伊豫国越智郡・大山祇・俗称三島大明神
 
大山祇神社
(おおやまつみ)

◆愛媛県越智郡大三島町大字宮浦

    祭神

本 社    大山積神

上津社   大雷神 姫神(上津比賣命)磐 長 姫
下津社   高龗神 姫神(下津比賣命)木花開耶姫

社名神門・翼廊

 現在、当神社では神社名を「大山祇神社」祭神名「大山積神」として祇と積を書き分けて用いるが、いつのころからこのように使い分けたのか明らかでない。
 全国に奉斎される大山積(祇)神関係の調査では(1972年)、一万三百十八社という膨大な数であった。 その社名も千差万別であるが、特徴的な社名としては、山神社・山神神社・大山祇(積)神社・三島神社がある。 大山積(祇)神は全国に広がっており、全国的に山を支配し、山を守護する神として信仰されている。

 大山祇神社は古く、「三島明神」と呼ばれ、近くは「大三島さん」とも尊称されている。 「みしま」は三島であり、三つの島とは本州・九州・四国の三島を指し、三島即日本の考えから、大山祇神社の信仰に三島明神と日本総鎮守の称号を同一の意とする雄大な考えも生まれてきた。

 いつごろから日本総鎮守の称号で崇敬されたのか明らかでないが、「与陽盛衰記」は文徳天皇(687~707)の御代からとしている。


沿革
大山祇神社拝殿
 大三島での大山祇神社の創始は必ずしも明確ではない。 古くから多くの人がいくつかの由緒を語り伝えて今日に至った。
 「三島宮御鎮座本縁」によれば、はじめ大三島の南東部にあたる瀬戸(上浦町瀬戸)に祀られ、やがて瀬戸から西北にあたる辺礒の浜(大三島町宮浦)に遷されたとしている。 宮浦では大宝元年(701)から霊亀二年(716)まで前後十六年の歳月をかけて本殿、大己貴神社、事代主神社、大市姫神社、荒神社の五社が建立されたと記されている。

 その後、保延元年(1135)本社に雷神と高龗神が増祀され、康治元年(1142)に下津姫宮が、久安三年(1147)に上津姫宮が造営されたという。 

 大山積神の本地仏は大通智勝仏であった。 しかし、なぜ大通智勝仏が本地仏となったのか必ずしも明確でない。 まつられたのは保延元年のことで、この秋神宮寺が建立された。

 元亨2年(1322)兵火により焼失し、永和四年(1378)に再建されたと伝える。 現在の社殿は、昭和28年(1953)解体修理を行った際、向拝闘組や内陣お素屋床板から応永三十四年(1427)云々の墨書が発見され、本殿・拝殿共にその頃建立されたことが明らかになった。
 その記録にしたがえば、元亨2年から永和四年までの五十七年間、仮に応永三十四年までを計算すると百六上津社・本殿・下津社年もの長い間、本殿がなかった(仮御殿だった)ことになる。

 
 大三島に大山祇神社がはじめてまつられたのは推古天皇二年(594)のことで、それから百余年後の大宝元年(701)現在地の宮浦へ遷されたと伝えられる。 最初の鎮座地は瀬戸であり、その社殿を御鎮座本縁は「横殿宮」と記した。 何故横殿なのか、つまり横殿は、宮浦に大山祇神社の本殿があり、その後建てられた社殿、元亨年間に兵火で焼失したのち栄和四年に再建されるまでの仮の遷座地に建てられたのが「横殿」ではなかろうか。


一遍上人の社参

 一遍上人の社参は「一遍聖絵」「一遍上人縁起絵」に詳しい。 記録によれば正応元年(1288)十二月と翌二年二月の二度、大三島を訪れている。 その記録は詳細に描かれた境内図、さらに「詞書き」であり、大山祇神社の祭事の推移を考察するうえでたいへん貴重な資料となっている。
 そのなかに
   「一遍をば、なにの要にめしけるぞと思ひたれば、贄をとどめさせんためにてありけり」
 という記述があり、それまで大山祇神社の神饌として鹿や鳥類の生贄を供えていたことを伝えるものである。 


阿波の剣山   伊曾乃神社

    話題  登山  今立町




一の鳥居

神紋
    隅切折敷に縮三文字
 
 折敷(おしき)とは上古時代、樹木の枝葉を折り敷いて食器の代用にしたのを、後世になって、扁桧の片木を折り曲げ角盆にして用いるようになり、名だけは昔のまま折敷とよんでいる。 これに脚のあるのを脚打折敷といい、台をつけたものを衝重という。 そしてこの台の三面に孔をあけたものを俗に三方という。 四面にあけたものを四方という。
 折敷を紋章に選んだのは、瓶子を紋章に用いたのと同じで、神へのお供えを捧げるのに使われたことから、神聖なものと考えたのである。 したがってこれをかたどった紋章は折敷だけを使ったのはまれで、多くは、他の物をこれにのせた形をかたどっている。

祭神

 大山積神
 古事記・日本書紀によれば山の神として現れている。 古事記では「山の神、名は大山積神」で八柱、日本書紀では「山の神等を山祇と号す」で五柱に分かれ、ともに迦具土神から生まれたとしている。 また日本書紀は「大山祇神・雷神・高龗神の三柱」が誕生したとも記している。小千命御手植楠

 大山積神の御子神は木花開耶姫ならびに磐長姫と記すのが日本書紀で、古事記は足名椎・手名椎を御子神としている。
 この記紀の記述にしたがえば、木花之開耶姫は神武天皇の祖母に当たり、大山積神は皇室第一の外戚となる。 また、足名椎・手名椎の子に櫛名田比賣がいることは
出雲の神々の系譜とも強い結びつき、深い関係にあることが考えられる。

 風土記逸文伊予国「御島」によれば、
   乎知の郡。 御島。 座す神の御名は大山積の神、一名は。 和多志の大神なり。 さらに、百済の国より渡り来まして、津の国の御島に座しき。 云々。

とあり、和多志神とは航海・渡航の神を意味し、仁徳天皇の時代、韓国出征のときにこの神が現れて航海神としての神徳を発揮した意である。

 大山積神は全国の山々を守護する大神であり、全国に祭られる大山積神の奉斎社名に「山神社」「山神神社」の名が多く見られるのも、このことを意味している。 その大山積神が瀬戸内海の島宮としてまつられていることについて、古来多くの人々が種種な説を述べてきたが、確かに海中に祭られた山の守護神は多くの謎を秘めているといわねばならない。 しかし、伊予国一ノ宮である大三島大山祇神社は古来、地神・海神兼備の大霊神として尊崇されてきたのである。

~ 「大山祇神社略誌」より