巻の九

◆福井県今立郡池田町稲荷十二宮の下十八◆


県社 須波阿須疑神社
(すはあすぎ)

福井県今立郡上池田村稲荷区 第十二号宮ノ下十八番地鎮座
由緒 境内神社 特殊祭典の沿革 口碑伝説 参考語録

祭神

倉稲魂命
(うがのみたまのみこと)   大野手比賣神(おほぬてひめのかみ)    建御名方命(たけみなかたのみこと)

大田命(おほたのみこと)       大巳貴命(おほなもちのみこと)      伊邪那美尊(いざなみのみこと) 

火産霊神(ほむすびのかみ)        伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
例祭   六月十日   神紋  巴稲
太鼓橋と鳥居
建物
   本殿(前口三間、奥行三間)  木造 檜皮葺 三間社流造
       拝殿(前口八間、奥行五間)  木造 銅板葺 寄棟造
        楼門      鳥居 二

社宝  御三面(翁 八幡 春日) 能面(天神 尉 中年女 若女他) 
      獅子頭  空海大師像  稲荷曼陀羅(明応六年)

文化財指定    国 須波阿須疑神社本殿 能面(天神)
             県 能面(中年女) 稲荷の大杉

特殊神事  翁神事(中断)  御番廻り(中断)
由緒

 霊亀二年(716)倉稲魂命勤請以後上記二座を左右の相殿に鎮座す。 当社は延喜神明帳に記されたる越前国伊萬太千郡須波阿須疑神社三座これなり。 すなわち池田村四十余村の産土神なり。

 社伝によれば、稲荷大明神 元正天皇霊亀二年、当社大杉の梢に影向し給うとあり、大野手比賣神建御名方命二座は上古の鎮座にして当社地主の神なり。 建御名方命は人皇二十五代武烈天皇の御代、池田郷の野尻より現在地に移りたもうたと伝う。 「あづき」の神と称す大野手比賣は池田郷の地主大神にて、山畑農耕の小豆の神とも称されている。

 当社創立の年記詳ならず。 人皇五十三代淳和天皇天長年中、僧空海白山参籠の時、当社に詣でて自作の像を納む。
(明治維新の際境外に置く。今、下池田村大本某信徒の自宅に安置す。) その後円融天皇の御宇、天延年中斉藤加賀守吉信再興。 嘉応二年(1170)四月、平泉寺の長吏斎明木曾義仲の下知に従い、燧山籠城の刻参詣せしめ願文並びに神宝数品を奉納す。 その後、後鳥羽天皇文治三年(1187)諸殿再建、その後村上天皇延元四年(1339)諸殿ことごとく回禄に罹りようやく本殿及び別社神庫を残せり。 しかるに時乱世に際し、国内清寧ならず、国主斯波氏修理を加えしとしかれども遂に中絶に及ぶ。 延徳三年(1491)二月、国主朝倉貞景、領主池田時忠神託により諸殿を再興し、同四年四月遷宮をへたり。 その後一向一揆の擾乱に際し破却せられ、諸殿ことごとく焦土となり僅かに本殿一宇を残せり。

 別社二座の大田命大巳貴命ならびに神宝は天正二年
(1574)社殿大破廃社の際、本殿に遷し奉る。 往古より勤請の旧記宝物、倉谷家池田家御奉納物並びに、旧記儀式帳斯波朝倉両家神領の寄付状等挙げて宝殿に於いて焼失す。(当時現在の旧記は大永四年七月国主朝倉孝景朝臣末社神領渡物御判物一通、天文十九年(1550)二月当社年中行事の略記一通のみ存在す。) この時国主朝倉家敗亡に及び、再興退転せしむる。 文禄四年(1595)神祇管領庄内産子に仰せて修理せしむ。 慶長五年(1600)拝殿再興以来、修理再建諸神用などすべて産子より支弁す、かつ、時の領主修造毎に白銀の寄付を例となせり。

 この本殿はおよそ五百年昔の木造建造物で、和様 唐様 天竺様の三様式が融け合った室町中期を代表する社殿である。 また、拝殿は間口八間、奥行五間の大拝殿であり、元禄二年
(1689)の建立である。 もとは萱葺であったが昭和五十八年(1983)銅板葺に改修する。 能舞台を持つ珍しい様式であり、殿内に「お籠り」に使用する囲炉裏を残している。

 享保元年
(1716)七月二十八日神階を進めて正一位を授けられ、別社二座の神霊今なお本社相殿に座す。 明治六年(1873)九月県社に列せられ翌七年敦賀県に於いて境内に禁制札建設せられたり。 明治四十一年(1908)四月勅令にもとずき神饌幣帛料供進神社に指定せられる。
明治四十二年三月十五日 須波阿須疑神社拝殿

同区村社八幡神社祭神 誉田別尊 由緒明治十二年十一月村社に列せらる。

寺島区無格社八幡神社祭神 誉田別尊由緒不詳、

木谷区無格社神明神社祭神 天照大神 由緒不詳、


新保区無格社白山神社祭神 伊邪那美尊 由緒不詳、

池田区無格社八幡神社祭神 誉田別尊 由緒不詳、

安善寺区無格社八幡神社祭神 誉田別尊 由緒不詳、

広瀬区無格社八幡神社祭神 誉田別尊 由緒不詳、

同区無格社愛宕神社祭神 火産霊神 由緒不詳、

同区無格社広瀬雄推神社祭神 伊邪那岐尊 由緒不詳、

野尻区無格社諏訪神社祭神 建御名方命 由緒不詳、 以上 十社福井県の許可を得て合祀せり。
本殿造営の沿革

 延元年中平泉寺領に属せし以来神仏習合となし、鐘楼堂 阿弥陀堂 輪蔵 三曾塔を建てて七堂伽藍と称するに至る。 当時の全図今に存せり。 しかるに天正二年(1574)土寇一揆のため諸殿ことごとく破却せられしが、文禄四年(1595)神祇官の命により、慶長五年(1600)拝殿を再建し、以来漸次再興して、現在の建造物は本殿、拝殿、楼門、大鳥居、二の鳥居、反橋等を有す。 今の本殿は延徳三年(1491)の再建なり。
境内神社

伊都岐島神社  祭神  市杵島姫命

社殿  前口 三尺   奥行 三尺
由緒
梅田多宮家の護神として祖先以来自宅に於いて崇敬せしが、文化五年(1808)本社の境内に社殿を建設し奉遷して境内社とし、社号を伊都岐島神社と称せり。

祖霊社

建物  社殿  前口一間  奥行一間三尺

由緒

梅田多宮始祖三河守従五位下平知度祖祠なり。 文政十三年(1830)三月二十八日宗源宣旨をもって霊神号を送らる。 のち天保二年(1831)七月祠を創建し知度以下累代の祖を併祀す。

土地の沿革

 当郷は元勝戸郷と称す。 和名抄に 「勝戸、今池田と称する所以は、円融天皇の御宇天延年中、地主大神の神縁によりて、吉備国小豆島の郷名に作いてこれを改む」 と曰わく。

 はじめ三十六村より成り、中世以来次第に藩殖して四十七村となる。 そしてこれを三分して、上番 中番 下番と称す。 その東西南の部落の中番の幾部及び上番を合わせて二十三村あり
(上池田)、東北西と中番の幾部と下番を合わせて二十三村となる(下池田)。 

 稲荷はその中央に位し、開闢の祖神この地に鎮座したまう。 稲荷は往昔社家の院室のありしところにして院内と称し、別に村号なかりしを、延宝元年
(1673)松平光通公の命によりて稲荷村と改称せり。
特殊祭典及び沿革

御番廻り
(中断)
須波阿須疑神社 本殿

 当社の例祭は、明治六年(1873)より太政官交付令により五月十五日に改正せしも、古来は陰暦四月二の卯の日に執行せり。

 社司は十日午の日より潔斎し、申の日午後より子の日まで四日半に渉りて、神幸又は御番廻りと称し、神人に獅子頭を戴かせ、猿田彦 猿田姫等を先導とし、大弊を持ち太鼓を鳴らし、産子村各村を巡回す。(遠方の村落十余村は遙かに祈祷式を行い巡回を略す)

 各村は道路及び宅の内外を清掃し、特に御通行の道筋並びに御門舞ある家々は、不浄場へ柵を張り小児に至るまで高所に登るを禁じ、謹慎して入御を待つ。
 お供には、神職は勿論稲荷の住民等交番に供奉す村々にては、御迎御送と称し小児等に晴着を着せて村端に送迎せしむ。 さて村々の宅前にて御門舞と称して祈祷神楽の儀式あり。 終わりに氏神の社にて神事を行い村民一同に神酒の直会ありて式を終える。


 御門舞を受ける家にては、玄関に新しき筵を敷き、その上に薄縁を布き三方もしくは高膳に白米一斗を盛り、十二燈料の包みを載せ供え奉るを例とす。 この神幸の道筋は、大小の難易に拘わらず先例の道筋以外は御通なし。 しかし、天災地変或いは屋敷替え等にて変更せし時は、戸主礼服にて新の道へ導き奉りもって、爾来の神幸道と定む。

 各村庄屋頭立家々にて御入と称し、宅内にて祈祷ありて供奉員一同へ饗応あり。その賄いは各家区々にして、はなはだ奇異なる者あるも堅く先例を守りて、一品たりとも変更するを得ず。

 丑の日は、御休としてもっとも静粛をむねとし、御境内近傍において鳴物を停止す。 寅の日卯の日はすなわち大祭日なり。
翁神事(中断)

 当社の
春季祭は二月六日(陰暦正月六日)にして、この日は天下太平国土安穏のご祈祷として翁神事能舞を奉奏す。

 同二日午後六時、謡初の式あり。 稲荷区民の奉仕する神役人一同社司宅に集まりこれを行う。 終わりて神酒の直会あり。 舞楽を行う三日四日は一同社司宅に集まりて昼夜稽古をなし、五日には御トウと称して神役人へ嘉例の賄いあり。 午後四時より神前の舞台において場馴らしと称し祭日同様の式を試みる。

 さて、六日ともなれば三日前より潔斎せる神職等は、黎明前川に降りて身会岐祓の式を行い、殿に昇りて神面を降ろし奉る。 正午、神役人一同斎戒沐浴し、紋付き麻裃の礼装にて神前に参集する。 まず一統修祓、次に祭式を執行し、午後二時より式三番及び高砂田村呉羽などの舞楽を奏上す。 式三番は神職等これを奉仕し、その他は神役人においてこれを勤む。

 また、
秋季祭は陰暦九月七日にして(今は新穀の都合にて十一月七日にこれを勤む)、この日は霊亀二年倉稲魂命影向の日なるをもって御日祭と称し、御供は当年の新穀の糯米に新穀の小豆を搗き混ぜて大鏡餅五重ねを造り、これを奉る。 これは大神の影向したまう時、人民悦んで赤の餅を作りて供え奉りし嘉例によりてなるという。

 その式の次第は、前日社頭を清掃し諸般の装飾を整え、同夜は御宿と称し神職等大拝殿に参宿し終夜神燈を守り奉る。 そして、夜の明けるを待ちて、稲荷区民一同新穀の白米一升づつを捧げて参詣供進し、例刻祭式の執行を終わりて参拝者一同御酒の直会ありぬ。 撒下の供物を拝載して帰り、これにて式まったく終わる。

   以上を古来より年中の三大祭と称するなり。
口碑伝説

神木
       福井県指定天然記念物

      目通り 10b  樹高 40b  樹齢 千数百年(推定)

本社境外に地所あり。 東北の山腹に老杉あり、”三又”となりて繁茂す。此の神木を又、荒魂大杉大明神とも称して本社祭神の荒魂を斎し鎮め、四時の祭祀怠ることなし。」


 社伝に、元正天皇の霊亀二年(716)倉稲魂命、山城国飯盛山より当社大杉の梢に影向し給うと出ている。 伊弉諾尊 伊弉再尊を祀る神憑木(かみよりぼく)として、荒魂大杉大明神と称えられ尊崇礼拝されている。 千数百年を経て今なお樹勢盛んであり、北陸一の大杉である。
(神社より登り五分の距離)

  神社  話題  登山  今立町


「今立郡神社誌」