志田についての紹介です  福井弁に変換させて読む<リンク先も変換し続けます。

     地名の由来



  始まり

  志田は、今から千年ほど前の頃、村の家の戸数は7軒だったそうです。(今は52軒あります。) 

 村のお年寄りの話では、江戸時代は周りに10ある村の中でもなぜか志田だけ幕府の直

 轄領だったそうで、 周りでもめ事があっても、志田の村の人が間に

 はいると結構おさまったそうです。 志田の場所は海から60k

 程山にはいった岐阜県と石川県の県境に近く、福井県の九頭竜

 川という大きな川の河岸段丘の上にあります。

 20〜30年前は雪が1〜2メートルも積もったのですが、今は50

 センチ程積もるか積もってもすぐ解けてしまい昔のように根雪に

 なることは少ないようで、こんなところにも地球温暖化の影響があるような気がします。

 近くに雁が原スキー場と最近できたスキージャムや恐竜博物館があります。

        


      弁天岩と網掛け岩 

  志田の周りには10の村がありますが、今回は近くの村の言い伝えを紹介します。

  志田から南に4キロ程入った山沿いに矢戸口(戸数75軒)という、裏は山の村があ

 ります。 この村の名前の由来は、昔このあたりの地域では藺草で編んだ ござぼうし

 と 干し柿 をよそに売りに歩いていました。でも、大野市(現在人口4.5万)に行くの

 に九頭竜川沿いに歩くととても遠く(約18キロ)、この村の山を越えればそこが、

 すぐ大野の 大矢戸・小矢戸に出るので ”矢戸口”と名前が付いたのだそうです。

 この大野の矢戸に出る山道を矢戸坂と呼んで毎日近くの村の人は矢戸坂を通って行商に

 出ていました。

  この矢戸坂の峠にさしかかるところに大きな岩があってその岩の間にいつの間にか白

 蛇が住み着いて行商の村人たちは朝日が昇る頃この岩の間を眺めて白蛇が見えたときは

 たくさんの品が売れるのでそのうち弁天岩と名前が付いたそうです。

 朝 出かけに弁天さんを拝み沢山売れたと言っては帰りにまた拝みしていたようです。

 こうしてこの地域は平和に暮らしていました。

   <正面の山が矢戸坂です。 

  ところがそれからしばらくしてこのあたりが大飢饉におそわれました 我が志田の村

 の人も食べる物もなく村を逃げ出す人も多く 年寄りの言い伝えでは「池田の崖を下っ

 たあたりでもう見えんようになった」ということです。(池田の崖とは志田から九頭

 竜川に向かった河岸段丘のこと 昔は2キロ以上蛇行して流れていたようです。)

 この頃ここを通りかかった弘法大師がこの有様を見て 「う〜む、これはいかん九頭竜

 川の鮎の取り方を教えよう」と網を編んで魚の取り方を教えてくださり、この地域の人

 は大変助かったそうです。しばらくして「わしは、これから大野に行かねばならんが網

 が切れたとき困るであろう そうじゃ 矢戸坂の峠の岩に網を掛けておこう さすれば

 周りの者みなが網が切れたときもそれを見て直せるであろう。」 

 うそか誠か 小さい頃村の年寄りから聞かされていた話です。

 <大野側から見た矢戸坂

  私が小学5年の時、学年行事で(遠足でなく)、矢戸坂に登ることになりました。ほと

 んど獣道になっていたのを地域行事で山道を付けたのです。

 私たちは先生から、「弁天さんの白蛇はもし見えるといいことがあるぞ しかし、見え

 たことを人に話してはいかんぞ」と言われていました。

 山道を歩きながら昔の人はとても大変なんだここを毎日歩いていていたんだと思いながら、

 峠にさしかかると先に弁天岩が見えました。 みんな我先に岩の間に群がっています。

 私もそぉーとのぞきました奥の方が暗いのですが、かすかに、白いものが見えます。

 「みえたー!」でも誰も見えたとは言いません田舎の小学生です。

 みんなずーと先生の言うとおり守っています。私は子供の時は信じていました。

 でも、いま思うと何百年も生きているわけがないので誰かが白ひもを岩の奥に入れたのかな〜

 と思ったりしています。でも実際にいるのかもわかりません。

  今度は50メートル程先に大きな網岩がありました。まあ、見事に きれいな正方形

 の形をして本当に網を掛けたようになっています。網の結び目までもありありとですよ 

 網は風化しても弘法大師のお力で岩と一体になっているそうです。

 まあ不思議なのですが 話が嘘だとすると この岩は自然にこんな正方形の網が掛かっ

 た形に風化したのでしょうか。

 以上 弁天岩と網掛け岩の言い伝えと小さい頃の体験です。

 弘法大師のお話はまだありますので今度続きを書きます。

 



 
   志田の神社

<志田の八幡神社

  志田には何故か白山神社と八幡神社と神社が2つあります。他の村は一つの村に神

 社も一つなのです。

 これも、小さい頃村のお年寄りから聞いた話なので、2つの言い伝えがあってどちらが

 正しいのか分かりません。一つは村の名字は吉田と石田が多いので、そのため石田家の

 神社と吉田家の神社ができたという説。もう一つは、元々神社は一つだったのが、先ほ

 ど弘法大師のところで書いた池田の崖の近くに20年ほど前まで火葬場(さんまい)が

 あったのですが、昔ここに祠があってそれが「火葬場の近くでは勿体ない」と移したの

 で 2つになったという説です。(今はこの火葬場は無くなって勝山市営の火葬場へ行

 っています。) 追加の話<志田の勘兵衛さんより

 



  堀名(ほりめ)の銀山

<正面雲の下が水無山>

  志田から見て北に見える山に「水無山」と呼ばれる山があり、この山は谷川もあるので

 すが 不思議と雨が降ったときしか川に水が流れずいつもは乾いています。

 麓に堀名という村があって この水無し山には「珍しい輝く石や水晶」が落ちているので

 それが欲しくて中学1年の頃友達と何回か登りました。

 山の中で金色に輝く石を谷川で見つけたときは金だと思ってみんなで一生懸命に探したも

 のです。水晶なども小さいのはいっぱいありましたが石にくっついているので形のいい水

 晶を探すのは大変な苦労です。(後で金色に輝く石は鉄鉱石だとわかり「がっかり」しま

 した。まあ、そんなに簡単に金が落ちている訳がないですよね。)

  頂上近くまで登ったとき太い分かれ道を見つけ、その分かれ道の方へ行くといっぱいの

 がれきの山の中に珍しい石が沢山ありました。一生懸命いい石を探しているとき、奥の方

 で誰かが呼ぶのでみんなで行ってみると 板で塞がれた大きな洞穴を見つけたのでした。

 その穴の中は真っ暗でヒンヤリと冷たい土臭い風がして、コウモリでもいそうな感じです。

 懐中電灯でも持っていれば板を外して中に入ったかもしれませんが、みんな気持ち悪がっ

 て入ろうとはしませんでした。

 大きくなってからずーっと後で聞いた話でわかったのですが、その穴は1860年代(幕

 末)に銀を掘った鉱山あとだったのです。その頃いっぱいとった珍しい石のことも 今は、

 忘れ、もって帰ってきた沢山の石ももうありません。

 それから、あのがれきの山の中にまだ、江戸末期の銀の取り残しがあったかもしれません。

 また、山にはまだ銀が残っているかも?

   



 
  志田の遺跡

  遺跡については、何にも知らなかったのです。こんな近くに遺跡があったとは

 中部自動車道のインターチェンジが志田にできるのですが、最近、工事のため発掘調査が

 始まったのでデジカメを持って写真を撮りに出かけました。 写真をクリックすると大きくなります

 <豪族の住居跡だそうです>

 詳しくは知らないのですが、1200年ぐらい前にここに家が建っていたようです。

 土器のかけらも出ているのですが、よそより文化が低いので釜の温度が低く赤い色の土器

 でもろいそうです。

 遺跡の場所は、なんと小学生の頃、毎日通った道端だったのです。

 次は城山の古墳群です。ここも中学生の頃まで冬になると毎日スキーをしたところです。

 <正面の山は水無し山  

 <真ん中の集落が志田です。

 この古墳群も同じく1200〜1300年前ぐらいだそうです。

 2ヶ所とも小さい頃、遊んでいたところなのです。誰も遺跡の事は知らなくてびっくりで

 した。ここに、昔人が住んでいたかと思うと何かロマンのようなものを感じます。

 さらに、この古墳がある山を昔から城山と呼んでいたのですが、その理由が最近分かりま

 した。(下の三室山城跡と同じ時、戦国時代に一向宗が建てた城があった。)

  



 
    三室遺跡

  中学1年の春、歴史の時間に近くの遅羽町三室に縄文時代の遺跡が出たと習ったので、

 興味がでて三室山まで自転車にのって行きました。三室までは当時京福電車にのって4つ目

 の駅の近くで中学生には少し遠い距離でした。

 場所は、志田から東南の山を超えた九頭竜側沿いです。

  小さな山の周りに石器が出るというのでいろいろさがしました。でも、よく分からず、

 石器に似た石をいくつか拾って持ち帰り先生に見せたのですが、削った後がないので全部

 違うといわれました。

  最近、その三室山に行って来て遺跡のことがよく分かりました。

 ここで約4500年前の縄文時代の竪穴式住居跡が昭和12年に見つかって調査が始まり、

 その後、遺跡が山の周りからもいろいろ出てきたようです。

  あとの7〜8世紀にも神が宿る山として巨石を祀って祭りをした後が残っていました。

(写真クリックで拡大)

↑三室山山頂 石碑中央が九頭竜川 石碑上部左側が平泉寺     ↑ひっそりとたたずむ三室山

  さらに、山の上に城跡があり、16世紀に一向宗が平泉寺と戦うために作った城があった

 そうです。 この様な城は当時、全部で5つ 砦は2つあったようです。

 この戦いによって1574年に平泉寺(最盛期6000坊)は滅びました。

 (この5つの城の一つが上の古墳があった山、城山だったのです。)


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