巻の十
◆福井県越前市柳元町三十一−三十七◆


指定村社 加茂神社(かも)

福井県今立郡服間村柳区 第三十一号久保手三十七番地鎮座

由緒   口碑伝説   権現山   参考語録
祭神

建角身命 (たけつぬみのみこと)   玉依姫命(たまよりひめのみこと)

別雷神(わけいかづちのかみ)     天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)
例祭    十月十五日        神紋

建物    本殿(前口二間一尺、奥行二間) 木造 瓦葺 流造
         加茂神社拝殿(前口二間三尺、奥行二間) 木造 瓦葺 流造


文化財指定     「花笠踊り」

由緒

創立年代等不詳

 明治四十年(1908)十二月七日炭焼区村社金刀比羅神社(後年分離)祭神由緒不詳、および、同年同月十六日柳区無各社松ヶ嶽神社祭神天忍穂耳命 由緒不詳 大宝元年創立なりという、以上二社を合祀したるなり。

 大正三年(1914)一月勅令に基づき、神饌幣帛供進神社に指定せられ、大正四年八月十八日福井県において境内へ禁制札を建設せらるる。

本殿造営の沿革    不詳
口碑伝説

 加茂(賀茂)神社はその起源詳ならずとしかれども、往古より下の宮と称し養老年中(716〜728) 泰澄大師の創立せる所なりという。 一説には、往時は権現山山頂に鎮座する松ヶ嶽神社の遙拝所なりしとも伝う。
松ヶ嶽神社
 越前の城主朝倉氏の信仰浅からず、ことに加茂神社御体内の河濯の神は、朝倉義景母君の合祀奉安せる所にして、世に御腹籠もりの河濯大明神と称し霊験新たなる所なりとす。 また当社合祀の松ヶ嶽神社は往昔継体天皇の皇女荳角姫を葬りしより、その神霊を奉斎して巻皇神社と号す。

 降って文武天皇の御宇大宝元年
(701)四月一日僧 泰澄、松ヶ嶽の麓、布滝において柳の大木の下に専心誦経中、忽然神勅を受け直ちに山頂(権現山)に登りさらに天忍穂耳尊の像を安置し、松ヶ嶽神社と改め鎮護国家の霊山、開運出世の神として信仰もっとも深く、養老六年に至り別当平等寺を創設していっさいの祭務を奉仕せしむ。 これより字名を「柳」と称す。

 往古は当郷の総社にして遠近の信仰もっとも深く隆盛の大社なりしも、天正の頃兵火に罹り、また旧観を失いしとしかれども今なお祭日には一郷挙げて業を廃して参拝し、拝殿古鳥居等の跡地名と共に存じ、またもって往時の一班を伺うべし。

 当社はまた、当国雨乞いの祖神として神徳さらに高く、天を乞えば二夜三日間山籠もりをなすを恒例とし、古来すべて降らざることなし。 さらに奇なるは、雨乞いすれば必ず御礼として花笠踊りを奉納す。 歌踊り共に異様にして他に例を見ざる古来の神事なり。

 明治の御代に至り神社廃合の当時未だ無各社たりし故をもってついに、村社加茂神社に合祀するのやむを得ざるに至る。
−今立郡神社誌−
松ヶ嶽神社と花笠踊り(雨乞いの神事)

 雨乞いは白装束に身を固め、山頂の松ヶ嶽神社で行われるが、祈祷は別当寺である平等寺(天台真盛宗)の住職が行う。 祈祷の期間中は住職を特に行者様と呼び、行者の世話をするものを使といい、使以外の者はいっさい行者に近づかない。
 行者は二十一回の祈祷を行うが、真言密教十八道の法式を行う。
 柳区の各家からは二十歳以上の男子が必ず一人以上集まり、三日二晩
(昔は一週間)この神社の前で太鼓や半鐘を討ちならし、降雨を祈念する。
 一方女子も祈祷の期間中、麓の平等寺の本堂で数珠を操り、ひたすら雨の降るのを祈祷する。

 一度雨乞いの祈祷をすると、雨が降っても降らなくても花笠踊りを奉納しなくてはならない。
 花笠踊りは、十五〜三十歳までの未婚の男子によって行われる。 踊り舞台は、麓の加茂神社の境内に、権現山の松ヶ嶽神社の方を向いて桟敷を組む。
 柳区の掟として、よそ者には踊りを教えない。 たとえ養子であっても歌や踊りは教えなかった。 踊りの種類は 道行歌、塩まき踊り、街道踊り、御礼踊り(腰返し)、夜詣り踊り など残っている歌詞帳によると三十二を数える。 
 この踊りは中世の小唄踊りを伝えるもので、昭和五十五年福井県無形民俗文化財に指定された。

 水間区の記録によると、明治九年、同十三年、同十四年、同二十六年、大正十一年、同十三年に行われている。
 明治二十六年七月三日の雨乞いでは、六日午前九時頃から曇り、十時から降雨、同年八月二十一日に花笠踊りをしたところ、二十三日には大雨になったと記されている。
 近年では、平成七年にも行われている。
権現山

 今立町水間区にある標高565bの山で、山頂に松ヶ嶽神社がある。紫雲山平等寺
 この山も越の大徳 泰澄大師の開山になると伝える。 大宝元年といわれるから、越知山や白山よりも早く開かれた山ということになる。 上記のように山頂に観音を祀られたというのが由緒であるが、水間郷の総社として降盛をきわめ、山麓の紫雲山平等寺を別当神宮寺として社務を管理させてきた。 しかし、天正の一向一揆によって寺も神社もいっさい焼き払われ、神社は衰退するばかりだったという。

 権現山登山には、松ヶ嶽神社鳥居をくぐって直接登るコース「表参道」と、窟谷川にかかる柳の五滝(不動滝、お釜滝、布滝、窓滝、夫婦滝)を巡って登るコース「裏参道」の二つがあり、いずれも一時間二十分ぐらいで山頂に着く。

 私の歩行記録です。
 登り(滝めぐりコース−裏参道−)
お釜滝”駐車場”(12時10分) 権現山”松ヶ嶽神社”(13時10分) 展望台”鞍ヶ上”(13時30分 昼食 40分)

 下り(直走コース−表参道−)
松ヶ嶽神社(14時05分) 松ヶ嶽神社鳥居(14時45分) お釜滝”駐車場”(15時05分) 

   登り(1時間20分)   下り(1時間)

 松ヶ嶽神社より尾根伝いに、展望台”鞍ヶ上”へ行く途中に三峰神社がある。 札によれば、


 大正十四年に当時仙台に在住した柳区出身の神職 赤川作治郎氏の願いにより、この地に三峰神社の分霊を移して創建されたものである。

とあるが、詳細はよくわからない。

 昔から日野山日野神社と、この権現山の松ヶ嶽神社とは勢力争いをした。 日野山には継体天皇の御子「宣化」「安閑」の二人の天皇を、権現山には同じく継体天皇の御子「荳角姫」が祀られており、兄妹の間柄である。 殿上人でありながら、仲がよくなかったらしい。
 社殿を日野山に向けて建てたところ、御神体はいつの間にか向きを変えられてしまう。 神様に伺いをたてたところ、「私は生まれ故郷が恋しい」といわれたので、社殿の向きを変えて再建したと伝えられる。

佐々木小次郎 (小次郎生誕地公園)

 柳の少し手前に「小次郎生誕地公園」がある。
 この地は、剣豪佐々木小次郎の生誕の地とも云われており、有名な「燕返し」一乗滝
(福井市浄教寺町)にてあみ出したと云われるが、ここ柳の滝が正しいとの伝えもある。

「当地が小次郎生誕地である史実として、宮本武蔵の伝記書「二天記」に小次郎は越前の産と記されている。
 小次郎公園隣地の高善寺は、約千年前の平安中期の長和四年
(1015)に建立された古刹であり、近江国の安土城主 佐々木高綱氏の末裔と伝えられる。 また歴代の住職が佐々木の姓を名乗り現在二十六代を数える由緒ある寺院である。

 歴史的考証として高善寺の家紋と小次郎の家紋が一致することや、同寺の家系図と過去帳からも証せられている。
 また昭和六十一年発刊の「日本剣豪総覧」で佐々木小次郎の今立町高善寺生誕地説を全国に紹介されたのが発端となって銅像が建立され、同時に公園として平成二年に整備した。」       (小次郎公園 札より抜粋) 

  神社  話題  登山  今立町