の妨げになる場合も多々ありますので、これは指導教師として適切な、やはり慈悲の上から正しい指導的処置をしなければならないと思います。P四〇

 (平成三年三月二十五日・第一回海外指導に関する教師会の砌)

 「今までは、創価学会の折伏、また戦後における様々な人的交流の中で、海外に日蓮正宗の信仰をする人が増え、それらを組織的にまとめる意味があって、今日、海外それぞれの国にSGIの組織が出来ておるわけです。これは皆さんも承知のとおりである。

 しかし、これをただ一つの組織だけで指導していくという姿の中には、やはりどうしても、その一番の長になる人の考え方だけに絞られた広布の姿ということが出てくるわけであります。しかし、大聖人様の教えは一切衆生を救済するという大慈大悲の上からの御教導でありますから、その教えを受ける我々は、ただ一方的なある組織の方針、考え方だけによるよりも、さらに広く大聖人の大慈大悲を一切の大衆に知らしめ、導いていくということが大切ではないかと考えるのであります。」P五一

  ☆五四四号

 (平成三年四月十九日・全国宗務支院長会議の砌)


 「それからまた、創価学会の桎梏から抜け切って各寺院に信仰の救いを求めてくる人は、本当にあらゆる迫害を覚悟の上で来る方々でありますから、このような人々に対しては住職は、心からその人の信仰の立場を思い、信仰の上から温かい救済の手を差し伸べていただきたいと思います。

 いやしくもいい加減な考えのもとに、冷たい応対をもってあしらうということのないようにしていただきたい。」P六四

 「今日、世界においても、今までは海外信徒の指導をSGIの組織に一任していたけれども、今後はその方針を廃止するという、先般の総監名による通達によって大いに勢いづけられた信徒の人達もおります。やはり信心はもっと自由にやるべきである。もちろん正しいことでなければならないし、またいい加減になってはならないけれども、正しいことを正しく進めていくならば、宗門の形の中においてもう少し色々な意味で自由な立場から信仰指導が行われてもいいと思うのです。」P六五

☆五四五号

 (平成三年五月三十日・第三十三回寺族同心会大会)


 「今日、まだ数は少ないけれども、誤ったことを色々と行って宗門を誹謗しておる団体から目覚めて、お寺の指導を仰ぎに来る人々もあるということを聞いております。その人達こそ、これからの宗門の広布の元となる尊い信心を持った方々であるということを、僧侶の方々、また寺族の方々にも深く考えていただきたい。そして、その人達とともに正法正義をどこまでも正しく、いかなる迫害にもめげず、臆せずに貫いて弘宣していくことこそ大切であります。」P四一

☆五四七号

 (平成三年七月二十一日・全国教師指導会)


 「このような点からも、創価学会に根本的な誤りがあるにもかかわらず、それに追随し、中途半端な和解をすることが、これから本当に正しく持ち、未来万代にわたっての広宣流布に向っていく道であるのか否かということを、皆さん方によくお考えいただきたいのであります。」P三六

 「今日、創価学会の中には、『池田先生には大功績があるのだから、誤りなど絶対にあるわけがない』などという考えを持つ者があるが、それは大きな誤りである。どのように功績があろうと、誤りは誤りなのです。だから日興上人様はその誤りを決然として正され、それをどうしても聞き入れないことから、やむをえず身延を離山されて大石寺を開創あそばされたのであります。」P四二

 「本当の正しい教導であればこそ、中途半端なところでやめたならば何の意味もないことになってしまうのです。そのような行為は大悪になります。仏法の破壊は、まさにこの中途半端というところから起こるのであります。

 ですから、昨年の暮れ以来、創価学会の誤りを正しておりますが、これは絶対に中途半端な形や、いい加減な形での解決を図るということはいたしません。また、それは大きな誤りであり、大悪であり、仏法破壊につながるものと私は確信するのであります。」P四三

 「しかし、今日はそういう時代ではないのです。今の創価学会の在り方に疑問を感じて、『このようなことでいいんだろうか』と思っている御信徒の方々が、数としての表れ方は少ないかもしれないけれども、全国各所におるはずであります。皆さん方の寺にも少なくとも一人や二人は来たはずです。多い寺では百人を越している所もあります。  そのような方々が相談に来たときには、温かく相談に乗ってやっていただきたいのです。そして、その方々が意を決して直属信徒になったときには、本当に心からその方々の信心の確立、さらに信行の増進のために、できる限り努力を払うことこそ、今日における僧侶の御奉公の姿であります。」P四六

☆五五〇号

 (平成三年十一月二十日・宗祖日蓮大聖人御大会の砌))


 「今や、創価学会は、その本来の正法広布の目的と使命を忘れ、大聖人の五段の相対の元意と甚深の法脈に背き、特に、内外雑乱して世間に媚び、利養に貪著し、悪心を懐き、常に世俗の名誉権勢を思い、多くの民衆を誑惑して我見の仏法を申し狂い、正法を持つ僧俗を誹謗し讒言しております。かかる池田創価学会は、もはや、昔日の如き正しく正法を弘通する団体ではなく、自らその使命を放棄した、三宝破壊の集団と化しております。故に、本月の七日をもって、宗門においては、創価学会に対し、断固、その解散を勧告いたしました。

 よって、我々宗門の僧俗は、この時こそ一致団結して、あくまで創価学会の邪義にたぶらかされている人々を救い、さらにまた、有縁の衆生を大法の甘露へ導き、真の広布の基盤を確立しつつ、正法の広布に邁進すべきであります。」P三四

☆五五一号

 (平成四年一月一日・新年の辞)


 「かの池田創価学会が我見を以て、グローバルな世界宗教などといかに申し狂うとも、法の根本を忘れ仏意に背く以上、所詮その一切は泡沫にすぎない。況や慢心による宗門支配の企てや仕掛けは、当然の如く破滅した。

 今後、この者どもの誹謗中傷は更に増そうとも、法華の持者の不惜身命の志と、堅い信念行躰は微動だにするものではない。」P五

☆五五一号

 (平成三年十一月二十八日・平成三年度富士学林研究科閉講式の砌)


 「ですから、収入がないからといって学校の先生をしたり、ほかの仕事をする者も今日はいない、またそのようなことはしてもらいたくない。暇があるならば、たとえ食べる物がなくとも、お粥をすすっても御書を拝し、また有縁の人を訪ねて仏法を語り、共に僧俗一致の行業をもって広布の道に邁進をしてもらいたい。また、今日はまさにその時に来ております。」P六九

☆五五一号

 (平成三年十二月二日・非教師指導会の砌)


 「創価学会が非常な慢心を生じ、結局のところ、宗門の上に立って、宗門の一切を差配するような考え方が根底にあったのです。その考え方の上から色々と画策をしてきておったことが過去にも明らかであり、今日、昨年以来の色々な在り方においても、それが私の心の鏡にはっきりと映じておったのであります。

 そのようなところから、これはどうしてもきちんとしなければならないということを根本的な意味において感じておりましたが、やはり過去からの色々な因縁もあったことですから、その都度、きちんとした対応をしてまいりました。そして、その間において創価学会が、本当に真心をもって自分達の様々な誤りを反省し、素直な気持ちで教導を受ける姿勢を表してくるならば、当然それを受けて、正しい筋道のもとに立派な僧俗関係をさらに続行していこうということは思っていたわけであります。

 しかし、そのような考えはとんでもないことであって、宗門が彼等の誤りに対し、その時その時に応じての対応をきちんとするたびに、『創価学会は百パーセント正しく、宗門は百パーセント間違っている』と断定するような、いわゆる百パーセント慢心の気持ちからあらゆる反抗的対応が我々に対してなされてきたのであります。この推移の上からも、今日ここに振り返って見たときに、法を護るためにやってきたことがすべて正しかったということを、私は確信しているのであります。」P八三

  ☆五五二号

 (平成四年一月一日・平成四年元旦勤行の砌)


 「私は昨年度において、仏法の上からの非常に深い意義を感ずるのであります。それは、過去において信徒団体としての創価学会によって、特に牧口初代会長、戸田二代会長等の命懸けの折伏、その組織作りの成果として大きな広布の進展が見られ、またその上に、今日は誤りのなかに堕しておりますが、池田第三代会長以下による広布への前進の姿も見られたのであります。しかし、やはり根本において自分の一身を法に捧げるという心を忘れ、我見・我慢をもって仏法の根本を解釈し、法を考えるところに大きな誤りが存在して、今日のような事態となったのであります。  この過去の広布の姿は、いわゆる在家の信徒団体によるところの正法広布の姿でありました。しかし、七百年の昔の『祖道恢復』を深く考え奉るならば、やはり本来は、僧侶と信徒の方々が心を一にして、僧俗一致の上からの広布の体制が確立することこそ、真の正法の光輝が正しく日本ないし世界に光被する所以であると存ずるのでございます。」P六五

 (平成四年一月三日・法華講連合会初登山お目通りの砌)

 「ただいま、各支部の代表者としてお名前を伺いましたが、昨年一年間において百二十九支部が増えておりまして、本宗の各寺院に所属する講中が一年の間にこれほど多くの増加を来したということは、宗史においてかつてないところであります。これは昨年より本年において、日蓮正宗の仏法が興隆し、真にその意義が発揮される時期が来ておるからであると存ずるのでございます。

 昨年より、世間では種々の問題について色々と取り沙汰されておりますが、その本質を見極めておる人は非常に少ないと思うのであります。ここにおいでの講頭の方々やきちんと寺院に所属されている方々は既に御承知と思いますけれども、この問題の根本は、池田創価学会の仏法に対する掴まえ具合、拝し方に大きな誤りが存在いたしまして、そのところから現れておるところの姿であるということを、改めてここに申し上げておきたいのであります。」P六八

☆五五三号

 (平成四年一月二十八日・法華講支部指導教師指導会の砌)


 「それから、この際、僧侶の心構えの一つとして改めて申し上げておきたいことは、皆さんも既に御承知のとおり、『少欲知足』ということであります。何がなくても御本尊様と礼拝用の道具と袈裟・衣と数珠と中啓があれば、あとは寺として何も要らないのです。

 御信者の信心を利用し、乱用して、自らの欲に絡むようなことはないと思いますが、人間ですから、ついついそのようなことにかまける人があったならば、これはやはり本当の広宣流布のための、小さなことだけれども、広宣流布を妨げる魔の用きをするようになると思うのであります。」P三七

 「最後に、皆さん方に改めて確認しておきたいのですが、このたびの問題に関しては、宗門は一切が正しく、創価学会はすべてが根本的に誤りであるということを、肚のなかからしっかりと確信を持っていただきたいのであります。

 これについては、当然、ほとんどの方がそのような認識であると思います。しかし今日、過去に創価学会の世帯数が何千世帯もあったような寺院において、直属信徒がいまだに一世帯とか、二世帯しかないというような状況であるならば、そういう住職は僧侶としての風上に置けないような学会べったりの、この期に及んでもまだ創価学会に未練があるような者だとおもうのであります。

 今、池田創価学会は、嘘と誹謗の『池田創価悪会』であります。徹底した嘘を尽き、徹底した誹謗をしております。この誹謗もすべてが嘘で固めたものです。また、池田大作氏は法門が判らず、仏法に対する根本的な邪見があります。戒壇論についても、御本尊の拝し方についても、そのような根本的なところからの邪見があるのです。さらに慢心により、自分自身があくまで仏法の中心であるという、まことに大それた大邪見が存するのであります。」P五〇

☆五五六号

 (平成三年六月十日・正興寺新築落慶法要の砌)


 「皆さん方もそれぞれの立場において、狂っておる人、間違っておる人を見たならば、随うと背くとを問わず、慈悲の気持ちをもって少しずつでも正法正義を説き、その誤りを指摘し、正法に帰一せしめるように努力することが自行化他にわたっての正しい信行になるのでありまして、それこそが我々の真の成仏の道なのであります。」P三七

☆五五七号

 (平成四年五月二十八日・全国教師・寺族指導会の砌)


 「その上から拝していくならば、日興上人様が『遺誡置文』に、

 『時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用うべからざる事』

ということをお示しでありますが、この御遺誡はまことに一切をお考えになっておる、正しく勝れたお言葉と思うのであります。もしも私が間違ったことを言い出したならば、皆さん方はそれを用いてはいけないのであります。これは大聖人様、日興上人様の御指南であります。

 しかしながら、『用うべからざる事』とあるのであって、直ちに法主の立場にある者に対して反逆し、悪口をいい、謗るということではないのです。この『用うべからざる事』とは、あくまで受動的な意味でありまして、そこに法華経の本義、すなわち大聖人様から日興上人、日目上人と付嘱されておる意義が存するわけであります。

 したがって、次の文において、

 『衆義たりと雖も仏法に相違あらば貫首之を摧くべき事』

とあるのです。今度は『用うべからざる事』ではなく、『摧くべき事』とあるのです。つまり、私の責任は誤りを摧くというところにあるのです。ですから、今般、創価学会の誤りをはっきりと摧くべきであるということを確信いたしましたので、ある時から決意をして、今日の経過に至っておるのであります。」P五七

 (平成四年五月二十九日・第三十四回寺族同心会大会の砌)

 「今まではある大きな組織に頼り、その組織の指示によって信徒が総本山や末寺へ参詣するなど、組織の力をもってお寺が運営されるというような考え方や在り方が存在しておりました。そこからなかなか、ふっきれなかったわけであります。

 しかしこれが、大きな世界史的な動きと同時に、むしろ他に先んじて宗門がそういった形を表してきたというところに、私はこの仏法の不思議さを感じておるのであります。

 だから、創価学会の力に包まれて宗門が存在するというように考えた時期がかりにあったとしても、いつまでもそのような観念に心を奪われておっては、絶対にならないのであります。」P六四

☆五六〇号

(平成四年八月二十八日・全国教師指導会)


 「その上からも、過去を振り返ってみまするときに、創価学会の謗法は、実に間口も広ければ、奥行きも深いということを、私は本日、皆さんに申し上げたいのであります。

 それであるが故に、一朝一夕に、簡単に一切の問題を解決するわけにはまいりませんでした。また、過去からの色々な関係、つまり、僧侶と信徒、あるいは宗門の外郭団体として認めてきた創価学会と宗門との関係においても、そう簡単に、短絡的に処置ができるものではございません。かといって、その謗法の在り方に対しては厳として対処をし、それに対する正しい方策を講じなければならない次第であります。

 そういう点からも、その時その時に応じて、一つひとつ対処をしてまいりました。それは、ある見方からするならば、足が遅いような、のんびりし過ぎておるような見方すらあったかも知れませんけれども、これらをその時に応じて、御仏意の命ずるがままに、また、深い時の在り方に順応して処置をしてきたということを感ずるのであります。」P六一

☆五七二号

 (平成五年八月二十六日・全国教師指導会の砌)


 「たしかに創価学会は、正法の弘通において色々と貢献する形がありましたし、基本的な意味で一番根本のところに従い奉る意味があれば、これは許せるのです。したがって、その後においてたとえ色々な意見の相違があっても、話し合いの上でそれが整合できると思います。

 ところが、根源のところで信心が狂い、自分中心ということになってしまったならば、これはもう全部が濁ってきます。そこにおいて、法脈をどこまでも正しく持ち、真の正法護持と広布を進めるためには、どうしても自浄作用の形が出てくるのであります。

 今までに何度もお話しいたしましたように、今度の学会問題もけっしてこちらから仕掛けたのではない。みんな向こうから仕掛けてきたのです。その仕掛けられた形のなかにおいて、筋道、立て分けをよく考えながら、きちんと処理をしてきたということなのです。しかもそれは、時が来て、総本山開創七百年という不思議な時に巡り値い、さらに、その他の因縁も相まって、そこに自浄作用がおのずと現れてきた姿なのです。したがって、それは何も学会との対立でもなければ、喧嘩をしているのでもありません。」 P七一

 「また、最近、『写真偽造事件』に関して裁判を起こしましたが、これについて、『世法に訴える必要があるのか』という見方もあるかも知れません。しかし、私はけっして世法に解決を依存するつもりはないのです。

 つまり、私個人の問題だけであるならば、どんなに悪口を言われようと、私自身がそれを忍んでおれば済むわけですから、世法に訴えるつもりは全くありませんでした。しかし、日蓮正宗の管長たる私が、すなわち法脈を戴く者が、全く歪められた偽造と悪宣伝の形で社会に広まり、何も知らない学会員の多くの人達がそれを盲目的に信じている姿がありますので、解る、解らないは別として、きちんとけじめをつける必要はあります。

 その方法論において、今日は法治国家のなかでの裁判という手段もありますから、一往、世法の形を利用してきちんとけじめをつけるということであります。だから、あくまで精神は仏法の正義を顕すことにあります。」P七二

☆五七四号

 (平成四年六月二十一日・東北第一布教区御親教の砌)


 「今、世間では、宗門と創価学会は喧嘩をして悪口を言い合っているというような見方をする向きもあるようですが、これは明らかに違います。創価学会は間違いなく正法を悪口・誹謗しておりますが、宗門は誤りは誤りとして、謗法は謗法として、その間違いを糾さなければ、その者達が地獄に堕ち、さらに迷う者が出ますので、慈悲の立場から堂々と論破し、教導しているのであります。そこに世間の者達には解らない、宗門の正しく高い境界があるのです。

 したがって、私が口から血を吐いて死ぬというようなことは絶対にありません。」P五〇

☆五七五号

 (平成五年十一月二十六日・富士学林研究科閉講式)


 「それは創価学会のような形で、なんでもいいから大勢の人間に広宣流布すればいいということではありません。それこそ、日達上人も仰せになったように、あのような形のなかで大聖人の仏法でない、驕慢謗法以下十四誹謗の歴然たる形まで表れてくるのであれば、結局、広く流布してもなんにもならないのです。」P六九

 「現に、宗門は着々と前進しているのです。今日、我々は、僧侶は僧侶なりの立場のなかで真剣に教学を研鑽し、また、一人ひとりがそれぞれの立場においてどんなことも忍びつつ法を弘め、修行しております。これが僧道です。また、これが広宣流布への道なのであります。数が多くならなければ広宣流布の行ではないなどという考え、いたずらに数にばかり執われる姿、あの学会的な考え方が広宣流布の在り方だというような考えは、ぜひ捨ててもらいたいと思うのです。」P七〇

☆五八一号

 (平成六年五月二十六日・全国教師・寺族指導会の砌)


 「今日、日本ないし世界最大の邪宗教は何かと言えば、まさしく創価学会であります。これをはっきり肚に入れてください。そうであるならば、生ぬるい風呂の湯に入ったようなグズグズした考え方は一挙に捨てて、創価学会を慈悲の上から徹底して破折しなければいけないのだという気持ちを、はっきり持っていくことこそ大切だと思うのであります。」P三九

☆五八一号

 (平成六年五月二十六日・全国教師・寺族指導会の砌)


 「色々な宗教があるけれども、今日の創価学会ぐらい、あらゆるものが大謗法に当たっておる姿はありません。この点を皆さん方の一人ひとりが、しっかり考えてもらいたいのであります。

 要するに、いい加減な生ぬるい考えは捨てて、創価学会に毒された者どもを徹底して破折し、そのなかから一人でも多く救ってあげなければいけない、この気持ちを持っていただきたいということを、私は声を大にして申し上げたいのであります。」P四二

 「一つは、学会からの嫌がらせ・攻撃等が怖いために、全く学会破折を行わない僧侶がいるらしいということであります。これを私は信じたくはありません。まず、いないと思います。しかしながら、心配の種としてはあるわけでありますが、これは何が原因かといえば、憶病な心だと思います。」P四二

☆五八一号

 (平成六年五月二十六日・全国教師・寺族指導会の砌)


 「結局、憶病で、やる気がなくてやらないということであれば、たいへん卑怯な、僧侶にあるまじき姿だと私は思うのであります。

 創価学会の大謗法破折こそ、今日において我々の行うべき最重要の課題であると思います。すなわち、現実に謗法の創価学会に毒された者がいっぱいいるのであり、それらの者が今日、日蓮正宗のことを『このようにインチキな宗教だ』と言って誹謗し続けておるのですから、これらの者を破折しないでどうしますか。このことをしっかり考えていただきたいと思うのであります。」P四七

☆五八五号

 (平成六年八月二十四日・第四十三回全国教師講習会の砌)


 「結局、摧尊入卑なのです。ですから、創価学会の人達に対して、『あなた方の仏法は摧尊入卑です』ときちんと指摘していただきたい。池田大作がこの摧尊入卑の元凶なのです。創価学会の者達と話すときにはこれをきちんと言ってもらいたい。謗法の者に対しては徹底して破折しなければいけません。

 それを、宗教家として人格を疑われるというような考えから、尊称を付けて池田大作を呼ぶ人がいるようですが、正邪をはっきりと峻別する上からは呼び捨てでいいのです。

 『池田大作はこのような誤りを言っているが、これは摧尊入卑なのです』と堂々と破折するべきなのです。」P四二

☆五八六号

 (平成六年十一月二十日・宗祖日蓮大聖人御大会の砌)


 「その最も増上慢の甚だしいのが、池田大作如き者をして、本門弘通の大導師と敬う如きことを門下に発言せしめた過去の事例であります。取りも直さず、日興上人の僧宝の随一たる基本を乱して、池田がこれに替わらんとするものであり、誑惑、これより甚だしきはありません。我等日蓮正宗の僧俗は、あくまで正しい三宝観に立って、信行に邁進すべきであります。」P四二

☆六〇〇号

 (平成八年一月六日・末寺住職・寺族初登山の砌)


 「創価学会が我見により正法護持から離れた考えを持つようになり、宗門に対し圧力を加え、それをだんだんと増長させ、色々な謗法の姿が現れてきた以上、初めは消極的な形でしたけれども、そのたびごとに筋目の上から信徒の謗法を戒めるという道をとってきたことは正しいことであったと信じております。そしてまた、今日、破門という形になりましたが、これは私個人の我見によるものではなく、仏様のお導きによって、このような形となっておるということを感じております。」P七六

☆六〇四号

 (平成八年四月十六日・正蓮寺震災復興落慶入仏法要ならびに兵庫布教区御親教の砌)


 「それまでは池田大作が総講頭になっておりましたけれども、任期は定められておりませんでした。つまり、総講頭に任命されたならば、一生、総講頭なのです。悪心をもって宗門を支配せんとする人間が死ぬまで信徒の代表である総講頭という立場にあるなどということでは将来にわたって困りますし、信徒の役職において任期がないということもおかしいことです。ほかの役職は全部、任期が定められているのに、総講頭だけ定められていなかったのです。これは将来からその不備が指摘されていた点でありました。そこで、総講頭の任期を五年とし、大講頭については二年であった任期を三年に改正いたしました。この規則は今日も当然、生きております。」P五三

 「したがって、平成三年七月には、御承知のとおり、大謗法団体と化した創価学会の団体登山を廃止し、真に総本山の御戒壇様を渇仰恋慕する信徒のみが参詣できるべく、末寺からの添書登山に切り換えたのであります。これによって一時、参詣者が少なくなりましたが、しかし、これは参詣者の数に左右されるような問題ではありません。むしろ、池田大作の誹謗を真に受け、下種三宝に背く気持ちで総本山に登山し、御戒壇様にお目通りしても、これは功徳にはなりませんし、また、本来の意義から言えば、そのような者達に御戒壇様へのお目通りを許すわけにはいかないのであります。」P五五

☆六一一号

 (平成五年六月二十日・北陸布教区御親教の砌)


 「天台、真言の高僧等には非常に深い貪欲がありますから、そのために公家、武家を恐れて、それら公家、武家が禅や念仏の教えを狂った考えで信仰しておるにもかかわらず、それを破折できないことを指摘されております。すなわち、天台宗の僧はそれらの人々に対して、『念仏や禅等の立て方、考え方は、仏の教えに全く違うのである。法華経のおしえはそうではない』ということをはっきり言わなければいけないにもかかわらず、うっかりそういうことを言うと疎んじられることを恐れて本当のことを言わない。要するに、そうなれば入るところのお布施も入らなくなるということでしょうが、そのためにきちんとした破折をしないということでありまして、これは仏法において最も恥ずべきことであり、いけないことなのです。

 私も、もし貪欲が盛んであったならば、もっともっと創価学会にたいしてもおべんちゃらを使って、仲良くやっていたことでしょう。けれども、創価学会があまりに狂っておりましたので、法を正しく護る上から、はっきりその誤りの反省を求めたのです。そのために彼等は瞋り狂い、あらゆる嘘と流言蜚語をもって私を謗っております。」P五二

☆六一二号

 (平成九年一月十一日・末寺在勤教師初登山の砌)


 「ですから、創価学会が一往、宗門のために御奉公をするという形のあるうちは、それは大いに結構だと思っておりました。しかし、その根本のところに地金を現してきて、我見による誤った考えを押し通すために『大聖人直結』などと言い出した以上は、やはりこれにきちんとしたけじめをつけて、その考え方は誤りであるということを陰に陽に示してきたのであります。しかしながら、池田大作の『宗門、法主、何するものぞ』という大慢心の上からの考えは翻らず、宗門支配、三宝破壊の形を様々に表してきた次第であります。」P五六

☆六一五号

 (平成九年三月三十日・法華講連合会第三十四回総会の砌)


   「ですから、しばらくの間は、創価学会、池田大作等を正しく導かんがために心を砕いてまいりました。しかし、本来、その本性・本音が謗法の姿として持っておる者どもでありましたので、結局、池田中心、創価学会中心といところに仏法の本義を乱してしまったのであります。そういうところから、様々な現証が起こってきた関係上、平成二年以来、その問題に対して、宗門はきちんとしたけじめを立て分けてきた次第であります。

 ですから、正信会の者どもが独走し、御先師が決められた轍を乱して創価学会を打ち破ろうとした姿は、まさしく時と機を知らなかった姿であります。彼等は、『自分達がやったから、日蓮正宗もまた、それをまねしたのだ』というようなことを言っております。しかし、それは大きな誤りであります。これは時に随って初めて、真実の正法正義とともに、真の破折の姿が顕れてくるのであります。

 今、宗門がここに僧俗一致して正法広布を目指しつつ、邪義・池田創価学会を破折するに至ったことこそ、本当の時を得たところの姿であります。したがって、今こそ創価学会の謗法を徹底的に破折していくべき時であります。」P六二

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