伊曽乃神社(いその)

◆愛媛県西条市中野甲1649番地
神 紋  御所車
境内の鳥居

社名

 イソノジンジャと称する初見は、「新抄格勅符抄」(756)に伊曽乃神、「長寛勘文」(940)に伊曽野神とあり、延喜式の九條家本に伊曽神とある。 そのほか「愛媛面影」「伊曽乃大社」にも伊曽神と見える。
 古くは伊曽神とよび、磯神・磯大神宮といい、伊曽大明神社とも伊曽乃宮とも磯野大明神とも称した。
 大倉粂馬氏によれば、「イソ」は「イサ」の転訛、「イサ」は神聖という意味を持つ、つまり伊曽乃は神野であったという。神野に鎮座される神だから伊曽乃神社というのだろうと説明している。



祭神
拝殿前の大楠
 当社の主祭神はもと伊曽乃神であって、神名は祭神固有の御名でなくて、伊曽乃(神野)に坐します神という意味を持っていた。この神に加えて主祭神として天照大神の荒魂を奉斎し、さらに伊予御村別の始祖武國凝別命を祀って、主祭神は都合三座であった。現在では伊曽乃神を天照大神の荒魂と武國凝別命を合わせ祀った神の総称としている。



由 緒


 景行天皇の皇子武國凝別命が、伊予の御村に封ぜられて御村別の祖となったが、当社の創祀はこの頃から始まっていたらしい。 天平神護二年(766)四月、わが国に於ける神位奉授のはじめとして、越智郡の大山積神とともに、従四位下に叙せられた。 おそらく淳仁・称徳両王朝の新羅出師のための御祈願によるものだろう。
 天慶三年(740)二月には、海賊平定の御祈願御報賽のためか正二位に昇叙され、越智郡 大山積神と同位となった。 「伊曽乃神社志」には、英治元年(1141)七月に、正一位を授けられたと思われると記している。
別当寺 保國寺
 当社の神領は、鎌倉期に神宮寺であった保國寺領を含んで封戸田・金剛般若田・佛供田・請僧田等およそ六町六反を数えていたが、室町期に入って神田を私人に売却するなどのことがあって、神領は減少しはじめた。
 文和三年(1354)足利尊氏は天下静謐を指示した御教書を出している。 足利義満は、管領細川頼之に命じ、三島新宮宮山の材木を伐採して、当社の社殿及び保國寺の堂を修理させた。 天文元年(1532)西条高外木城主石川伊予守は報賽のため神田を寄進する。

 天正十三年(1585)七月、伊予平定軍小早川勢の進攻にあい、当社社殿、保國寺ともに焼亡。 難をさけ当社の御神体を一時土佐国寺川村に奉遷したが、慶長十一年(1606)仮社殿を楠木に建て迎え奉祀した。 文禄四年(1595)水災のため仮殿流失、社地を神宮寺金光院の旧跡に選定し、慶長十一年この地に奉遷した。
御祭神

伊曽乃神  天照大神の荒魂  武國凝別命(タケクニコリワケ)

祭祀
伊曽乃神社拝殿
 当社の例祭は、江戸時代毎年九月朔日、当社を出た神輿が神拝村にある御旅所に渡御、翌二日から十五日還御まで滞在されるを例とした。 その後御旅所を大町村の常心原に移し、九月九日を祭の初日とし、十五日還御と改めた。
 江戸時代、藩主は神輿を陣屋前の仮屋に迎えてこれを拝例するのが恒例であった。 例祭の日遠近の商人達が集まって、御旅所の周辺で市を開いた。 伊曽乃市という。 以前は東町などで例祭日に馬市が開かれたという。 その後も遍歴をかさね、現在は十月十五・十六日に例祭日を改めた。


例大祭(西条まつり)
 毎年、十月十五・十六日の両日にわたり神輿渡御があり、豪華絢爛を誇る。 だんじり・みこし約八十台が奉納される。 特に十六日の、日の出から日の入りに至るまで全屋台の供奉する長い渡御行列図は、江戸時代から連綿と今に伝わる壮観な時代絵巻である。
  (伊曽乃神社しおり〜より)




境内社
御先神社(猿田彦神)・山王神社(大山咋神)・妙見神社(八千鉾神)・厳島神社(多紀理毘賣命外二柱)・天満神社(菅原道真公外四柱)・三頭神社(経津主神)・福原神社(経津主神外二柱)・天皇神社(素盞嗚尊)・鎮守神社(村上兵衛外三柱)

外に西条市大町常心に飛地境内神社の西条神社(東照大権現・歴代西条藩主十柱)がある。
−式内社調査報告より−


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