巻の二

◆福井県越前市大滝町一三−一◆


郷社 大瀧神社(おおたき)

福井県今立郡岡本村大滝区 第十三号神宮一番地鎮座
由緒 境内神社 神社に関する事項 口碑伝説 越前和紙について  参考語録

祭神

伊邪那美尊
(いざなみのみこと)    天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
由緒

 当社の起源不詳といえども千有余年を経たる古社にして、当国々内「延喜式」神明帳に従一位大明神と見えたり(一説に推古天皇(593〜)の御宇大伴連大瀧といえる人、勧請のよし伝えたる古書ありといえるも今これを逸したり)大瀧神社

 元正天皇の御宇、養老三年(719)沙門泰澄当地に来たり。 大瀧神社に祈願を凝し大瀧寺を創設せしより岡本村を改めて大瀧を村名となし、岡本荘と称す村の東より流れる川を大瀧川と唱え巽の方より流出して南より北に至るものを岡本川と云う。 村内において両川相合し粟田部村へ流れるこれを岡本用水と唱え、又該地五ヶ村より粟田部村へ通ずる道を岡本縄手と云う。

 式内岡太(おかもと)神社は、当時字神郷の内宮垣と云うところに在りしが、延元二年(1337)の兵火により社殿ことごとく皆回禄せり。 その時、岡太神を大瀧神社の相殿に祭りその後、別に社殿を当社の境内に設け岡太川上御神と崇め、大瀧寺を始め勝憧坊常圓坊以下四十八坊をもって神事祭典を営めり。

 当時寺坊は、白山衆徒の所轄にしてその盛大国中に比なし、社領もまた七十余町を占め代々国司領主の信仰浅からず。 斯波、朝倉両氏の判物類を始め宝物、今にいう神庫に伝え来せり。 しかるに天正の兵乱に際して社殿回禄したりしが、慶長寛永の頃より本殿摂末社など漸次建立せられ、当国岡本荘五ヶ村、月尾谷九ヶ村の総社氏神として崇敬せり。

明治元年(1868)太政官達に基き社号大瀧児権現を大瀧児神社と改称し、同八年十二月十日更に社号大瀧神社と改称し郷社に列せられたり。

例祭  十月十二日      神紋   五三桐

建物 奥院 木造 銅板葺 向拝入母屋造  

     本殿 木造 檜皮葺 流造  下宮拝殿 入母屋造 向拝(唐破造)

境内神社

岡太(おかもと)神社  祭神 水波能売命・天水分神

由緒


 当社は延喜式神名帳に記載される、岡本荘地主の神にして往昔より岡本川上に鎮座し、製紙の祖神にして式内に列せり。 延元二年(1337)、兵火によりて社殿回禄せし、以来大瀧神社の域内に移転せり。 旧域は、数百年間の星霜を経て村民の所有地と変せしも、その地名を宮垣と云い、古跡のまま今に存在す。 明治三十九年(1906)十月、大瀧神社境内社、瀧見神社祭神 天水分神由緒不詳を合祀せり。

口碑伝説

 当社創立の年月詳しからならずといえども、当所地主の神にして同区神宮谷より清く流れる岡本川の川上なるところ、宮垣と称するところに往古より鎮座したまいし式内の神社なり。 かつて当村人家未だすくなかりし頃、この神少女となりて出現し村人に告げて、

     「この郷田畝少なく将来農業をもって子孫を養うこと難かるべけれど、将来製紙をもって子孫の業とせよ
大瀧神社 岡太神社本殿
 との給い、手から上衣を脱して竿頭にかけ(この故事に因み今なお竿に抄紙を吊す遺風を存す)懇切にその業を教え給いり。 村人等その神託を怪しみ、そのいずれより来ませしやを問い奉れば 「吾はこの郷をうしはく地主の神なり」 と答へ給いぬ。 村人恐懼して仰ぎ奉ればすでに消失し給いてその影なし。 村民ら直ちに神託に従い製紙の業を創め漸次盛況を見るに至れり。

 郷民等その徳を慕い、川上に社殿を建立し岡太神社と斎き奉りき。 神域一町余歩ありて崇敬殊に厚かりしが、恭燈大瀧寺を創むるに至り当社は漸次衰微の姿となり、あまさえ延元二年(1337)社殿回禄に遭い、ついに大瀧神社の奥の院相殿に斎き奉るに至りぬ。 岡本川の川上に鎮座し給いし神なれば川上御前とも川上御神とも尊称し奉れり。

 製紙は創業以来漸次に盛大に赴き、漸次改良して奉書紙鳥の子紙、その他諸紙を製造し国司領主は更なり、足利家以後代々の将軍家の御用紙調達をなせり。 足利高経、織田信長、徳川家康の朱印状など十数通今に存せり。 又九州製紙の祖も、王子抄紙場最初の教師も皆郷民より出で、ほとんど全国に渉る製紙の祖神なれば、郷民の信仰ますます厚く毎年例祭を執行せり。

越前和紙発祥の伝説

 越前和紙発祥の伝承については、川上御前の伝説の他に、男大迹皇子の第二妃近江国三尾民の娘稚子姫がこの地にとどまり、製紙を奨励されたという説
(大滝児大権現との関連説)、また紙を発明したといわれる蔡倫の技術を心得た帰化人か、もっと技術の進んだ曇微紙に近いような紙漉き技術に優れた者がこの五箇の地に来て、紙漉の技術を教えたという帰化人説(川上御前=帰化人説)などがある。

特殊神事

春例祭
  お下り(奥院〜下宮五月三日) お上がり(下宮〜奥院五月五日)神事。


秋例祭  お下り(奥院〜下宮十月十一日)  お上がり(下宮〜奥院十月十三日)神事。

式年大祭 三十三年毎に(本開帳)   御神忌 五十年毎に(中開帳)

 権現太鼓・松坂音頭。 
八照神社  祭神 天津児屋根命・武甕槌命・経津主命・応神天皇

由緒
 勧請年月不詳なり、山上奥の院境内神社なり。 明治三十九年
(1906)十月同境内社八幡神社祭神・応神天皇由緒不詳を合祀し、同四十一年二月 権現山別山鎮座境外社、八坂神社祭神・須佐能男命由緒不詳を合祀し、社号春日神社を八照神社と改称したり。

金保神社  祭神 大物主神・保食能神・軻遇突智命

由緒
 勧請年月未詳山下境内に鎮座したまへり。 明治四十一年
(1908) 境内社 愛宕神社祭神・軻遇突智命由緒不詳、同区無各社 稲荷神社保食能神由緒不詳を合祀し、社号金刀比羅神社を金保神社と改称せり。

巖乃神社  祭神 市杵島姫命 表筒男命 伊弉奈岐命 磐長比売命

由緒
 勧請年月不詳、山下境内に鎮座。明治三十九年
(1906)十月四日、境内社多賀神社祭神・伊弉奈岐命由諸不詳を合祀。 同四十一年二月十三日、同区岩上鎮座無各社岩上神社祭神・磐長比売命由緒不詳を合祀。 同十五日、社号巖島神社を巖の神社と改称せり。

文化財指定

       下宮本殿拝殿一棟及付属文書図面、大杉せんまい桜、ブナ社叢林
   町    奥院本殿、木造獅子頭狛犬、木造十一面観音坐像

神社に関する事項

神木
手前より 八照 大瀧 岡太 神社奥の院

 権現山頂(奥院の北)に老杉あり(周廻二丈四尺余り)に達し、千数百年を経たる古木にして今に生々たり。 泰澄登山の際、巳に大木たりし由という。 その後台風に会してその梢吹き折られ、十町余りを距てたる杉尾の区、南山の腹に逆に立ちそのまま根を生じたり。 よって区名を杉尾と称す。 この杉今なお繁茂せり。

大瀧寺

 泰澄の開基にして大瀧神社の別當寺なり。 末社四十八坊ありて僧兵夥多寄宿したりしが、織田信長北国征伐の時瀧川一益のために攻滅せられたり。

味間谷大岩

 当村の東南味間谷坂道の傍らに大岩あり。 天正年間織田の将瀧川一益の大瀧寺を攻めるや、本道は僧兵に遮られて進むことを得ず攻めあぐみてありけるを、五分市の紅屋というもの一益にこの間道を教え、不意に味間谷より攻めこりし時に、郷民竹内正金というものこの岩陰に潜み居り一益来るをうかがい、朱鞘の太刀を抜きて馬脚を祓いし所なりという。 この太刀今に当社の宝庫に蔵せり。

狐塚

 味真野名跡誌に曰く、「霊泉寺禅宗なり池泉村にあり。 瀧川一益兄弟の墓あり。 鎧甲今に寺中にあり。 瀧川ひととせ大瀧権現堂の七堂伽藍を焼き、たちまち両眼を失いて不老村の狐塚にて大瀧の郷民に殺され骸をこの寺に納めたりといえり。」


権現跡

 北新庄村の東、行司ヶ岳(三里山)の中腹にあり。 今なお二株の老杉ありてその下に方五間ほどの社跡あり。 往古稚子権現を奉祀せるに、一夜大風雷あり。 老杉の梢端を折り神体と共に飛びて、岡本村大瀧権現山の本宮に遷らせたまえり。


口碑伝説

 元正天皇の養老三年(719)、泰澄国内巡錫のおり当地の霊場を相し大徳山(権現山)を開き、社殿を造営して二神を奉斎し大瀧児大権現と称し、山下に大瀧寺を創立し山上山下に各七堂伽藍を建て社僧社人四十八宇を設け、別に山麓の山伏六人を置き神事をつかさどらしめたり。

 元正天皇御不予にて泰澄に加持の勅命ありし際、当社に祈願をこらし神徳顕著の故をもって 「日本第一大瀧権現」 の御宸筆を賜りければ、世人は更なり代々国司領主の信仰ますます厚く、判物をはじめ寄付の宝物もまたすくなからざりき。 しかるに、天正年中(1572〜1592)織田信長の部将瀧川一益の兵火にあい、社堂僧坊及び民家などほとんど鳥有の災にかかり、山上山下合わせて三社を残せるのみ。 この時、社僧社人皆遁散し霊宝判物もほとんど焼失せり。 しかれども神体は区民安全の地に奉遷したり。 その後漸次社殿の再建を行い、元禄元年(1688)に及びて山上山下十五の棟を数えしが、猶旧時の盛観には及ばず。

−今立郡神社誌−  

  神社  話題  登山  今立町


大瀧神社社標

岡太・大瀧神社の社標

 1940年。 岡太・大瀧神社の一の鳥居の隣に、高さ約三メートルの社標が建てられた。 この社標は、画家横山大観が寄進したものである。
大観は越前和紙をこよなく愛した。 今立の紙漉職人、初代・岩野平三郎とは近代日本画壇に革命を起こした麻紙の誕生に一緒に取り組むなど親交が厚かった。

 社標の寄進にも平三郎が尽力し、1940年は神社の式年大祭と皇紀二千六百年にあたるため社標を建てたいと依頼、大観は快諾したという。 集落の通りに丸太を敷いて山から巨石を運び、台座の上に置かれた巨石には、大観の書いた「岡太神社 大瀧神社」が刻まれている。
 (福井新聞より)