穂高連峰(飛騨山脈)

焼岳(2455.4b)
焼岳  焼岳登山  登山日記

焼岳焼岳

 乗鞍火山帯に属す北アルプス唯一の活火山である。 上高地の玄関口に、小柄ながら座りのいい山体を置き、山頂から白煙をたなびかせている。 その山裾を大正池に浸し影を落とすのである。

 上高地と焼岳の関係はごく深く、古い時代、梓川は平湯の谷から高原川(蒲田川の下流)へと流れ込んでいたらしい。 焼岳の火山活動により現在の島々への梓川を生んだという。 さらに焼岳の大噴火で溶岩(又は泥流)が流れを堰き止めて湖水をつくり、上流からの土砂を堆積して上高地の沖積平地を作った。
 こうして梓川は現在のゆったりとした清流となった。

 その仕上げが大正4年(1915)6月6日の爆発で、多量の泥流が梓川を堰き止め、1日で大正池を作り上げた。 火山の分類から見ればトロイデ型で、コニーデの上に溶岩円頂丘が載っているという説もある。 山頂部に溶岩円頂丘には珍しい噴火口があり、池になっている。

 噴火の残っている記録では、天正13年(1585)、安政5年(1858)、明治40〜45年(1907〜12)、大正2〜3年(1913〜14)、大正4年(1915)、等で、この後も大正8年、11〜14年、昭和2年、6年、7年、27年と小噴火があった。 最後の噴火は昭和37年(1962)で中尾峠の焼岳小屋を破壊、多量の泥流を流し大正池を急速に埋めている。

予定行程(1泊2日)

中尾温泉口−30分−中尾キャンプ場−3時間30分−

焼岳小屋(泊)               4時間   

焼岳小屋−1時間10分−焼岳北峰−40分−新中尾峠−

2時間30分−中尾キャンプ場−30分−中尾温泉口

                  4時間50分




実行程  

 7時25分 中尾登山口駐車場 発

 9時30分 秀綱神社

10時00分 焼岳小屋(休憩40分)

10時50分 展望台

12時15分 焼岳山頂 (昼食)

13時30分 焼岳山頂 発

14時15分 中尾峠(休憩15分)

6時20分 中尾登山口駐車場 着


  神社  話題  登山  今立町


焼岳登山
平成10年7月19日(日)晴のち時々曇り            登山参加者 6名
登山日記
笠ヶ岳
 今回の登山は、初心者1名、小学生(女)1名が参加のため楽な行程で1泊を、と言うことから焼岳に決定した。

 前日夜中に家を出て、朝4時頃中尾登山口に到着。 6時30分起床まで車中にて寝る。 7時25分登山口を出発するが、天気は快晴。 駐車場から焼岳とその煙がもろに見えているし、反対側には笠岳が悠然とそびえ立っている。 気温は高くないが湿度が高く蒸し暑い。

 山道をジグザグに登っていくと、大岩の前にでる。
 秀綱神社とあるが、あとは何も説明が無く帰ってからインターネットでお尋ねしたところ、「三木秀綱」という、そのむかし岐阜の高田を治めていた武将を祀ってあるという。 しかしその後、飛騨の「赤影」さんより詳しい回答をえて、下に記しました。


 ここから山小屋まではもうすぐで、山道から登りになってきたと思ったところで山あいの焼岳小屋に到着。 すごいにぎわいでした。 上高地の方からの登山者が多く、年輩者の団体が大勢を占めています。 最近は何処もそうですけど。

 予定ではこの小屋で一泊するつもりでしたが、山あいにあり景色は何も望めません。 焼岳の噴火に備えてこの位置になったのでしょうけど、時間も結構余裕があるので日帰りに変更となる。
焼岳山頂
 小屋から少し登ると展望台に着く。 目の前に焼岳、左に上高地、右には笠ヶ岳、後ろに穂高連峰とまさに展望台です。 雲がでてきて山はよく見えませんでしたが。 (昼過ぎから雲が流れだし、遙かに槍岳を見ることが出来ました。)

 ここから頂上まで岩山を一気に登ります。 あちこちに蒸気が吹き出しており、硫黄のにおいもいっぱいで、まさに活火山を感じさせます。

 今回の登山で残念なのは、高山植物(お花)が少ないことです。 こういう環境なので仕方がないと思いますが、満開の時期でもあるので、かなり期待していたのですが。    (火山の為地温が高いせいか、高山というより高地の植物が多かったようです。)



上記の「秀綱神社」について飛騨の「赤影」という方からメールを戴きました。 以下に掲載させていただきます



    -飛騨の「赤影」-
戦国末期の飛騨は「三木自綱」という武将が一応ですが統一しておりました。 ところが、柴田勝家を破った秀吉が、富山の佐々成政を攻めるために北陸へ軍を動かします。 これと同時に秀吉の武将「金森長近(越前大野城主)が佐々成政と同盟関係にあった三木氏を攻めるために飛騨へ侵入してきたのです。
 結局、三木氏は殆ど戦うこともなく金森氏に敗戦したのですが三木自綱の息子「秀綱」だけが高山市にある「松倉城」で金森軍と死闘を繰り広げました。 しかし、裏切りが出て、秀綱と奥方は脱出し、信州方面に逃亡します。 これにより、松倉城が落城したことは言うまでもありません。

 脱出した秀綱夫妻がどのコースを通って信州まで逃れたかは今を持って謎ですが、丁度、秀綱神社のあるところで金品狙いの盗賊というか地元農民に襲われて秀綱夫妻は自害してしまいます。

 ここまでは事実かと思われますが、ここから先は伝説なので今一つ信憑性に欠けることをご了解下さい。
 秀綱の持っていた金品を取り上げようとする前に最後の力を振り絞って秀綱は「呪い」の言葉を残して金品の入った袋を川に投げ捨てたんです。 それを拾おうとしても結局見つからなかったようです。
 しばらくして秀綱を襲った農民達は「祟りじゃ〜!」とか言い始めてとうとう狂い死にしてしまったそうです。 そんなことが続いたので、これはきっと秀綱の怨念ではないか!と言われ、秀綱の霊を慰めるために建てられたのが現在の「秀綱神社」です。 つまり、三木秀綱の墓だと考えるのが適当ではないでしょうか?」