杵築大社(きつき)出雲大社

◆島根県簸川郡大社町字杵築東一九五番地
御祭神   大国主大神
祭祀
 出雲大社で行われている祭祀は、年中に七十二回程あって、大体において古来のものがそのまま受け継がれている。 昔の主な祭祀は三月会神在祭新嘗祭等であったが、今日の祭祀中主なもの及び特殊なものを挙げれば次の通りである。 ( 『出雲大社由諸略記』 による。)
 大饌祭(一月一日)
 古来由緒ある祭典であり、「大御饌
(おおみけ)」と称して玄米御飯その他種々の物を神前に供えて、皇室の御隆昌、国家の安泰、国民の繁栄を祈る祭典である。 なお、御供の大御饌は、当日神前に供えたまま翌日撤下するのが例である。 この祭を俗に「寝ごもり神事」という。
 祈穀祭(二月十七日)
 当年の慶事の始めに当り、五穀の豊穣を祈る祭典で、大祭式をもって執行される。 又、甲子の日にも甲子祭を執行して、五穀の豊穣を祈る。 この日は一年の中に普通六回、年によっては七回あるが、この祭には通常の神饌の他にその時々の五穀の種子や水を供へて五穀の豊穣を祈る。 即ち、第一甲子祭には稻籾、第二の祭には綿種、第四の祭には水、第五の祭には麦を供えるのが例である(第三、第六の祭にはお供はない)。

○ 古伝祭(三月一日)
 神佛習合時代の大祭を三月会と称し、現在の例祭に相当するもので、陰暦三月一日から三日間行われた。 起源は明らかでないが、鰐淵寺所蔵の『杵築大社御遷宮次第』には 「文武天皇大長七年始メテ行ナフ」 とあり、又『和漢三才図会』『本朝年代記』共に二條大皇応保元年
(1161)始めて行ったとある。 中世に於ては、頭役を毎年国中の地頭に巡役させて此の会に要する費用を供進させ、極めて盛大に祭典が行われたことは、宝治元年(1247)十月出雲国大社神官等の訴状に 「当社ノ三月会ハ山陰無双の節会、国中第一之神事ナリ」 とあるによっても知ることができる。 その後、世の変動と共に、衰微乃至は中絶したこともあったが、近世に入ってからは毎年五十石を費用に充てて執行された。 然るに明治維新後三月会は廃止され、これに代って明治四年五月十四日に官幣大社に列せられたのを記念し、明治十九年よりこの日を例祭日と改められた。 現在は古伝祭としてこの三月一日に記念の祭典が執行される。
○ 例祭(五月十四日)
 勅祭である。 当日祭典前に拝殿に於て的射祭が行われ、勅祭の後には松の馬場で流鏑馬の神事が行われる。 ついで、翌十五日には二の祭、十六日には三の祭が執行される。 この三日間は、一般に「出雲大社大祭礼」と称し、種々の神賑行事もあり年中の祭典中で最も賑かな祭となっている。

○ 涼殿祭(すずみどの)(六月一日)
 この日、まず本殿に於て祭典を行ない、終って宮司以下神職一同出雲森(本社の東方約一〇〇b)に参向して祭事を行い、ついで本社銅鳥居東側にある御手洗井に至り祭事を終る。 出雲森から御手洗井まで眞菰を敷き、立砂を盛られているところを宮司が大御幣を奉持して参進し、仰手洗井に向つて振幣を行って神事を終わる。 この祭を俗に「真菰の神事」という。

○ 神幸祭(身逃神事=みみげ神事ともいう)
 古くから伝わった神秘的な神事の一つであり、明治以前には陰暦七月四日深更に上官の別火氏の奉仕によって執行されたが、明治四年の神社改正以後は陽歴八月十四日深更に行なわれ祢宜が奉仕することになっている特異な神事である。杵築大社拝殿 本殿
 八月十日朝より祢宜は齋館に寵り、本社神伝の火燧杵、火燧臼で鑚り出した忌火をもって調理した齋食を食べ、神事の終る京で他火を禁ずる。 同十一日夕刻、祢宜は稻佐浜に出て海水にて身を浄め齋館に入って潔齋をする。 同十三日夜は道見と称し、祢宜は齋館を出て、先頭に高張提灯二張、次に祢宜自用の騎馬提灯持一人、次に祢宜、その後に献饌物を捧持せる出仕一人が從い、大鳥居に出で、ここから祢宜は人力車に乗り、町通りを過ぎて四軒屋に鎮座する湊社を詣で、白幣・洗米を供えて黙祷拝礼する。 この社の祭神は櫛八玉神で別火氏の祖神である。
 次に赤塚に鎮座の赤人社に詣でる。 次に稲佐浜の塩掻島に至り四方に向って拝し、前二社と同様の祭事を行い、終って斎館に帰来する。 以上によって、明夜執行される神事の道筋の下検分を行うわけである。
 同二十四日夜は大国主大神が御神幸になる。 当夜は境内の諸門は何れも開放される。 午前一時、祢宜は狩衣を着し、右手には青竹の杖を持ち、左手には真菰で造った苞(しば)及び火縄筒を持ち、素足に足半草履を履き、本殿の大前に参進して祝詞を奏し(現今は祝詞を奏しない)、終って神奉の儀が始まる。
 祢宜は供奉し、前夜道見の際に詣でた二社に行き、次に塩掻島に行って塩を掻き、帰路出雲国造邸に至り、大広間内に大社本殿に向って設けられた祭場を拝し、本殿大前に帰来して再拝拍手して神事を終り、齋館に入る。 そして当夜塩掻島で掻いた塩は、翌十五日爪剥祭に供えるのである。 祭事中、国造は神幸に先立って自邸を出て他の社家に赴き、一時仮宿する。 そして、国造邸では表の広間を掃き清め荒薦を敷き八尺机を傭へて、奉迎の準備をする。 なお、この神幸の途中、若し人に逢えば汚れたりとして大社に帰り、再び出て行くのである。 そこでこの夜は大社町民は早くから門戸を閉じ、謹慎して戸外に出ないことにしている。

○ 爪剥祭(つまむぎ)(八月十五日)
 八月十四日夜の神幸祭に塩掻島で掻いた塩及び稲穂、瓜、茄芋、根芋、大角豆、水等七種の神饌を供へて祭典を執行する。 引続いて天神祭が行われるが、これに供える神水は瓢を切割って中を穿ち麻の茎を柄とした柄杓を用いることが、古来からの例となっている。

○ 神在祭(陰暦十月十一日より十七日迄七日間)
 旧十月を諸国では古来神無月と云い、出雲では逆に神在月と呼んでいる。 即ち、旧十月十一日より十七日までの七日間は、神々が出雲大社に神集い給うので、この期間は本社及び上宮(摂社、稻佐浜に在り)に於て神在祭を執行する。 また境内の両十九社(末社)は参集された諸神の御旅社であり、ここでも祭が行われる。 しかも、この祭事の間は、土地の人は皆謹慎齋戒し、宮庭を払わず(宮掃除をしない)、家宅を営まず(家屋の大工仕事をせず)、春杵せず(土木工事をせず)、歌舞音楽を行わず、最も静粛に祭祀を奉ずる。故にこの祭を「御忌祭」ともいう。

 又、この祭事の期間中には、毎年風烈しく波荒い日が多いので、綿紋小蛇が波に乗って稻佐浜辺に浮び寄ることが多い。 一般にこれを「龍蛇」と呼び、八百萬神が大社に参集されるにつき、龍神の使として来給うのだと伝へ、曲げ物に盛って神殿に納めるのが、古来からの例となっている。
 出雲大社の神在祭が終ると、それより引続き八束郡の佐太神社に於て神在祭があり、最後は簸川郡斐川町出西神立の萬九千社より神々は国々に帰り給うと云い、出雲大社では十七日と二十六日の両度に神々のために神等去出
(からさでを行う。 即ち、十七日は神々が出雲大社をお発ちになる日であり、二十六日は出雲国を去り給う日であるとしている。
 なお、この神在祭には、諸国の産土神が出雲大社に参集されて、種々の神議をなされ、中にも男女の縁をお結びになるといい、若い男女の参拝が特に多い。

○ 献穀祭 (十一月二十三日)
 当年の新穀を献って報恩感諸の誠を捧げる祭典で、大祭式をもって執行される、氏子崇敬者教徒信徒がそれぞれ新穀を供進し祭典に参列する。 又、当夜は、由縁の極めて古い古伝新嘗祭(俗に「大庭(おおば)御神事」とも云う)が神前に於て厳粛に行われる。
○ 御饌井祭
(みけい) (十一月十七日、十二月二十七日)
 この祭は大神の御饌を炊く用水の祭であり、古伝新嘗祭の前後即ち、十一月十七日と十二月二十七日の両度に行われる。 即ち、この曰早朝御饌井を装飾し、神饌(しとぎ二個)を供へて宮別祝詞を白す。 次で宮司神舞を行う。この間神人琴板を打鳴らしつつ神楽歌をうたうのである。


古伝新嘗祭発掘された「本殿宇豆柱」のレプリカ
 古伝新嘗祭は、国造が今年の新穀を神前に供へ、自らも食して神恩を感謝し、併せて今後の国家繁栄、五穀豊穣を祈念する古式豊かな祭典である。
 その起源にあっては、出雲国造が自ら出雲国意字郡の熊野大社に参向してこの祭典を執り行つたのであり、又、国造代替りの相続式も、この社で行われたと伝えられる。 しかし中古以来交通の不便、諸事多端のため、国造の相続式並びに古伝新嘗祭を熊野大社で行う伝統を廃止して、同郡の大庭村(今の松江市大庭)に鎮座する神魂神社に於て執行することになった。
 この場所は古くから国造が意字郡とか飯石郡の郡領を兼ね政治的拠点として大庭に別館を設け滞留していた関係からであった。 その後、延暦十七年
(798)に郡領兼職が廃されて、神事のみにたずさわることとなったけれども、永く古例のまま神魂神社に於て新嘗祭を執り行ってきたのである。
 毎年十一月(旧暦)中の卯の日に国造自ら同社に赴いてこの祭典を行なった。 それが明治四年神社改正以後、出雲大社の神前で行なうことになった。 以上のような変遷はあったが、今日でもこの祭典と熊野大社との間にはなお密接な関係が保たれており、又、この古伝新嘗祭を俗に「大庭御神事」と呼ばれている。

 当社に於ては、古伝新嘗祭をはじめ諸々の祭典に奉仕する時は、常に火燧臼、火燧杵によって燧り出した神火をもって神饌を調理するのであるが、この火燧臼、火燧杵の由来について、当此の伝によれば、出雲国造の祖天穂日命が大神の官の祭主となった時、熊野大神櫛御気野命から授かったとも伝えられている。 故に代々の国造が新たに国造職を嗣ぐには、必ず熊野大神の鎮座まします熊野大社に於て、一生一度の神火相続の儀を執行し、又この古伝新嘗祭に用いる火燧臼、火燧杵も亦、毎年熊野大社から新しいものを受けるのが古来からのしきたりとなっている。

 この受取る時の儀式が、古伝新嘗祭に関る一連の神事即ち、亀太夫神事と称して特に重要な儀式となっている。 かつて古伝新嘗祭が神魂神社で行われていた時には、新嘗祭の前日(寅日)出雲国造は斎火殿の器具を携へ出雲大社上官以下随員多数を従えて杵築を出発し、途中一泊、翌朝意字郡大庭村の別邸に到着する。 この時、直ちに神魂神社の神宮秋上某及び別火職秋上某以下が同行する。 次で熊野大社の社人亀太夫(宮太夫とも云う)が火燧臼、火燧杵を持参し、これを受取る式が行われる。 おわって、この火燧臼、火燧杵をもって神火を鑽り出して、神饌並に国造の食物を炊く。 かくして、古伝新嘗祭の儀式が始まるのである。
 そして、初め国造が杵築を出発する時、熊野大神に献る餅一対を持って大庭に行き、これを熊野の亀太夫に渡せば、亀太夫はこの餅の出来ばえなどについて口喧しく色々と苦情をいう。 国造の従者はこの苦言を一々謹しみ承り、然る後に火燧臼、火燧杵を受取るのが恒例の儀式となっている。 これを亀太夫神事という。

 その由来は、古く熊野大社の使者が火燧臼、火燧杵を持って参向した時、国造は彼を大国主大神の祖神の神使として特に優遇し、彼のいうことには悉く従うのが一の慣習となっていた。 いつの頃からか社人亀太夫なるものが持参の折に、わがままな行為をしてから遂にこれが恒例の儀式となって伝わるようになったといわれる。

 然るに明治四年、神社制度改正後は出雲大社に於て古伝新嘗祭を執行することになり、祭典に先立って、出雲大社の神職を熊野大社に遣はして火燧臼、火燧杵を取寄せることになったので、一時この神事は廃止されたが、大正四年御大典に際し、熊野大社に於て鑽火祭を再興して以来、この神事も復興され、今日では毎年十月十五日に宮司(国造)が神職若干名を率いて、熊野大社に参向してこの神事が行われることになった。

 古伝新嘗祭の祭式次第の中に「歯固式」や「百番の舞」、或いは「御釜神事」など特殊な儀式や神事が含まれているが、これらは神に仕へる国造の壽命が末くあって、神々の御恩恵によって五穀豊穣を歓び報恩感謝の誠を捧げることを神人合一の姿によって現わした儀式に他ならないのである。

    大神には多くの御別名があり、古典に記された主なものを挙げれば左の通りである。

     犬已貴神(古語拾遺)大穴特命(延喜式)大物主神(紀)葦原醜男神(紀)八千矛神(記・紀)所造天下大神(出雲国風土記)国作之大神(延喜式)
      国堅大神
(播磨国風土記)大地主神(古語拾遺)大国魂神(古語拾遺)顯国魂神(記)広矛魂神(記)櫛甕魂神(延喜式)幽冥事知食大神(教典)

 また御鎮座地の名にちなんで、出雲大神(紀)、出雲御陰大神伊和大神(播磨国風土記)、杵築神(文徳実録)などの御名が見える。
又、通称「ダイコクサマ」、「ダイコクサン」と親しく呼ばれている神は、この神である。

御神紋     二重亀甲に剣花菱 (熊野大社と同一)

 御神徳については、一般的に福の神、縁結の神、農耕神、医薬の神として信仰を集めているが、中でもとくに縁結の神として全国的に有名で、未婚の男女の祈願、結婚式、御礼参りなどで遠隔地より続々参拝し人気を博していることは衆知の通りである。
 因みに、御祭神大国主神の御系図を示すと、その御子として、
    味耜高彦根神、事代主神、賀夜奈流美神、建御名方神、御子神百八十一柱があり、御子の一柱事代主神の御子には姫蹈鞴五十鈴媛(神武天皇の皇后)、
    五十鈴依媛(綏靖天皇の皇后)、御孫渟名底仲媛(安寧天皇の皇后)
 が座します。
又、天照大神の御子天穂日命は、出雲国造の祖である。
 大和国大神神社の例祭神大物主神は、当国大国主神の別名であり、出雲と大和国との歴史的、神祇史的関係を究むる上で、大神神社の所在は最も重要である。

出雲と越の国
 「出雲国風土記」の記事によれば、
       古志郷(神門郡)、伊弉那弥の命の時、日淵川をもて池を築造給いき、
       その時古志の国人等、到来りて堤を為りてやがて宿居りし処なり、故、古志という、
       (出雲市古志町あたり)

 つまり、北陸地方の人が耕地を切り開き、ここに住み着くようになったということである。
「風土記」には、意宇郡母里、島根郡美保の郷の条にもそれぞれ北陸地方との交渉の話が見えていて、国引き神話に、美保の埼は高志の都々の三崎から引いてきたといっているが、その三崎とは能登半島の珠洲岬の事(気多大社)であるといわれている。 出雲と北陸地方とのつながりは、昔から深いものがあった。
社名
 「キツキ」は、九條家本、武田家本、吉田家本訓み皆同じ。 地名「杵築」の由来については、出雲国風土記出雲郡杵築郷の條に「(前略)八束水臣津野命之国引給之後、所造天下大神之宮、將造奉而、諸皇神等、参集宮處、杵築、故云寸付、」と記しているように、諸皇神達がこの大社(現出雲大社)キヅき給うたので「キヅキ」と称するようになったと伝えている。 そして神亀三年(726)に社名の示す「杵築」に字を攻めたという。 以来、この大社を「杵築大社」と称するようになったが、古典をはじめ諸文献には種々の称号で表現せられてきた。 今その主なものを挙げれば、次の通りである。

    天日隅宮
(紀)・天日栖宮(出雲国風土記)・出雲石同之曾宮(記)・杵築宮(釋日本紀)・出雲宮(八雲御抄)・嚴神之宮(紀)・出雲大神宮(紀)・杵築大神宮(和漢三才円會)・所造天下大神宮(出雲国風土記)・大社杵築大神宮(国花萬葉記)・杵築大社(大社志)・出雲国大社(享保集成総論録)・日本大社(真言宗正林寺蔵版木)
等々である。

 「大社」は「オホヤシロ」と訓み、「タイシャ」ではない。 式神名張では社名に「神社」
(カミノヤシロ)が一般的に使用されているが、特殊な例として「神宮」(カミノミヤ)、「宮」(ミヤ)が散見するが、「大社」(オホヤシロ)の呼称は当社の一例だけであって他に見当らない。 それ故特別の取扱いを受けていたことが分る。
 出雲国風土記に於ては「熊野大社」
(クマノノオホヤシロ)と当社の二例だけが「大社」と呼称しているのであるから、奈良朝にあってはこの二社が出雲国において別格の位置に置かれていたことがうかがわれる。 從って「杵築」は当社の所在地の古地名として長く呼ばれてきた。 もともと、越峠、市場、赤塚、中村、大土地、仮宮の六ケ村より成っていたが、町村制以後杵築町杵築村に分けられ、それが大正十四年四月一日、これを合併して大社町となった。 以来、「杵築大社」より「出雲大社」としての一般的な呼称が広く使用されるようになった。 「出雲大社」は、正しくは「イズモオホヤシロ」と訓むべきである。


杵築大社   熊野大社   佐太大社   能義大社
出雲の国   美保神社   加賀神社   神魂神社  日御碕神社

  神社  話題  登山  今立町

−式内社調査報告−
−出雲大社
(千家尊統著)− より
由緒
 記紀神代巻の構成は、大和朝延の直系である高天原神話と出雲系神話とが混在して一つの物語となつて国家の成立を明らかにしている。 その一方の出雲系神話の中心に位する神が大国主神である。 大国主神は素盞嗚尊の御子神であり、若い頃から「稲羽の素兎」の説話で有名な通り、滋愛深く、周囲から慕はれておられた。 しかしその反面、御兄弟の八十神達からしばしば御難を受けられたり、父尊から数々の試錬を受けられる等、種々の難儀に遭遇されたのであるが、その都度悉く辛抱強くおしのぎになった。 やがて父素盞嗚尊より、国づくりの大任をお受けになった大神は、葦原中国にお帰りになると、生太刀・生弓矢を執って邪神を追い払い、自ら鋤や鍬を執って未開の山野を開拓して、人々に農耕の方法を教へ、又人々が最も悩み苦しむ病氣やその他の災厄からのがれるためには医薬や禁厭の法を授け、温泉を創めるなどして、人々の生活が豊かになるようにお導きになった。 そして大神には事代主神建御名方神味□高彦根神を始め、多くの御子神達を諸国に遣わして、それぞれ大神の御心の顯現に盡さしめられたのである。 又、出雲国風土記には「天の下造らしし大神」として、記紀神話とは別の説話のもとで出雲国の開拓神としてその活躍が物語られている。

 その後皇孫瓊瓊杵尊がこの国に降臨されるに際しては、大神は国土を皇孫におかえしになり、それからは幽冥の主宰神となられ、御子神達と共に国の守り神として、萬民の幸福をお護りになることになった。 そこで天照大神は特に諸神に命じて、多藝志の小汀
(現在の御社地)に広大なる宮殿を造営せられ、且つ御自身の第二の御子天穂日命をしてその祭祀を司らしめられた。 これが今の出雲大社の起源である。 天穂日命の子孫は出雲国造となつて大神の宮に今の世に至るまでも変らない祭妃を奉仕することになった。 

 皇室の御崇敬として、垂仁天皇の皇子本牟智和気御子は、相当の齢になられるまで物言うことができなかったので、天皇は御心配になられたが、天皇の御夢に大神のお告げがあって、天皇の二十三年皇子が大社に参拝されたところ、霊験著しくたちまち御回復になった。 天皇は大へんお喜びになり、その報賽として出雲大社を造営せられた。 後醍醐天皇は元弘三年
(1333)三月十四日王道再興を御祈願あらせられ、更に同十七日には大社の神剣を望ませられたが、何れも綸旨を賜はっている。 これに対して大社からは古来相伝の神剣一振を献上した。 天皇は非常にお喜びになって、御所藏の「谷風の琵琶」を御奉納になつた。

 明治四年
(1871)神社制度が改正されるや、同年五月十四日出雲大社は官幣大社に列せられ、同十月十五日には大嘗祭の班幣があった素鵞社(そが)、ついで同十四年(1881)五月十四日の出雲大社御遷宮に際しては、明治天皇より赤地大和錦一巻を御寄進あらせられ、大正六年(1917)には勅祭社に定められた。 

 古記録及び当社の古文書、記録によれば、文治五年
(1189)源頼朝は時の杵築大社惣検校職中原資忠に託して大社に神馬一匹を寄進して祈願をし、又、南北朝時代から室町時代にかけて、将軍足利義詮は大社に国家安泰の所願を行ない、ついで大社の社殿造営を督□し、又同義政は肩白赤糸威鎧(現重要文化財)を寄進している。
 その間、山名時代、同満幸、細川勝元等、社領の寄進や祈願を行なっており又出雲国守護京極高詮も、又応永三年
(1396)には当時さびれていた大社の三月會の復興にも努め、殊に尼子経久が山陰に雄飛するや、彼は永正十六年(1519)出雲大社の仮殿式造営を行ない、ついで境内に大日堂三重塔輪蔵等を建立した.。 その後毛利勢が山陰に進入するや、毛利元就も厚く大社を崇敬し、殊に同輝元は天正八年(1580)社殿の仮殿造営を行ない、青銅鳥居をも寄進した。

 近世に入って慶長十四年
(1609)には豊臣秀頼によって仮殿式の造営が完成したが、この間、彼は秀吉の佩刀「光忠(現重要文化財)を寄進している。 その後寛永十五年(1638)には松平直政が松江藩主となり、朝鮮役以来二千百三十石に縮少していた大社領を直ちに二千七百三十石に増加し、ついで巨費を投じて、社風を挽回し、村域を整備拡張し社殿の規模も古の正殿式に復したので、寛文七年(1667)にはほぼ今日見られるような整然たる偉容が完成した。 この時、徳川幕府も五十萬金を出費してこの事業を援助した。 なお、この時長州藩主毛利綱廣も祖父の例にならって大社正門に青銅鳥居(現存)を寄進している。

 又一般民衆の間では、大国主神を俗に「ダイコクサマ」と申し上げ、古くから福の神、平和の神、縁結の神、農耕の神、医薬の神として、特に深く崇敬されていたが、殊に中世末期より交通の発達、民衆の生活向上につれて、遠路はるばる参拝するものが多くなり、又、大社の方からは、社家の人々が所謂御師となつて諸国に出掛けて行き、地方民衆の間に大神の御神徳を説き御神札を授けて歩くようになってからは、近世を通じて次第に拡大された。 やがて明治の御世になって、同六年
(1873)一月、時の出雲大社の大宮司千家尊福は、これ等の信徒をもって出雲大社敬神講を組織したが、これはやがて今の出雲大社教へと発展して行った。
出雲国造
 国造とは大化改新以前には、その国の土地を領し人民を治め、祭政の一切を司りその権能を世襲する、いわば地方君主であった。 大化改新にいたって古代からの世襲制が廃され、政治上の権能も国司に収められてしまい、国造とよぶものはただ祭祀権だけを許されるにすぎなかった。 だが郡の郡司には、旧来の国造の性識清廉時務にたえるものが、長官としての大領や、次官としての少領に、また事務能力あるものは、主政や主帳に任ぜられ、改新前と同じように地方に勢威をもっていた。 制度が変っても古くからたくわえてきた実力はこれを奪うことができなかったのである。 そして、国の祓にあたっては国造が、当時は貴重な財であった馬を、なお負担するに足る能力と責任とをもっていたほど、その勢威の高かったことが、ここからも知れるのである。

 『令義解』は、律令政治が熱意をもって行われていた承和元年
(仁明天皇)施行の『令』の注釈書で、奈良時代から平安初期にかけての、諸家の説を定めたものであるが、「神祇令」天神地祇の解釈として、
          天神とは、伊勢、山代の鴨、住吉、出雲国造の斎く神等これなり。地祇とは大神、大倭、葛木の鴨、出雲の大汝神等これなり.
 とある。
 ここにいう国造とは県主とともに、遠い上代の国の統治機構の一つである。 神武天皇のときに倭国造や葛城国造がおかれたのが国造の始めだというが、五世紀の頃には、全国で百三十ほどの国造がおかれ、今日の郡ほどの広さの地域をそれぞれ支配していた。 『出雲国造伝統略』によると、出雲国造については『旧事本紀』に収められた「国造本紀」に、第十代の崇神天皇の御代 「天穂日命十一世の孫宇賀都久怒を以て国造に定めたまう」 とあるのが最初だという。

 これら諸国におかれた国造のうち、その系譜が今日までずっとつづいているのは、出雲国造のほかには、紀伊国造阿蘇国造とだけしかない。 国造を命ぜられた氏族はそれぞれの土地で、もともと大きな勢威をふるっていた豪族なのである。
 国造は「クニノミヤツコ」とよまれるのが一般であるが、いつごろからか音よみして「コクゾウ」となり、出雲ではこれを清音でコクソウと昔から読みならわしてきている。 「古記」に天神地祇というのは神についての分類で、天神とは高天原から天降られた神ならびにその系統であり、地祇とはもとからこの国土に土着の神という意味である。 出雲の国造がまつる神とは、意宇川の川上なる熊野の神であり、大汝神
(オオナムチ)とはいうまでもなく出雲大社の祭神たる大国主神をさす。 そして「古事記」や「日本書紀」の神話伝承では、大国主神のためにその国譲りのあと、高壮な天日隅宮を追って、「汝が祭祀を主らん者は天穂日命これなり」 と、出雲国造の祖天穂日命に、タカミムスビノミコトが、出雲の大社の祭祀を命じたとしている。

 出雲国造は、大社の祭祀にずっと今日まで当っている。 神代からの伝承そのままに忠実に、天穂日命の子孫の出雲国造は、大社の大国主神につかえてきているのであるが、 『今集解』 の記載に反して、熊野の神については現在は火継(霊継)・讃火祭以外に直接的に参向することがない。 この解明のために、出雲国造というものについて、さらによく知るところがなければならない (現在は出雲大社教統千家達彦が宮司を兼務している)。

 出雲国造の本貫の地は意字郡である。 天平五年(733)二月三十日と勘造の日付をもつ 『出雲国風土記』 は、各郡ごとにその撰録の責任者の署名をもっているが、意宇郡の条には、
             郡司主帳   無    位                          海  臣
                      無    位                          出雲臣
             少   領   外従七位上勲十二等                    出雲臣
             主   政   外少初位上勲十二等                    林  臣
             擬主政     無    位                          出雲臣
  また『風土記』の巻末には監修責任者として、
             国造帯意宇郡大領 外正六位上勲十二等              出雲臣広嶋

と国造広嶋の名が見える。

 意宇郡は、出雲の国の先進地帯として文化も進み、国衙もここに置かれ、神名樋山として姿も美しい茶臼山の東南、松江市大草町の六所神社の一帯が、国庁あとの地と推定されている。 出雲国造はこの地の豪族であった。 文武天皇の二年三月には、筑前の国宗像と出雲の意字の郡司は、三等親以上の者でも郡司に連用することができるという特例が許されている。 当時にあってはきわめて例外的な措置であるが、出雲の国造はそれほど強力な勢力をもっていたということである。杵築大社拝殿

 「風土記」に大社とあるのは熊野と杵築のそれだけである。 しかし両大社を列挙するときには、熊野がつねに杵築の前に上位としてあり、逆になることはない。 王朝時代に朝廷から授けられた神階も、熊野が杵築よりもいつも一階だけ上であった。 これというのも熊野の大社は、もともと出雲国造が奉斎していた社であったからなのである。
 それでは出雲国造は意宇のどこに居を締めていたのか。  意宇川が熊野の山地から意宇の平野部に出てきた、その渓口にあたるところが大庭である。 ここに「大庭の大宮」とよばれる神魂神社がある。 ここの旧屋敷地に国造の別館があって、明治維新になるまで毎年の新嘗祭のときと、国造の代替わりの火継式のときには、出雲国造は杵築の地からここにきて潔斎をかさね、神事はこの別館の上手の丘の神魂神社で執り行われてきたのであった。(現在は出雲大社の拝殿で行う)

 この社は「風土記」の神社帳にもあるいはまた、『延喜式』の神名帳にも、まったく記載されていないことは不思議だが、それというのも、本来がこの社は国造の館の、いわば廷内社としてはじめられたものであり、陰暦の11月も末に行われる新嘗祭には、熊野の谷間は雪に埋もれて、往き来も困難であるところから、熊野の神の遙拝のための神祠という意味をもって、ここに創建されたものであろう。 かつては国造の別館があったというこの大庭の地をおいて、他に出雲国造本貫の地をもとめることは困難である。