巻の八
◆福井県越前市朽飯町二一−三三◆


郷社 八幡神社(はちまん)

福井県今立郡服間村朽飯(くだし)区 第二十一号西出三十三番地 鎮座

由緒   神社に関する事項   口碑伝説   参考語録

祭神

天萬栲幡千幡比売命
(あめよろずたくはたちはたひめのみこと)   誉田別尊(ほんだわけのみこと)   火速日命(ひはやびのみこと)
  倉稲魂神
(うがのみたまのみこと)  天照大神(あまてらすおおかみ)  伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
 伊邪那美命(いざなみのみこと)  菊理姫命(くくりひめのみこと)  菅相亟(かんそうびょう)
由緒

 社伝によれば、往古は架幡神・応神天皇・服部連祖神の三柱を祀る服部郷の総社で、国内神名帳には正五位八架神と出てい八幡神社鳥居る。 創立の年月は不詳であるが、允恭天皇(421〜452)の御代火之速日命の十二世神孫麻羅宿祢の後商、服部連が織部司に任ぜられ当地に下向し、郷民織部等を総領した。 この時地名を服部郷と改め、火之速日命を八架神に合祀して鎮守としたのが起源とされる。

 その後、顕宗天皇(485〜487)の御代、百済国奴理使主の後孫阿久太子の彌和をはじめ、機織りに長じた織り姫たちが渡来し、養蚕と絹織りの技術を郷民に教え産業を興した。 この絹織物は貢ぎ物として都に献上され、知名度は高まり機織業は繁栄した。

 一説には、村名を百済氏と唱えたこともあるという。 また、男大迹王の妃 倭姫が産んだ九高王(くたかしおう)の住んだ場所とも云う。

 ここに機織の祖神天萬拷幡千幡比實命が祀られ、郷民をはじめ世々の国司・地頭も総社氏神と尊崇し、信仰も深く神地を寄進。 社領七十余町という。 奈良時代の神亀三年(726)頃、八架神の神宮寺として朽飯寺(きゅうはんじ)が創建されたという。

 文治元年(1185)平氏滅亡と共に、源頼朝に追われた舎弟の三河守源範頼が同三年当地に落ちのび、東庄境の岡谷に居城し当社を信仰した。 弓矢・太刀を始め軍器を奉納し、これまでの八架神を八幡神と改め、正八幡宮として源氏の氏神を尊崇した。 範頼は越前三位道盛郷の息女日吉姫を室とし、建久四年(1193)天引部山(八幡山)に七堂伽藍を建立した。 その年範頼は他界し、日吉姫は追善のため出家して浄円禅尼となり、亡君の遺言によって持仏の阿弥陀如来の檀像を、機織伝来の由緒に因み真奈蛮(お香)を入れた苧桶に納めて本宮に安置した。 神亀三年(726)以後三十三年毎に開扉されてきた古い御神体に代り、この尊像が新しく開扉されることになった。 浄円禅尼は建永元年(1206)他界した。 東庄境の浄円寺(元浄円庵)は、範頼と浄円禅尼の菩提寺である。

 浄円禅尼の他界後、北条時頼が北国を巡国した際、岡谷の浄円庵に立寄り、朽飯の吉祥坊より古記録を見せられ感嘆して百町歩の田地を寄進し、社殿・僧坊三十二宇が建立されるなど大いに高冒した。

 室町時代の初期に十王像、文安二年(1445)の文書に朽飯寺のことが初見され、明応四年(1495)に大般若経六百巻の納経、大永六年(1526)経筒等の埋納があり極めて充実した時代であった。 天正三年(1575)織田信長の将監滝川一益による一揆討伐によって、神領は剥奪され兵火により堂社・僧坊は悉く焼失した。 天正六年(1578)頃から再建が始まり文久三年(1863)の「祭礼図絵馬」に見られる社殿配置が完成するのは、文政八年(1825)本殿が再建された以降のことである。

 明治維新には神仏分離により社僧や別当を廃止し、社名を八幡神社と改称、明治二一年(1888)八月郷社に列せられ、同年十二月二十七日境内に禁制札を設置した。 現在の境内地の配置は同二十二年以後の整備によるものである。 同四十一年八月十六日に神撰幣吊料供進の神社に指定された。

 明治四十二年十二月四日、境内社稲荷神社 祭神倉稲魂神由緒不詳、 同神明神社祭神 天照大神由緒不詳、 同白山神社祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 菊理姫命由緒不詳を合祀し、同日、 藤木区村社八幡神社祭神 応神天皇由緒不詳、 高岡区村社天満社祭神 菅相亟由緒不詳を合祀せり。 明治四十一年八月、神饌幣帛料供進神社に指定せられたり。
例祭     9月15日      神紋     輪宝

建物      本殿  木造 銅板葺 流造 (前口四間 奥行四間)
            拝殿  木造 瓦葺 流造 (前口五間 奥行三間)   鳥居 一

特殊神事   獅子返し

社宝       算額二面(天保四年・嘉永二年)
          木造阿弥陀如来座像、木造十一面立像・祭礼図絵馬(文久三年)

文化財指定    県 地蔵十王像、版木大般若経六百巻       木造狛犬、陳の六号墳出土遺物一括、黒漆八角形神輿、経塚遺物、鷹の面

本殿造営の沿革   不詳
八幡神社拝殿



境内神社


   神明神社  祭神 天照大神
   白山神社  祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 菊理姫命
   稲荷神社  祭神 倉稲魂神
   幡生神社  祭神 天萬栲幡千幡比売命
神社に関する事項

朽飯の獅子渡し

 服間村朽飯八幡の秋季例祭には獅子頭の渡御がある。 八月十三日区内の若者は一定の白衣に袴を着け、足袋はだしにて赤たすきを掛け、軽装して神社の境内に集まり、午後五時社殿を出発して獅子頭の渡御を始める。

 隣区の高岡から藤木に着し、清兵衛(休石と称する神石あり)に立ち寄り、のち庄屋に至り一泊する。 翌十四日は同所を発し、領家の孫右衛門に立ち寄るのが慣例である。 後に長善寺境内に於いて獅子返しを行い、次いで又彌三左衛門下道にて同断、これより春山を経て東樫尾神明社へ着し、同区通過後直ちに朽飯に帰り来る。 八幡神社大門内の元山門の跡に神石と称する休み石があり、ここにて少休し東庄境に至り浄圓寺境内及び水間街道にて獅子返しを行う。 そのあと銭ヶ花にて一休みし、神官祝詞を捧げまた獅子返しを行い午後六時朽飯に帰る。 朽飯の中に神泉があり、ここに立ち寄り庄屋に着して休息する。 夕方八幡神社境外大門にて獅子返しを行い、直ちに拝殿に収めて一泊する。 警護の当番あり。

 明けて本祭り当日の十五日午後二時より境内にて獅子返しを行い、午後五時社殿に収めて渡御の式を終了する。

 明治維新前には此の順序にて渡御せしが、維新の際春山、東樫尾の獅子返しを止め、かつ神輿を併せて渡御するに至る。

八幡山(天引部山)と銭ヶ花

 今立町から池田町に行く道沿いに、「銭ヶ花」という所がある。 ここの農協支所近くに、昔は「一ノ鳥居」があり、いま朽飯にあるものが「二ノ鳥居」とよばれて、そこに一直線の参道があった。 いわゆる「大門先」だったのである。 この参道の両側に一本の綱を張り、この綱に参詣者はお賽銭をつるすのがシキタリだった。 一ノ鳥居が綱の端であり、「銭をつるした綱の端」にもなり、こうしたことから「銭の端」といわれ、それが「銭ノ花」となったのである。 

 一ノ鳥居跡、つまり農協の裏側から八幡山を望むと、山そのものが神体山のように感じられる。 一ノ鳥居付近が神体山八幡山の遥拝所ではなかったか、銭ヶ花の一ノ鳥居・朽飯のニノ鳥居・八幡神社、それに八幡山を結ぶと一直線なのである。 銭ヶ花は八幡山の伏拝所だったとしても、まったく疑う余地はないところである。 この「大門さき」がおよそ一キロにも及び、かつては近傍に希な大社だったと見られる。

 「天引部山」という山名は、大陸から来着されたという人によって、命名されたのではないかと思われる。    (上杉喜寿)
口碑伝説

はたを織る大石
はたを織る大石
 今から千三百年程前、新羅・百済の戦乱を逃れ海を渡り、このはた織りの里に辿りついた百済の娘が、親切な老夫婦に助けられた。 娘はおばあさんの勧めではたを織り始めたが、手元にたまる立派な布を見て、この里ではいい腕と言われているおばあさんも大いに驚き、また、それを売りに行ったおじいさんの織物をみた町の店の主人も、見事な出来映えに感心し高値で買い取ってくれた。

 娘は、毎日一生懸命に機織りを続け老夫婦を大いに助けたが、故郷恋しさも募り、淋しくなると裏山の池を見下ろす大きな石に腰を下ろし、百済がある西の空を眺めていた。 そのうち食事も進まなくなりやせ衰え、老夫婦が心配する中、家に戻らなくなったのは間もなくであった。

 老夫婦は嘆き悲しみ、探したが何の手がかりも得られず、里の人々は死んでしまったのだろうと噂し合った。

 やがて冬が過ぎ春が訪れたある日、山仕事に来た里の若者が大石に腰を下ろし池の涼で一息を入れていると、何処からかかすかに機織りの音が聞こえ、不思議に思い耳を澄ますと、自分の腰を下ろしている大石の中から聞こえてくる。 若者は驚き、山を駆け下り里の人々に知らせたという。

 噂を耳にした老夫婦は、早速山に登り大石の傍らに立つと、確かに澄んだ機織りの音が聞こえてくる。 石に耳をすり寄せると、それは聞き慣れた娘のはたを織る音であったといわれ、しばらく石の傍らから離れなかったということである。

 それ以後、里の人々はこの大石を「はたを織る大石」と崇め今に伝えられている。

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「今立郡神社誌」