佐太神社(さだ)

◆島根県八束郡鹿島町大字佐陀宮内七二番地
社名
 サタノカミノヤシロ。 九條家本には「佐陀大社」、武田家本には「佐陀大神社」と記し、吉田家本には「佐陀神社」と記してサタノと傍訓している。 中・近世の文書・記録・地誌類等には 「佐陀社・佐田社・佐陀大明神・佐田大社」 などと記し、明治の『特選神名牒』では 「佐陀神社」 となっているが、その後、「」の字が阿彌陀の陀に通じるところからこれを避け、風土記の文字に還って「佐太神社」と記すに至ったという。 訓みは本来サタであったろうが、今日ではサダというようになっている。

所在佐太神社
 ここは風土記にいう「狭田国」の東端に位し、律令制時代には秋鹿郡の神戸里に属していたはずであるが、いわゆる荘園時代に入ると、この一帯は「佐陀荘」と呼ばれて安楽壽院領となった。 近世には、江角・古浦・武代・本郷・庄村などの諸村が成立し、この神社鎮座地の一憲は「宮内村」ということになった。 しかし明治になり、明治二十二年、右のうちの本郷・武代・宮内の三村は合して佐太村となり、宮内は「佐陀宮内」と改称してその一大字となった。 

 ところで、風土記、秋鹿郡神名火山の條を見ると、「郡家東北九里四十歩、高二百三十丈、周十四里、所謂佐太神社即彼山下也」 とあって、当時の佐太大神の社は神名火山の麓にあるもののごとくなっている。 このいわゆる神名火山が現在の朝日山であるが、その下に当時の佐太大社が鎮座していたことになる。

 一方、現在の佐太神社鎮座地は、当時においては神戸里に属していたはずであるが、神戸とは風土記によれば 「出雲也、説名如意字郡」 であって、すなわち、これは出雲国造の斎き奉る大神達に依さしまつりし神戸であったわけである。 とすれば、そこにもともとこの狭田国の主祭神たる、この佐太大神の社があったとするのはいかがなものか。
 すなわち、この大神の社は、もともと現在地よりかなり西北の、神名火山により近い、少なくとも神戸里とは関係のないところにあったと考えられるのである。

 なお、昭和四十八年の秋十月、それこそ神名火山の下といってよい鹿島町太宇佐陀本郷宇志谷奥の山中から、銅剣六口と銅鐸二口とが重層して出土するという、全国でも珍らしい事例があったが、この事実は当太神の古代祭祀を考える上に少なからぬ暗示をもたらすものと思われる。


祭紳
 きわめて複雑である。現在では本殿が正殿・北殿・南殿の三殿に分かれており、この三殿で祭神の合計は十二座となっている。 しかし、式には秋鹿郡十座のうちの一座として 「佐陀神社」 が記されているにすぎないので、当時の祭神はあくまでも一座であったとしなければならない。 風土記に 「佐太御子社」 とあり、延喜式に 「佐陀神社」 とあって、その祭神は一座としか考えられぬ以上、その神名はただ 「佐太御子神」 というより言いようがないはずである。 ところが、この祭神名がその後幾変転し、かつ一社が三殿に分かれることになるのである。

 岸崎左久次の『出雲風土記紗』には、この社を三社とした上で、一社は熊野大神大穴持命、一社は佐田大神、一社は瓊々杵尊・伊弉冉尊・天照大神の三神であると説明している。
 永享十一年
(1439)三月十八日の四郎三郎他十一名の 「起請文」(東福寺文書)に 「特者当州杵築太明神・佐陀三社太明神」 の語が見える、少なくとも南北朝期にはすでにこの三殿並立の形ができていた。 天正六年(1578)の 「佐陀大明神御本体ヲ智事」 云々と題する当社幣主祝宮川清秀の手控には、「ここは当国の鬼門故に三つの社を建て並べ、八百萬の神々を勧請するが、主神は皇孫瓊々杵尊であり、かつ伊弉諾・伊弉再の二神を併せ祀る」 というふうに述べている。

 次いで江戸時代の初めに成ったと思われる、かの神能 「大社
(おおやしろ)」を見ると、そのクセの段に、「三つの社を建て並べ、伊弉諾・伊弉冉は中の社と思召、左の社には天照大神・月の神、右の社には水蛭子・素盞嗚これなり」 とあって、ここに三殿の祭神が、より具体的に説かれ、しかし主神は諾再二尊ということになってくる。

 寛文年間
(1661〜73)の 「佐陀大明神縁起」 には 「中正殿者伊弉諾・伊弉冉二尊勧請社也。 北之社者穂仁似々貴尊也。 亦天照大神・天赤女勧請社也。 南之社者月神・蛭子・索盞嗚尊也」 とあり、天和四年(1684)孟春の 「秋鹿郡佐田大社之記」 には 「正殿、速玉之男・事解男、北殿、天照大神・皇孫命、南殿、五男外ニ一座伝授」 とある。 ここに速玉之男命・事解男命・五男神というものが出てくるのである。佐太神社 三社

 享保二年
(1717)の『雲陽誌』の記述となってくると、正殿は 「伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉男命・秘説、都て五座の神をまつる」、北殿は 「天照大神・月弓尊、都て二座の神をまつる」、南殿は 「素盞嗚尊・秘説四座の神をまつる」 というのであって、これでおおむね幕末まで一貫する。

 明治維新を迎えると、神祗官の指示を仰ぐ松江藩神祠県から、この祭神について強硬な示達を受けることとなった。 正殿の秘説一座の神名を顕示し、かつこれを『古史伝』の説に従って 「猿田彦命」 とせよというのである。 これは当社にとって根本をゆるがす大問題なので、正神主以下、祖法を楯に挙って反対した。 しかし藩は聞かず、明治三年六月に至り、これを 「佐太御子神」 として顕示することに結着した。 しかしそれでもなお納まらず、同十二年に至り、主神を 「佐太大神」 とし、諾再二尊を配祀神であるということに改めたが、さらに十八年、この 「佐太大神」 を 「佐太御子大神」 と書替えるに至った。

 現在では、正殿は佐太御子大神・伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉男之命、北殿は天照大神・瓊々杵尊、南殿は素盞嗚尊・秘説四座、ということになっている。 当社では、明治維新時の松江藩神祠県との紛争の結果として、いわば偶然にも古代の佐太大神の御名をふたたび顕示することとなったのであるが、それにしても古代末ないし中世以来と思しき、伊弉諾・伊弉冉・事解男・速正之男、あるいは天照大神・瓊々杵尊・素戔嗚尊といった神名は、これを依然として顕示することとなっている。 またそもそも三殿並立という形はこれをあくまでも守っているのであるが、これが古代以来のものでなかろうことは、叙上の次第によって明白であろう。


由緒
 天和四年(1684)の 「秋鹿郡佐田大社之記」に「神記所謂比婆山者蓋此處哉乎、然後垂仁天皇五十四年乙酉四月始合祭伊弉諾尊為二座」 とあり、別の「御由緒記」に「其後養老元年太政官符の命によりて再建し、其制貞享四年の造営迄継続せり」 とあって、これが当社の創立縁起となっている。

 延喜の制では小社の列でしかないが、神階は高く、三代実録貞観元年
(859)七月十一日の條に「出雲国従五位下佐陀神・旡位湯坐志去日女命、並授正五位下」とあり、九年四月八日の條には正五位上に、十三年十一月十日の條には従四位下に陞叙された由が見えている。この時点において従四位下以上というのは、出雲国における限り、熊野・杵築両大神の正二位を措いて他になかった。

 その後、首位の熊野大社は逐次衰微し、荘園時代に入っても格別社領を広げるような働きは見られなくなるが、次位の杵築大社の方は、墾田を開発し、ついには十二郷七浦というほどの厖大な社領を形成するようになる。 当佐太神社の場合は「九番二百八十丁、三頭佐陀庄、佐陀神主」と記されていて、鎌倉中期のころには当国第一の大社たりし杵築大社に次ぐ、というより、まさに匹敵する社領を形成するに至っていた。 しかもこれより百年余も前の永萬元年
(1165)の 「神祇官諸社年貢注文」 出雲国の條に 「大社、佐陀社」 とあり、このころすでに当社が杵築大社に次ぐ実質的ニノ宮の地位に達していたことは充分に考えられるのである。

 その後、この佐陀社頭がいかなる返還をとげたかは、具体的には知り難い。ただ社伝によると、おおむね戦国末まではかなりの所領を擁していたが、かの大閤検地により大幅に削減され、近世には二百石ということになってしまったとある。

 社人については、宝永三年
(1706)の「佐陀大社勘文」に、往時は二百二十四人、社領削減以来は七十有五人と記されているが、永正九年(1512)の 「当社祝子人数事」 と題する写文書(宮川上宮家旧蔵)によると、社人を大きく東座と西座とに分かち、東座には正神主ほか祝二十三人・神子六人、西座には権神主ほか祝十五人・神子七人・不明三人、合計五十六人の職氏名をあげている。 この「祝」をここでは上官・中宮・社人の三階級に分けていたが、このうち上官は世襲、社人もおほむね世襲、中宮は社人の中から功労によってその都度とり立てるものであった。 かくして、近世末に至るもなお正神主以下二十余人の神主・社人を擁した。

 神主 正神主(朝山氏)・権神主(宇藤氏)・別火(磯崎氏)、以上を佐陀三神主といった。
 上官 旧殿祝(福田氏)・高田祝(木村氏)・注連祝(幡垣氏)・幣主祝(宮川氏)・土器祝(朝山氏)
 中官 常時三、四家
 社入 別当祝・新五両會祝・若宮祝・社務祝・御盛祝・加賀祝・土器祝・矢神祝・龍蛇取・宮役人・山守・宮大工

 次に、当社では、近世に入る以前から周辺の諸社・神主に対して一種の管轄権を持つようになっていた。 これを 「触下支配
(ふれしたしはい)」 といい、近世にはその範囲を出雲十郡中、島根・秋鹿・楯縫および意字郡西半の、計三郡半としていたが、しかも元禄十年(1697)からはこれを幕府公認の制度として施行するようになっていた。 すなわち、こと神社行政に関する限り、この三郡半においてはすべて当社を経て藩の寺社奉行所に結びつくという方式であって、出雲の残り六郡半に関しては出雲国造家がこの立場に立ったから、ここに出雲十郡は神社行政上二区分されることになった。 ただしその間、特別大規模な神社だけはこの触下組織に属さず、単独で藩に結びつくという、いわば特例社も若干あった。 これを「一社一令社」といい、佐陀触下区域では美保大明神・大野高宮、杵築触下区域では日御崎大明神・平浜八幡宮・須佐大宮・横田八幡宮がこれであった。

 一方、一般諸小社を管轄する杵築大社および当社にあっては、それぞれ各地に幣頭と称する中間機関を設け、直接的にはこれに一般諸小社を管掌させた。 幣頭にはおおむね郷の總社級の社家をもってあて、佐陀触下では次の四幣頭をおいた。 むろん世襲であった。
  古曾志村吉岡氏 秋鹿郡東部・島根郡西部二十四社家
  片江浦 石川氏 島根郡東部十社家
  玉造村 遠藤氏 意字郡西部十二社家
  平田村 河瀬氏 楯縫郡西部十八社家
  小境村 常松氏 楯縫郡東部・秋鹿郡西部十社家
         
 (近世出雲における神職制度より)

 こうした組織ができたことによって、当社においても一般神職の奉賛が一段と盛んになった。 毎年八月二十四、五日の御座替
(ござかえ)神事には、この触下四郡半から少なからぬ神主・巫女が参向奉仕した。 しかしてその折行なわれる七座と称する直面の執物舞、神能と称する着面の芸能は、つとに当社において整備されたものとなっていたが、これがこの触下の組織を通じて広く弘布するむきも少なくなかった。 そしてやがては出雲各地に対してその影響を及ぼすようになり、その結果今日いわゆる「出雲神楽」なる神事芸能の型として成立するに至った。

 当社では古来陰暦八月二十四、五日、いまは陽暦九月二十四、五日の御座替神事を最も大切な祭りとしているが、それとともに陰暦十月二十一日から二十五日まで、いまは陽暦十一月の同期間の神在祭も、一般には神在月の 「お忌みさん」 の名のもとに重要な祭儀の期間としている。 このお忌みさんなるものは、もともと特定神社の特定神事ではなかったと思われるが、つとに杵築大社を初めとする七、八社の限られた神社自体のものとなり、とりわけ杵築大社と当社との神事はその最も著名なものとなった。 そのため当社においてもこの期間には參拝者が踵を接し、その状態は今日なお変るところがない。

 中・近世における両部習合の問題について史料が少なく、詳細なことは知り得ない。 ただ境内に阿弥陀堂・釈迦堂・護摩堂・鐘楼等があり、近くには神宮寺もあり、さらに隣村にある成相寺が当社の奥ノ院といわれていた。 そうした関係が解消し、境内から釈教風のものが影を失うのは寛文
(1661〜73)のころであった。

 ところが明治維新に至ると、祭神の問題について藩当局との間に確執を生じ、ためにこれほどの神社が新社格制度のもとでは一郷社にしか扱ってもらえないという事態となった。 すなわちさきに祭神の項で触れたごとく、「秘説一座」 なるものを、おそらく平田国学の意を汲むであろう松江藩当局が、これを猿田彦命として顕示せよと迫った。 対して当社側では祖法を楯に頑として抗したが、ついに叶わず、「佐太御子神」とし、次いで「佐太大神」とし、さらに「佐太御子大神」とした。 その間、明治五年には郷社に列せられ、七年には県社に昇格したものの、それ以上には昇らなかった。 したがって、当社ではこれ以後社格の昇進ということが一つの悲願となり、努力を重ねること五十年、大正十四年に至り、ようやく国幣小社に列するを得たのである。

神職
 国幣小社時代には宮司・禰宜・主典二の計四名、現在では宮司・兼禰宜一の計二名をもって職員としている。 ただし、近世以来の社人の裔は今も多く伶人として奉仕し、かつまたこれが主と なって今日いう佐陀神能の保持者會を結成している。
 宮司朝山氏は大伴氏の裔で、遠く天智の朝、播磨の賊を退治して勝部の姓を賜ったといい、承和三年
(836)出雲介として下向したのを出雲における鼻祖とするが、武家時代に入ると、土豪と化して神門郡朝山郷に築城したため、以来朝山氏と称するに至った。 杵築大社の宝治二年(1248)「遷宮儀式注進状」 に見える 「在国司朝山右衛門尉勝部昌網」はその系累である。
 この朝山氏が当社の神主となったのは、初代政持のときであり、これが出雲介として同時に佐陀社祭主職を兼帯したとなっている。 しかし二十三代貞網が尼子義久に属して陣歿し、その昆弟賢正院が還俗して二十四代慶網となって以来は明らかに当社の神主職を継承してきており、当主芳昭氏は、初代出雲介政持以来三十八代であるとなっている。


祭祀
 古来年中の祭祀は七十五度といわれ、永正九年 (1512)の「七恰余度之祭之名ヲ知事」(宮川上官家旧蔵)と題する寫文書には、その次第を記すが、近世にはすでに行なわれなくなったものもかなりあったらしい。 大祭は旧暦八月二十四日の御座替神事で、その翌二十五日を御法楽祭としたが、明治の官祭以来はこれを切替えた太陽暦九月二十五日を例祭とし、その前夜二十四日に古伝祭として御座替神事を行なうこととしている。 なお古伝祭としては、二月十五日(もとは正月十五日)管粥神事、五月三日(もとは四月三日)に直會神事、五月二十日〜二十五日(もとは四月二十日〜二十五日)神在祭裏祭、七月十五日(もとは十二月二十一〜二十三日)御田植祭、十一月二十日〜二十五日(もとは十月二十日〜二十五日)神在祭を行ない、これはいまも厳修されている。

社殿
 境内は上・中・下の三段になり、中段は下段すなはち横馬場平らから約三尺上がり、上段はその上へさらに六尺を上がる。 その上段に三本殿を東向きに並立させ、中段には左面に拝殿(旧称長庁)、右面に神楽殿(旧称国庁)を設ける。 拝殿は二間半に七間、神楽殿は二間半に五間で、ともに本殿に対して縦長に設ける。
 三本殿はともに大社造の桧皮葺で、正殿は一八尺四方、北殿
(左面)と南殿(右面)とはともに一五尺四方を測る。 内部は心ノ御柱を中心に、正殿と北殿とは間仕切りを向って右に設け、南殿は左に設けるから、御内殿の向きは正殿と北殿とは向かって左向き、南殿は右向きとなる。 三本殿とも現存のものの軸立は文化四年(1807)であるが、様式的には貞享四年(1687)の指図板に記すところとほぼ一致する。

紳紋    正殿扇の地紙、 北殿は輪違、 南殿は二重亀甲                                   −式内社調査報告より−
−佐太神社より−
御祭神

正中殿  佐太大神  伊弉諾尊  伊弉冉尊  速玉之男命  事解男命

北殿  天照大神  瓊々杵尊  
南殿  素戔嗚尊  秘説四座  


杵築大社   熊野大社   佐太大社   能義大社
出雲の国   美保神社   加賀神社   神魂神社  日御碕神社

  神社  話題  登山  今立町

田仲神社 磐長姫と木花咲耶姫

周辺の神社

 神戸里に鎮座した佐太神社の周辺には多くの神社が分布していたと思われる。 異説はあるが田仲社、垂水社、内社、比多社、宇多貴社、御井社、大井社がそれである。 狭田国の有力祭神の佐太大神を奉る神社として別格であるが、余りにも接近した神社には何らかのつながりがあったと予想することができる。

 田仲社については『雲陽誌』は
「佐太の宮内にあり、佐太橋の西を折れたところに在る。 二殿在って東に木花咲耶姫、西に磐長姫を祀る」
とする。 現在、社殿二棟が背中合わせに鎮座している地点の小字は「田中」と呼んでいる。