平家岳(一四四二b)

◇福井県大野市◇


平家岳  平家落人伝説  平家岳登山

平家岳

 平家岳は、和泉村の南、岐阜県境に周囲の山々をぬきんでてそびえる大きな山である。 九頭竜湖に注ぐ荷暮川面谷川久沢川のみなもとに当たり、南側の岐阜県側は板取川の源流である。 面谷川を遡り面谷鉱山跡から西側の尾根にとりついて山頂にいたる。
 平家岳を平家台とも呼び、山麓の面谷(おもだに)は、康永年間(一三四二〜一三四五)に発見されたと伝えられる古い銅鉱山である。 この廃坑の前には屋敷跡らしいものや墓石が立ち並び、往時の盛況を知ることができる。

 越前名蹟考では、寛文九年(一六六九)の福井大火のあと、その復旧用材の伐出しを命じた祭に、この鉱山を発見したともいう。
 この福井大火は、城の本丸天守閣を始め、火は城東の町方をひとなめにして、三五七九戸を焼失するという大火だった。

 再建のため越前の三大川、九頭竜足羽日野川を使って、用材を運び出した。 荷暮川伊勢川でも、雪解け水の豊富な春先を利用して、膨大な量にのぼる用材が伐出されたという。


 福井藩の山林制度は、幕府も範とするほどに整備されていたと伝えられる。 慶長六年(一六〇一)藩主結城秀康は、大町靱負を山奉行に任命し、山林の取り締まりを命じ植林を奨めた。
 一向一揆によって焼かれた領内の社寺の、再建の所用材の伐出しにも制度を加え、一般民の用材伐出しは許可制を採った。
 この辺から池田にかけての山間部の旧家には、「伐祈願」の古文書が多く所蔵されており、それには使用目的・樹種・数量と、村役人達の著名捺印がなされ、伐る目的の木は「病枯の木」として、このままでは立ち枯れで腐ってしまうことを書き添えて切らせてもらった。 福井藩では、宝永二年(一七〇五)以降は、山奉行を二人とし、村方には「下山守」といわせた山奉行配下のものを任命して、御立山(藩有林−留山・禁山ともいった)は勿論、地方の山々を巡回監督し、盗伐を厳重に取り締まらせたという。

 当時は個人所有の竹木であってもかってに伐ることは許されず、一々願い出て手形(許可証)を受けることになっていた。
(山々のルーツ「上杉喜寿」より)
平家落人伝説

 平家部落は全国に百以上あるという。
 特に落人部落として注目されているのは、青森県の十和田湖付近、山形新潟両県境の三面(さんつら)山地、福島県南会津の檜枝岐(ひのえまた)、栃木県の栗山郷、岐阜県大野郡白川村、富山県東砺波郡の五箇山、新潟県中魚沼郡の秋山郷(津南町)、徳島県三好郡の祖谷(いや)、熊本県八代郡の五家荘を始め五木・小国・米良・須木、宮崎県東臼杵郡椎葉、そしてこの越前南山谷の一帯などが挙げられる。

 寿永二年五月(一一八三)平家の大軍は砺波山の戦(倶利伽羅峠の合戦)で、木曾義仲に大敗した。 平家の大将維盛は加賀に退き、多くの将兵も指揮者を失い、地理不案内のまま高い山を目指して荘川峡へ逃走した。 旗大将の長門守家次の残兵三六〇余人は、国境を越えて美濃国山県郡美山町葛原付近の平家平、本巣郡根尾村越波、武儀郡板取村、郡上郡大和村のなどに逃げ込み隠棲したという。
 追及の手が伸びれば国境を越えて越前に逃れたとか、はじめ越前の穴馬西谷に逃げたが、長い冬の積雪と極寒のため日向側の暖かい美濃側に移動して定着したとも伝えられる。

 また、倶利伽羅合戦に大敗し京へ退却しようとしたが今庄で退路を遮断されてこの辺に入ったとか、美濃郡上大和村や、武儀郡板取村あたりから入り込んだのではないかとかいわれてきた。 これとは逆に越前西谷村小沢の人達が、美濃根尾谷村の高尾に数百年前移住したともいう。 本巣郡志によれば高尾村はもと吉尾といい、越前小沢荘からの移住者が多く、小沢姓を名乗り云々とある。

 平家岳から平家平一帯の越美国境連山は、越前側も美濃側も峡谷は切り立つ断崖が迫り、急流は岩を噛んで流れて人間の進入を阻止し続けた。だからこそ隔絶したこの地で隠棲することができたわけである。

平家岳登山

(平成10年5月5日)晴時々曇り

登山行程

09時00分 面谷登山口・発       

10時30分 送電線鉄塔下  

11時50分 井岸山

12時05分 平家岳・着 

   昼食

13時00分 平家岳・発 

14時10分 送電線鉄塔下

15時20分 面谷登山口・着 

登山者 はやみねその 夫人(2名)平家岳 山頂
登山日記

 早朝5時に起床し、6時過ぎ出発。 九頭竜ダムには8時過ぎに着き、九頭竜湖にて箱ガ瀬橋(瀬戸大橋の試作品)を渡るが、道が二手に分かれている。 左は荷暮方面、面谷へは右へ行く。 面谷橋を越えたところを左に川に沿ってのぼって行く。 この道が結構荒れた道で、低速走行を余儀なくされる。 やがて、面谷鉱山廃鉱跡まで来て、道路が怪しくなってきたので道路沿いの空き地に車を止め、そこから歩くことにした。 登山口までは歩いて十分ほどだった。

 登り初めるとすぐ橋台のみ残った川を渡る。 そのあとから一気の登りが一時間続く。 やがて、高圧送電線の尾根にでて、あとは山ツツジやシャクナゲ等の満開の中をゆっくり登って行く。 途中休憩を入れ、三時間で登頂というのはちょうど良い時間である。 また、道の周りにも小さい花が色々咲いており、楽しめながら登れた。

 頂上には平家岳の看板があるだけで、落武者伝説を思わせるようなものは何もないが、荒島岳能郷白山など、福井、岐阜の山々が見渡せる360度の眺望である。 ちなみに、登頂者は私達以外に16人位であった。

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「轆轤師と落人伝説」

平家岳にまつわる落人伝説

◆ 源平の合戦に敗れた平家の残党は、山深く逃れ込み、ついで久沢の平家岳の山頂に着いた。 この山頂は海抜一四四〇米であるが、頂上はやや平胆でわき水がある。 ここに居をかまえ、食料が必要な時は、長柄のしゃもじで招けばどこからともなく届けられた。 その他一切の生活必需品は、このしゃもじで招き寄せて、何不自由なく暮らしいた。
 ある日、東方の空から一本の矢が現われ、木の上、木の下、がけの下に隠れても頭上を去らず、必らずめざす相手に命中する迄止まらない、次々にこの矢が来ては、やがて全滅すると思い、急に全員山を下って谷間に達した。 そこまで来てやれやれうれしと思ったので、そこをうれし谷と名付けた。 今はうるし谷と云う。

◆ 久沢平家平に、平家の人が逃げて来て住んでいた。 それを岐阜県の長良川から見ると雲気がさしていた。 それであそこに平家の人がいるという事が分かって、平家の人達は滅ぼされた。

◆ 平家の人達は、柄の長いシヤクを持っていた。 一つぶの米を入れてこのシャクでかき回すと、釜がいっぱいに成る。 平家の人達が山へ逃げるとき、柄の長いのがじゃまになるので、柄を切って短くしたところ、もう釜がいっぱいにならなくなった。

◆ 源平合戦の時、平氏の落武者が平家平の頂上に隠れていたところ、岐阜県の長良橋の上から源氏に見つかり、攻められてほろんだ。 平家平には石の積まれたのがあり、平家の墓であるともいわれている。

◆ 平家岳のふもとから離れた別の谷間の合流点に十二、三個の墓石が列立し、まん中は高く、西脇は次第に低い石が立ち、あたかも主人、家来の墓の区別を示すようである。 しかし文字を記したものはなく、一番はしの一ヶに木の印があるかに見える。 まん中の大将の墓の前に直径一米ばかりの平たい石があって、その裏に白いヘビが居ると云われている。 付近に昔炭焼きが居て、こんな墓は偽物であると全部倒してから山に登り木を切って夕方帰ってみると、自分の家が焼けていたので、そのたたりの余り早いことに驚き、おそれ、ただちにもとに直しておった。


その他の落人伝説

◆ むかし源平の戦いがあった時、平氏が源氏の兵を待ちうけていた所があり、そこをオオゼ待ちと呼んでいる。 オオゼ待ちで破れた平氏が山へ逃げたので、源氏がその山を焼き払った。 それでこの山を焼原という。 焼原でも敗れてかくれた山を、かくれ山と呼んでいる。

◆ 「平治元年源平の合戦の時敗れた長谷川藤五郎久勝が、追手の難を逃れ籠もった小洞がある。 ここを籠もり洞と云う。」

「穴馬の歴史と伝説」