巻の十一
◆福井県鯖江市上戸ノ口町五二宮脇一◆


村社 刀那神社(とな)

福井県今立郡北中山村上戸ノ口区 第五十二号宮ノ脇一番地鎮座


祭神

天御桙命(あめのみほこのみこと)
祭神

建御雷男命(たけみかづちおのみこと)   伊弉册尊(いざなみのみこと)

刀那神社の古跡  (継体天皇と三社森)



 三ツ峰の山の東南方に、三方を山に囲まれた河和田の里がある。 里のやや奥まったところ、尾花と沢の村境のあたりを訪れると、「刀那神社古跡」と、記された石碑が一基立っている。 寺地刀那神社を勧請した高雄山のちょうど反対側にあたる。
 碑文によると、継体天皇(男大迹王)と広媛との間に生まれた茨田(まむた)皇女が、そこに住まわれたという。 そのため、この地を「麻牟田」と呼んだものが後に「可屋多」に変り、更に「河和田」に転訛したともいわれている。刀那神社古跡

 かつては、この一帯は老樹がうっそうと茂り「三社森」と呼ばれ、不浄を寄せつけない神域となっていた。 それが明治末期の農地拡大の政策で、開墾されることになり、この森の中にあった式内社刀那神社も明治四十一年に寺中の河和田神社へ合祀された。 石碑は茨田皇女の旧跡と式内社がここにあったことを後世に伝えるため、尾花区有志の発起で大正二年に建立されたものである。

 継体天皇は八人の妃と皇后との間に、10人の皇子と11人の皇女をもうけられた。 その内の三皇子は、第二十七代安閑・第二十八代宣化・第二十九代欽明天皇として、それぞれ帝位につかれた。 次いで欽明天皇の皇子女が敏達・用明・崇峻・推古帝として皇位を継承され、爾来、この皇統は現皇室へと続いている。
 継体天皇が皇位につかれた後も、何人かの妃や皇子女は引き続き越前地方に居住された。 「足羽社記」によれば、第三妃広媛には三人の皇女があり、その一人「馬来田媛」は足羽神社神官の先祖であるという。 馬来田媛の姉にあたる茨田媛はここに河和田の三社森に住んで、神に仕え、五穀豊穣を祈っておられたものと思われる。

 また、尾花には「茨田谷」「天皇」という字名があり”天皇古墳”呼ばれる円墳も残っている。 これが皇女茨田媛の墳墓ではなかろうか。
 約千五百年前の昔、人々は継体天皇の徳を讃え茨田媛を敬って社を建てた。 その後、幾十代の人々が、このお社に豊作を祈りて、田畑を耕し、山に木を植えあるいは、漆器を生業として励んできた。 そして今、この河和田の地は「越前漆器」の街として栄えている。

    「鯖江今昔」より

もう一つの刀那神社



郷社 刀那神社

今立郡今立町寺地十二-三十五-一

由緒

 『延喜式神名帳』所載の官社に比定される。

 その昔、戸ノ口地積の刀那坂と称するところに当社が創建され、数多くの社殿が居並ぶ宏壮なる大社であったが、延元の頃平泉寺の宗徒等当地の三ツ峰の城に籠もり、乱暴狼藉をはたらいた折、その兵火に罹り、社殿、宝物、旧記等悉くが類焼し、今その詳細を知る事は出来ないが、その跡地と覚しきところより夥しい土器、石碑が発掘されたと伝えられ、往古の隆盛の跡を伺い知ることが出来る。

 その昔より、此の地一帯の大字名を刀那口と称していたのは、刀那神社の鎮座する地の口に当たるところからであるが、時代の推移と共にいつしか戸ノ口と転訛したのだという。
 また当地を上戸ノ口と称したのは、霊験あらたかな式内の刀那神社の鎮座地であることと、今の戸ノ口坂を経て福井の文物と交流する最初の地であるところから名付けられた。 天正年の頃参拝に不便とのことで今の地に遷座した。

 『帰雁記』には 「刀那の神社というは戸ノ口の事なり」 とあり、戸ノ口は刀那口が変化しものと云われている。 『特選神名牒』には 「所在上戸口中村、今按区別帳に尾花村と上戸口村と両所を持って式内と定めたれど、式社の両所にあるべきいわれなし。
 旧鯖江藩の調には上戸口村と国誌類にに記せれど確拠なしとみえ、官社考に戸口村に刀那坂という坂ありこのへんにや坐しけん。 今廃絶すとあるを思うに、戸ノ口は刀那口の転と聞こゆければ本社に由あり故今鯖江藩取調書に従う」 とあり、『神祇志料』もほぼ同意味のことが記されている。

 明治四十一年四月十五日 当区無各社白山神社祭神伊弉册尊由緒不詳、三ツ峰区村社白山神社祭神伊弉册尊由緒不詳の二社を合祀す。」


例祭  九月三十日

建物   本殿(間口一間、奥行一間)       拝殿(間口三間、奥行二間)  

       渡殿       鳥居 一

本殿造営の沿革

不詳

境内  参百四拾六坪      宮有地第一種


氏子  上戸口区、三ツ峰区

高尾山

 高尾山は昔は督王如来寺のあった地で、督王山といったが、この寺が滅亡してから何時とはなく高尾山と呼ぶようになった。  山の頂上は平坦で昔大伽藍のあった跡がある。 山上の眺望がよく殊に秋は茸狩に好適の地である。 (福井県の伝説)

平成三年十月吉日

「境内 石碑」より

「 天御鉾命を奉祀する当社は天平二十年(748)聖武天皇の勅命により当地高尾山天領に建立され延喜式神名帳今立郡十四座中その名を列ねる由緒ある古社であるが、その後横山地籍に移り、更に滝清水山の現在地に移築された。 創建以来、服間谷奥八ヶ村の総社として天正の頃まで興盛を極めたが、一向一揆の際度々の兵乱を被り神領も没収され数人いた神職も離散した。 その後当村の相馬伊左衛門が神官となり、明治四十二年(1909)県令により河和田村八幡神社に一時合祀されるまで相馬家は代々神職を勤め神社の復興護持に努めた。 その間文化十一年(1814)には火災により社殿文書すべてを焼失したが、区民の篤志により翌文化十二年には本殿を、天保十二年(1848)には末社の再建を果たしている。

 この相馬家の始祖平親王相馬将門は寛和元年(985)四月五日当地に来たり。 屋敷一丁四方に館を構え相馬真海と改名、民姓に交わり正歴五年(994)九月十六日九十歳でこの地を卒す。 なお境内社 春日神社は将門が下総国守屋城に勧請された天児屋根命を奉祀する相馬家代々の信仰篤き社である。」

「福井県神社誌」より


  神社  話題  登山  旧今立町


由緒沿革刀那神社鳥居

 社伝によれば、天平十三年(741)国内に惣社及び国分寺・国分尼寺が置かれ、 同二十年(748)戌子年服部郷奥八ヶ村の総社として、従五位刀那神社が鎮座された。
 当時は当地の字高雄山天領に勧請したがその後字横山に移築し、さらに現在の鎮座地である字淹清水山へ移築したと伝えられる。 神社名も延喜式に刀那神社、総神文に従五位止奈神社とあり、祭神も故事伝に鳥鳴海神、日本書紀に天御桙とでていて古社であることが伺える。

 文化十一年(1814)甲戌年七月十三日近くの民家より出火し本殿及び拝殿は類焼し、旧記録や宝物は悉く焼失した。 わずかに勅額「惣社刀那神社」や御旗等が残されている。 また慶応元年(1865)の「薄墨の論旨」(神道裁許状)が由緒を知る記録である。

 明治四十二年(1909)五月三十一日社殿改築の終った河和田村寺中の誉田別命を祀る村社八幡神社へ刀那神社とその境内社である春日神社・子守神社が合併した。 この八幡神社は同日付を以て郷社となり河和田神社と改称した。
 昭和十八年(1943)七月十三日復旧許可を得て現在地に本社・境内社二社とも復旧した。 境内社の春日・子守両神社は養老年間(717〜724)の創立と伝えられる。

拝殿
例祭         10月2日

建物         本殿  木造 瓦葺 流造      拝殿  木造 瓦葺 流造

境内神社     春日神社  子守神社  鹿島神社


◆福井県越前市寺地町12−35−1◆







福井県神社誌」より

三ツ峯の乳銀杏

 三ツ峯部落は上戸口と一乗谷村鹿俣のほぼ中間にあたる峠の付近にあった。 標高三〇〇メートルを越える高所に、どうして集落ができどのような生業を営んできたかは、謎に包まれている。 しかし、言い伝えによれば村落の発生は養老年問(717〜724年頃)にさかのぼるという。三峰の乳銀杏

 三峯の旧家山崎家は朝倉の武将であったとも言われ、また、江戸時代には福井藩主から特別に袴の着用を許されていたという。
 藩主の領内巡察の際には三峯で休息するならわしとなっていて、山崎家文書には、「文化十三年の御一行は二三八人」との記録がある。 これだけの接待ができた同家の財力は相当なものであったと想像される。 この時のもてなしを賞でて、殿様が下賜された葵紋の膳と金銀蒔絵の椀が、家宝として今ででも保存されている。

 中世から近世にかけて俗に"越前の三肋"に数えられた高持ちの山崎家ではあった。 しかし時代の流れとともに資産が減少し、竹や籐細工、油実の採取なども採算が取れにくくなり、明治も中期になると山村での自給経済はいよいよ困難となった。 また学童が山道を上戸口の分教場へ通うことも相当な苦労で、特に降雪期の通学は大変であった。 このような事情から村を離れるものが相次ぎ、大正末期には約半数の六戸だけとなり、昭和十二年には「おもや」山崎久助も上戸ロヘ移り、三峯はついに廃村となった。

 上戸口から谷川沿いの道を登り、頂に近い部落あとには、屋敷跡の石や古い庭木などが見られ、お堂が一つ残されている。 そのすぐ横に、さながら名工の造った龍神のように、神秘なただずまいの銀杏の大木が立っていた。

 乳の出が悪い母親にとっては、三ツ峯の乳銀杏はまさに"救いの神"であった。 
 当時はこの神木の皮を煎じて飲んだお陰で、乳が出るようになったと評判になり、上戸口から小一時間の急な険しい山道をたどって『乳もらいの銀杏』にお詣りをしたのである。 直径三メートル余もある幹の表面は皮を削り取られたあとが、いくつもの乳房のような形に盛りあがっていて、母たちの幾百年にもわたる信仰のあとを物語っていた。 その老木も56豪雪(昭和56年)により惜しくも倒れてしまった。 しかし、その根元より若芽が生え現在では見事に復活している。

    「鯖江今昔」より