吉備の国へ初詣に行きました。 詣でた神社は

吉備津神社、吉備津彦神社石上布津霊神社

 の三座です。 
  吉備津神社(きびつ)
祭神

 当社は正宮(正殿、本殿)・本宮・新宮・内宮・岩山社に分れ、その祭神は次の如くである。

〔正宮〕  主神     大吉備津彦命

       配祀 日子刺方別命 千々速比売命 御友別命 中津彦命 倭飛羽矢若屋比売命
           倭迹々日百襲比売命 若日子建吉備津彦命 日子サメ間命

〔本宮社〕 大倭根子日子賦斗邇命 百田弓矢姫命 吉備武彦命 犬養健命 留霊臣 命 楽々森彦命 外に配祀六神
〔新宮社〕 境内外の岡山市川人東山にあって吉備武彦命を祭神としたが、明治末年本宮社に合祀した。その社址のみが残つている。
〔内宮社〕  本社から約四百メートル離れた「吉備の中山」の山上にあつて百田弓矢姫命を祀ったが、明治の末年に本宮社に合祀した。
〔岩山神社〕 建日方別命を祀る。 正宮の背後にある。

以上を吉備津五社大明神という
◆岡山県岡山市吉備津九三一番地
社名吉備津神社 北随神門

 国史大系本には「吉備津彦神社名神大」とあり、吉田家本も同様である。 しかし王朝時代から明治維新まては吉備津宮とか吉備津大明神と呼ぶことが多かった。 明治以後は「吉備津神社」と公称され、今日に至っている。 氏子や信者の間では「吉備津さん」と愛称された。

由緒

 吉備津神社は大吉備津彦命を主神とし、その異母弟である若日子建吉備津日子命とその子の吉備武彦命ら一族の神々を祀つている神社である。

 日本書紀によれば、第十代崇神天皇のとき、即位十年、天皇は皇族の中から四人の将軍を選んで天下の四直に派遣して天下を鎮定せしめんとした。 北陸道には大彦命、東海道には武渟川別、西道には吉備津彦、丹波には丹波道主命を任命し、それぞれ将軍の印綬を授けた。
 ただし、古事記には崇神朝に四道将軍が派遣されたという記事は見あたらない。 

 大吉備津日子命は吉備上道臣の祖、次に若日子建吉備津日子命は吉備下道臣と笠臣の祖、次に日子サメ間命は針間の牛鹿臣の祖、次に日子刺肩別命は高志之利波臣・豊国之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖であると附記している。


 崇神神紀の「西道」というのは、のちの山陽道のことであるが、そのうち備前・備中・備後のあたりを通る道を「吉備道」、またこの沿道の地方を「吉備國」といったらしい。 また崇神天皇は四道将軍を派遣するに当つて、一方では出雲の神裔にかかる太田田根子命を挙げて出雲氏族の祖神を祀らしてその歓心を得ることにつとめ、丹波道主命を山陰道へ、山陽道には吉備津彦命らを派遣したというからこの四道路軍の派遣は、あたかも、南北から出雲を挟撃するような戦略をとったと想像される。 出雲大社を祖神とする出雲國造の勢力を制約しようとした計画であつたかも知れない。

 かくして、吉備津彦兄弟は吉備國に入り、この地方を平定したが、崇神紀六十年秋七月には、崇神天皇への神宝の奉献を拒もうとした出雲国造の祖出雲振根を武渟河別と協力して誅している。
 その後社伝によると 「吉備の中山」 の麓に 「茅葺宮」 を作ってこれに住み、吉備国の統治にあたったが、二百八十歳の長寿を保って、ついにこの茅葺宮に薨じ、御墓は 「吉備の中山」 の頂の茶臼山に葬られたという。

 若日子建吉備津彦命に一男二女がおり、姉妹ともに景行天皇の後宮に入り、姉は天皇の皇后に立ち櫛角別王・大碓命・小碓命を生んだ。 この小碓命は日本武尊である。 景行天皇即位四年、日本武尊の東征に従って大功があった。 

 当社の広い境内のあちこちには多数の攝社や末社が祀られ、七十二宇の末社があった。 そのうち正宮についで重要なものは攝社の本宮社・新宮社・内宮社・岩山神社の四社で、正宮と合せて吉備津五所
(五社とも)大明神と呼ばれ、氏子や信者が重大な祈祷をするときは神官と共にこの五社を巡拝するのが往古からの例であった。

 本宮社には吉備津彦命の父君である天倭根子日子賦斗邇命
(孝霊天皇)を、内宮社には吉備津彦命の后である百田弓矢姫命(岩田姫命)を、新宮社には吉備武彦命を祀るという。 しかし、明治の末年、新宮社と内宮社は本宮社に合祀されたので、吉備武彦命は本宮社に祀られることとなった。 岩山神社は建日方別命を祀る。 社伝では岩山宮は吉備国の「国魂」を祀ると伝え、神体は自然の巨巌であるという。

 吉備津宮の創立については確実な文献はない。 社伝に従うと、吉備津彦命の五代の孫、加夜臣奈留美命が 「吉備の中山」 の麓の 「茅葦宮」 という斎殿の跡に社屋を営み、はじめて祖神である吉備津彦命を祀り、相殿に八柱の神を祀ったのが吉備津宮の正宮(本殿)の起源であるという。 一説には、仁徳天皇が吉備海部直の娘黒媛を慕って難波から吉備國に行幸したとき、吉備津彦命の功を嘉して社殿を創建してこれを祀ったと伝えている。 

 後白河法皇の編になる『梁塵秘抄』に次の今様歌が見える。
        一品聖霊吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、 北や南の神客人、艮みさきは恐ろしや

 これによれば、院政の時代、吉備津宮の五社明神が都鄙の庶民の信仰をあつめていたようである。

 吉備津正宮の南北には二つの随神門がある。 ともに室町期の建立で国指定文化財にな南随神門よりの回廊っている。 北の随神門の両脇の厨子の中に吉備津彦命の随神である日藝麿と夜目麿の二神を祀る。 正宮の裏に南随神門がある。 これには中田古名命と犬飼健命の二神を祀る。 なお、正宮の内部の外陣の四隅には艮御崎・乾御崎・巽御崎・坤御崎の四小祠が祀られている。 備中國の諸郷には現在も村の鎮守として御崎神社
(御前大明神とか園崎神社)と称する神社が少なくない。 これらの御崎宮は古くは吉備津御崎宮と称し、吉備津宮の遥拝所または分社であった。 中でも艮御崎宮(丑寅御崎宮)は 『梁塵秘抄』 に 「艮みさきは恐ろしや」 とあるように平安朝の昔から霊異のいちじるしい神として畏敬せられた。

 十世紀のはじめ醍醐天皇の代に延喜式が制定されると、当社は名神大社に列せられ、承平・天慶の乱が起ると朝廷は幣を天下の十三の大社に献じて鎮定を祈らせた。 そして乱がおさまつた天慶三年(940)二月、その功によって当社はとくに一品に進められた。 こうして当社は以後、明治維新まで「一品吉備津宮」と呼ばれて世の崇敬をうけた。 

 平安時代、法華経守護の三十番神の信仰が起り、神宮寺も平安朝から境内に建てられた。 その後、中世から近世の初まで神佛混淆も著しくなり、本地堂・求聞持堂・一切経堂ができ、本地は 「虚空蔵菩薩」 とされた。 別当寺として本願寺・眞如院・青蓮寺・八徳寺・普賢院なども神社に奉仕するようになり、室町時代には境内に三重塔や如法塔も建立され、迎接會なども盛んに行なわれた。

神職

 文化文政の頃、社家の賀陽貞持の著はした 『吉備津宮略書記』 によると、
 当社には古代から応永の頃まで奉仕した神官の数は常に三百家に及んだ。 天正以降でも神主を初め 「みやっこ」 の家は七十余家、それに番匠
(大工)・陶師らを合せると八十余家に及んだ。 そのうち神主・大禰宜・祝部などの重職は賀陽氏であり、それについで神饌を司った御供座は藤井氏と堀家氏、神楽座を組織したものは藤井氏と河本氏とで、その外に無座と称する宮侍の家が十数家あったといわれる。

 〔賀陽氏の由緒〕 当社の神官として最も早く確実な文献に見えるのは賀陽氏である。 『扶桑略記』 寛平八年(896)の條に、備中賀夜郡葦守郷(足守郷)に備前少目賀陽良藤がいた。 その兄は賀夜郡の大領賀陽豊仲、弟は統領賀陽豊蔭であり、弟は吉備津彦神宮の禰宜賀陽豊恒、また嫡男は兵衛志賀陽忠貞であり、かれらはみな 「豪富の人也」 とある。 足守郷の西南に賀夜郡服部郷があり、そこに備中の国府があった。 この国府址に近く今、賀陽山門満寺(賀夜寺)があり古刹である。 これは賀陽氏の氏寺といわれ、賀陽氏は賀陽国造族の宗家で、足守郷を木貫としていたが、平安末期から、約八キロメートル南方の吉備津宮の近辺に移住し、当社の神官を世襲して近世に及んだ。
 『続佐丞抄』 によれば延久二年
(1070)吉備津宮の神主賀陽貞政朝臣が勝手に社倉を移却し、被疑者として京都に召喚された。 このとき氏人の正六位上賀陽朝臣致貞・正六位上賀陽朝臣清任・蔭子正六位上賀陽朝臣貞経らが連署して神祗宮に対し 「神主の在京の間、神主の代官に氏人賀陽致貞を補任して神事を執行したい」 と願い出て許可されている。 
 また、鎌倉初期臨済禅を宋より伝えた栄西禅師はこの 「賀陽貞政の曾孫也 と 『元亨釈書』 に見える。
吉備津神社 正宮
 吉備津宮の神宮となった賀陽氏は、鎌倉時代以降も神主家・大禰宜家・祝家・左行事家・右行事家・吉上家・上番家・中番家・下番家などいくつかに分れて神務を分掌した。 
しかし、賀陽氏に伝えた系図や記録によると、賀陽高冶を最後として天正二年(1574)嗣子なくして絶家となっている。 大禰宜家も同じ頃に絶家となり、その他の一族も多く衰滅して、祝師の賀陽氏と上番・中番・下番の旧家の賀陽家が江戸時代まで続いた。

 〔藤井氏等の由緒〕 藤井氏も王朝時代から当社に仕えた祠官であった。 六正官(賀陽氏)に次いで御饌司一人、大饌司兼本宮司一人が、ともに藤井氏を称した。 『元享釈書』 『拾遺往生伝』 によると吉備津宮の神官に藤井久任あり、寛治四年(1090)都宇郡撫河郷の柴津岡に薪を積んでその上に座し、念佛を唱へながら往生の素懐をとげた、火定の人として特筆している。
 近世の初頭のころ藤井氏を称する社家は三十余家に及んだ。 これらの藤井氏のうち御饌司と大饌司を世襲した藤井高安家と藤井末吉家は賀陽氏四家と共に社家頭として七十余家の社家達を統率して社務を司り社領の支配に当った。 たまたま貞享から享保にかけて事により六家の社家頭は追放され、代って藤井氏三家、堀家氏二家が新に社家頭
(社司とも神主)となり維新に及んだ。

 社家の堀家氏
(堀毛氏)も世襲の神官である。 留霊命の裔と称する。 この堀家氏も王朝以来の我家で一族数家に分れ、中世には吉上・横箭などの役を世襲したが、藤井氏と共に御供座に属した。 このうち堀家清政家と堀家末政家は前記の藤井氏三家とともに我家頭として維新にいたっている。

 社家の河本氏も十家ぐらいあり、藤井氏の中の九家と共に古くより神楽座を組織していた伶人であった。
 江戸時代社家の組織としては社司五家、御供座社家二十四家、神楽座社家二十家、無座
(宮侍)社家十家、神子家数家等、合計七十家の社家があった。
 国学者として著名な藤井高尚
(1763〜1841)は、明和元年に当社の代々の社司藤井但馬守高久の子として生れた。 のち伊勢の本居宣長に入門し、国学を広めることをもって己の任務とした。 平安朝文学を専攻し、『伊勢物語新釈』『古今集新釈』『松の落葉』『松屋文集』 など多数の著書を著した

 明治二年には神領地を新政府に奉還し、ついで明治四年には国幣中社に列せられ、宮司・禰宜・主典などおかれることとなり、従来の社家は失職を余儀なくせられ、他国に転出するもの、絶家となるものも多く、旧来の祭祀も習慣も一変するにいたった。 その後、大正五年官幣中社に昇格したが、昭和二十年敗戦となり二十一年より国家の保護をはなれ、やがて神社庁に属し、今日にいたっている。現在の宮司は藤井敬氏である。

(式内社調査報告より)

吉備津彦神社     石上布津霊神社

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