厳島神社(いつきしま)
◆広島県廿日市市宮島町一番地の一

祭神大鳥居

      市杵島姫命  田心姫命  湍津姫命 の三女神を祭る。

相殿左  國之常立神  天照皇大神  素戔嗚尊  八神殿
相殿中  火之加具土神  埴山姫  保食神  稚産霊神  倉稲魂神 
       豊石窓神  櫛石窓神  埴安神  金山彦神  奥津彦・奥津姫
       猿田彦命  彌都波能賣神  天村雲神  屋船句々廼馳神
       屋船豊宇氣姫神
相殿右  八十抂津日神 神直日神 大直日神 上綿津見神 中綿津見神
       底綿津見神 表筒男神 中筒男神 底筒男神


『広島県史』に、「厳島神社の主神は、市杵島姫命也。 他の二前の神は国史には伊都伎島中子天神、伊都伎島宗方小専神と見ゆ。 社格などに関する正式の場合には、祭神は市杵島姫一神の名のみを記せらる。」 とある。

由緒本殿、平舞台、高舞台

 推古天皇の即位元年(593)、当島の住人佐伯鞍職が神託によって、宮殿創立の事を奏聞し、勅許を得て御笠浜に創建し、同年十一月初申日、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の三神を新宮に鎮座し奉ったのが、そもそも神社のはじまりであると伝える。(『伊都岐島皇太神鎮座記』)
 以来、十一月初申日を御鎮座日として今日に至っている。

 嚴島神社が国史に初見するのは、『類聚國史』である。 延長五年(927)の延喜式神名帳には、伊都岐嶋神社として列し、天慶三年(940)二月一日、去る承平五年の海賊調伏の祈祷を命ぜられた十三社の一として、正四位下に昇叙された (『長寛勘文』)。 平家の信仰を受ける様になってからは、伊都岐島神社のみ昇叙を早め、安元二年(1176)十二月十八日、正一位に昇叙され、安藝國一宮となったようである。

 平清盛を頭とする平家一門は、所謂平家納経をはじめ、その財力を推して数々の貴重品を奉納し、鎌倉将軍頼経、頼嗣、惟康親王、久明親王等も太刀等を奉納している。 足利尊氏は建武三年(1336)五月、安藤國造果保を造営料所として寄進し、大内氏も大鳥居の再建や神事の再興に努め、毛利氏は嚴島を商業地として繁栄させるため、年四度の市立てを定めた。

 慶長五年(1600)、毛利氏に代って福島氏が藝備二州に封ぜられるや、掟を定め、祭禮の発展には努め回廊たが、毛利氏時代の社領を悉く没収し、新たに年間の祭料や扶持米を支給し、近世的秩序に従わせようとし、福島氏改易の後入府した浅野氏も、この方法を踏襲した。

 大内氏時代以降、祭禮の発展に伴い、年三季(冬市は早く廃れた様である)の市立てによって、東は近江、堺の商人から西は博多商人等が集まり、海外からの輸入品も取扱われており、更には富くじ興業が行なわれ、そこから得た利益で社殿修理の寄附や装束類の寄進が相ついで行なわれた。
 嚴島は内海有数の商業地となり、観光歓楽の地として栄え、特に諸芸能では、当代一流の役者が上演していたと、岡田清編『嚴島図会』(天保七年刊)に詳らかである。


 平安時代の終り頃、平清盛の熱烈なる信仰を受けて、直接佛教との交わりがはじまる。 治承四年(1180)三月、高倉上皇の初度の嚴島御幸によって更に深まり、勧賞の対象者の中に別当座主が加わって決定的となる。 座主とは、真言宗大聖院水精寺の住職を云い、神社のすべての祭事に参加した。
 西方院、圓城院、瀧本坊、龍灯院、東泉坊、修善院、華蔵院、愛染院、執行坊、檀福坊、宝光院、松之坊、長楽寺の十三寺が社僧を務めた。 また、亀居山放光院火願寺嚴島本願寺とも云い、世々宮廟修理のことを掌った。 この関係は、明治初年の神佛分離まで続いた。

特殊神事

 鎮座祭をはじめ、祈年祭、新嘗祭等の例祭のほか、当社に於てはつぎの特殊神事が行なわれる。

一、御神衣献上式 十二月二十六日の御裁式から御綿入式、御畳換式、御祓式を経て、一月一日午前零時に行なう。
一、御島巡式 五月十五、十六日、嚴島の周囲七浦末社を返拝する式。昔は「島巡の禊」と云う御鳥喰式がある。
一、管絃祭 旧暦六月五日市立祭、十一日御洲堀、十五日御船組、十六日御試乗式の前儀を重ねて十七日、十七夜の祭で御鳳輦をのせた御座船で管絃を奉奏する。
一、鎮火祭 十二月卅一日午後六時より行なう。
本殿
祭職

 古くは佐伯鞍職が中心であり、平安末から鎌倉初めにかけては佐伯景弘が神主であった。 鎌倉幕府は、嘉禎元年(1235)五月九日前周防守藤原親実を神主職に補任した。 以後藤原氏が世襲し、永正五年(1508)十二月、興親が京都に於て病歿した為断絶。
 その後、跡目争いが起り、大永三年(1523)友田興藤が神主を自称したが、大内義興がこれを認めず、翌年十月十日興藤が甥藤太郎を神主とすることで和議成立し、神主家は大内氏の支配下に於て、その存立が許された。

 しかし、藤太郎が程なく病歿したため、興藤の弟四郎を廣就と改名させて就任させた。 天文十年(1641)正月、興藤等が叛したので、大内義隆は同年四月五日、興藤、廣就を攻め滅し、神主家を全く哨滅させた。 そこで義隆は、嚴島神社管理の組織を改め、棚守職佐伯房顕を社家奉行として、社家・供僧・内侍の三方を支配させた。 爾来その子孫が継承し、明治四年棚守、呪師、上卿などを廃止するまで続いた。
 現在(1980)の宮司は、野坂元良が専職であり、世襲ではない。


嚴島とサクラ   中山神社

    話題  登山  今立町




(式内社調査報告)