巻の一
◆福井県今立郡池田町常安東出一−二◆


日野宮神社(日野御前社)

福井県今立郡池田村常安地区 第十三号東出一番二番地鎮座
神社に関する事項  口碑伝説  参考語録
祭神

天照皇大神 (あまてらすおおみかみ)   誉田別尊(ほむだわけのみこと)
臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)  皇子御母岐多志媛(みこみほきたしひめ)
由緒

 欽明天皇十五年(554)七月二十五日創建。 明治四十年(1907)二月十五日、同地区無格社八幡神社祭神 誉田別尊由緒不詳、下池田村下荒谷区村社八幡神社祭神 誉田別尊由緒不詳を合祀する。
日野宮神社拝殿
 「越前名蹟考」は、「日野御前社 祭神 稚日霊尊(わかひるめのみこと) 今号日ノ宮大明神祭神紀州日ノ前ノ宮同体也」 という「池田惣社記」の記述を掲げ、次のように解説している。

 「稚日女尊は旧事紀に天照大神の御妹といへり日前神は日像(ひかた)鏡にて稚日女尊の正体と云う説有り」

 「紀州日ノ前ノ宮」というのは、紀伊国一宮の日前国懸神宮のことである。


本殿造営の沿革

 天延三年
(975)の頃、領主斉藤加賀守吉信社殿を改造し、神楽堂絵馬堂等をも建設し稍々壮大に至るが、朝倉氏滅亡の翌天正二年(1574)九月、一向一揆の為破却せられ社殿ことごとく鳥有に帰すが文禄四年(1595)六月神祇官の許可を得て、慶長元年(1596)本殿,、拝殿は天保十四年(1843)三月、華表は嘉永元年(1848)八月等を再建す。 今の本殿は文禄四年(1595)六月の改築に係るものである
神社に関する事項

狼祭り
俗に狼を祭るという。 遥か谷の奥に岩窟あり。 祭日七月二十五日には夜陰に及び、社人ただ一人目無取りしてお供えを備え置く。 毎年その日に至り、又供えするに前年のお供えそのままあり、そのお供えにて諸病を除き、第一狼の難に遭いしことなしといいて、霊験新たなり。 その祭日には村中燈を立てず、夜陰外出を禁ずる風今なお存せり。 「越藩拾遺録抜書」にもそのこと見えたり。


例祭   10月1日      神紋

建物   本殿
  木造 瓦葺    拝殿  木造 瓦葺

社宝   駅路鈴一個、猛狼二頭
(木造漆塗)
口碑伝説

 当社は俗に王神様あるいは狼神社と称し、欽明天皇第三皇子臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)の創立である。

 皇子は始め、山城国、紀伊の名草の邑に在りしける時、大蔵の司・秦大津父(日本書紀十九欽明天皇の条に大津父及び猛狼の事を詳記せり)の事により、勅命を奉じて、佐飛、和田、恩地の三臣をそなえし。 伊勢の国、鈴鹿の山中に入りて猛狼を獲給いき。 天皇深く感じ入り、六畜の主命を下だし犬王と号し給い、遠国に連れ下だりて守護すべし。 これより、上分米と称し四方馬船の立ち次第、諸国より初穂を持ち運ばしむべし、との綸旨あり。 皇子はこれを三臣にひかせ、山々を巡り谷々を渡り、深山幽谷を求めて当庄内に入り、まず荒谷に着き遂に常安に出て給いて、彼の猛狼を山中なる岩窟に封して犬王霊神と称し、その麓に草殿を築き、天照大神を祀りて日野宮と号し給いき。

 此において皇子は、さらに地を相し川を隔てて宮居し給う。 後、敏達天皇十二年(583)、遂に薨去し給いしかば、宮の山西の峰先に葬り、日野宮に合わせ祀りて家臣等かさねて宮に掌をなせり。 しかるに、恩地は応永の頃に、和田は天正の頃絶亡せり、佐飛家のみは今に連続し其の職にあり。

 延喜十年(910)九月五日、神階を進められ従五位下を授けらるる。 かくして往古は、神前に鈴音の絶ちし事なくすこぶる繁栄して、世々国主領主の参拝、および諸国武士の帰依篤く、中にも福井藩主累代崇敬し毎年奉幣の事あり。 又、嘉永年中に二条関白殿より代参ありて提灯その他の寄付あり。日野宮神社本殿

(補足)
 宝歴九年(1759)十月に、日野宮神社の祝部(神主)佐飛三郎右衛門が鯖江藩に提出した由緒書によると、狼は 「体長二丈(約6メートル)で異国からやってきて日本国中を徘徊、人民牛馬に害をなすこと甚大」 だった。 このため 「欽明天皇が紀州日宮に遷座していた第三の皇子・臘嘴鳥皇子に退治を命令。 鈴鹿山で三臣が立ち向かうと、王命に恐れてたちまち平伏」 した。 
 「秘密の祭礼では、巌中霊神犬王の御神前に三石三斗三升の御供を捧げた」 という。


巌窟
 彼の猛狼を封じこめたる巌の所在地は、平日人の探知しなわざる所なり。 当社は古来もっとも神秘的の霊地として祭神祭礼等の事に付きても口外するを恐れはばかりたり。

逆杉
 南越探旧指童編今立郡の条にいう「皇子池田郷荒谷というに至り、この所に坐しまさんと御杖をとどめ給う。 其の杖今に栄えて逆杉という大木あり。」 伝々。

大杉
 佐飛社掌の庭内にあり、皇子この地に巡り座しし時、更に御杖を突きて給いき。 たちまち出芽して霊幹七岐に分かれ、老枝蒼々蓋を垂れる、けだし一千有余年を経たるものなり。

大杉祭り
 七月二十五日夕方境内の神木の七本立(今は三本のみ)大杉の西に向かい、神選文をとなえ御供えを上げる。

狼祭り(オオカの祭り)

 祭日は7月25日であるが、神主は一週間前から別火潔斎して準備をする。 神主が潔斎に入ると、村人は神社に入るのを嫌う。 神社に参るのは月出前の十二時頃で、家来(共)を連れて行く。 参拝は月出前で真っ暗でありまた下駄、靴では行けない。 昔から巣原紙(大野郡西谷村巣原)や奉書紙で草履を作って、杖を持って参った。 部落の者は、この夜は早く寝ないと狼がでて神主が祭りができないと言われ、早く寝る。 参拝する日の、米をかしいたり、釜掃除は他の者にさせず、自分でした。 御供えは糯米の蒸したものを用いた。

 夜の神社は杉の森で暗いから、参道の端を杖をついて行く。 家来の者は、拝殿の前で帰宅させる。 本殿に行くときには、拝殿の右手を通り、礎石のはどりを杖をついて行く。 下るときもやはり同じ道を通る。 ただしこの正面の石段を使うのは、祭りの時しかも神主だけで、一般の者は、左手のワキ道から参ることになっている。

 柏手を打つのは、音を立てないように、しのびのようにすることになっている。 御祈祷も低い調子で済ませ礼拝して出、御供えを持って下る。

 拝殿まで来ると、一礼して簡単な言葉を口の中でいい帰宅し、御供えは家の神棚に納める。 社務所には御供えの残りがあるので、参って帰ると家のものを起こし、御供えの残りを皿によそい、母親が煮物の用意をしてあるから食べて寝る。 時間は、一時か二時頃の夜食である。 朝、親類の家へ御供えを持って歩く。


 日野宮神社の祝部を勤める佐飛左近(初代)家は、延々七十四代に渡って狼祭りを踏襲してきたが、昭和二十年頃にこの奇祭は断絶した。 常安地区の佐飛都四区長の話によると、日野宮神社の最後の宮氏は、祝部家から養子に出た宮本 碩 氏。

 この狼祭りの日には、常安の人はみんな家にとじこもり、宮司と御供の者一人だけが日野宮神社本殿で祭事をしたあと、宮司がただひとり、臘嘴鳥皇子が狼を閉じ込めたという岩窟におこわ(赤飯)をかついで出かける。 岩窟の場所は宮司でさえも知らない。 一種の霊力で、岩窟におのずと導かれていくという。

 当時の宮本宮司によると 「夜、本殿から外に出ると目が赤く輝いてあたりがよく見えるようになり、どこをどう歩いたかわからないうちに岩窟の前に出てしまい、帰り道も同じような状態。 精進潔斎が悪いと、変なところに行ってしまう」 と答えた。
 今は、跡を継ぐ人が居らず、同じ池田町内の鵜甘神社の宮司が神事を取り仕切っており、狼祭りはもう再興のしようがないという。


 臘嘴鳥皇子に従ってきた三臣のうち、佐飛氏は常安地区四十七世帯のうち二十六世帯を占め、和田氏は八世帯が今に続いてる。 恩地氏は継体天皇の母親の里・福井県坂井郡に多い姓で、ここに移住したと考えられる。

日の宮のお札

 日宮(ひのみや)では、お札をだした。 この神社に参拝する者は、池田村や足羽郡、吉田郡、中島(大野郡西谷村)、樺太、北海道等であった。 他郡の人は、主に作物の厄払いだった。 物取りの占い、野荒らしの占い、虫除け、疫病等にはお札をだした。 古いお札を焼き捨てる場所は、本殿の向かって左の方の崖の所である。

★日の宮のお祭りの時、家来がこのお札を焼くところにあった欅の根を取ろうと掘ったところ、お神酒すずを割った。 次の日、朝起きると目が見えなくなっていた。

★ある人が、お札を二体板に張って稲荷坂まで来ると、急にオオカの神が目の前に見えて仕方がない、おそるおそる神様に聞くと、実は腹が減っている。 握り飯をくれという。 すぐ出そうとすると、日向でくれるな日陰でくれという。

★息子の嫁の絣の着物を一晩外に置き忘れたところ紛失したので買ってきたが、日の宮さんに聞くと何処々々にあるというのでいってみると、隠してあった。

★区内の馬が病気で立てなくなったので、バケツの水鏡でお札を写し、その水を馬の頭からかけたら治った。

 祭りの御供えは、三石三斗三升の糯米を蒸したきにした。 嶺北のみは、御供えを干し飯にして持って廻る者が村々にあったが、池田でも知った者だけに持って廻らせた。 この時に、他の供え物、札などと共に、神主の家で作った薬も持って廻った。 胃腸薬だったが、のぼせにも効いた。 明治になってから法がうるさくなったので作るのをやめたという。

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−今立郡神社誌−