日御碕神社
(ひのみさき)

◆島根県大社町日御碕

御祭神

日沈宮(ひしずみのみや)(下の宮)  天照大御神
神の宮(かむのみや)  (上の宮)  神素戔嗚尊
社名日御碕神社 神門
 ミサキノカミノヤシロ。 九條家本・武田家本とも 「御碕神社」 と記し、吉田家本には 「御奇神社」 と記してミサキと傍訓している。 風土記、出雲郡の在神砥官社に 「美佐伎社」 があり、不在神砥官社に「御前社・同御埼社」および 「百枝槐社(モモイダミタマ)」 がある。

 中世文書には多く 「御崎社」 と記されているが、やがて日御崎明神・日御崎大明神・日御碕太神宮、あるいは下社・上社・日沈宮・神ノ宮といつた記載も見られるようになる。 中世末と思われる 「日御碕両本社社司遠祖事」 に 「一日沈宮一座、一神宮一座」 とあり、承応二年
(1653)の『懐橘談』には 「上の三社、下の五社」 の語が見える。
 また応永二七年
(1420)の耕雲明魏筆 「修造勧進状」 には 「雲州日御崎霊神」 と記すが、「雲州日御碕社記」 の記すところによれば、「村上帝の御崇敬深く、依鳳勅初遷干陸地、是今太敷立場也。 対神宮之三女神合祭五男神於日沈宮、此時除出雲加日字号日御崎矣」 とあつて、以来 「日御碕太神宮」 と称するようになったと伝えている。
 明治に至り、社格の制定に件ひ、同四年 「国幣小社日御碕神社」 と称するに至つた


由緒
 社伝によれば、日沈宮すなはち下宮は、小野検校家の遠阻天葺根命が天照大神の御神託を受け、大神の御魂を文島(経島)に祀り、のち文島の百枝松を神木として奉齋し、開化天皇の御代に至つて勅を奉じて神殿を創立したもので、風土記にいう 「百枝槐社」 がこれである。

 また神ノ宮すなはち上宮は、素盞嗚尊が神功を畢えたまい、熊成峯に登つて柏葉を執り、吾が神魂はこの柏葉の止る所に住まんと宣りて放ちたまへば、すなはち御崎の隠ケ丘に留る。 よって天葺根命が社壇を設けてこれを奉斎し、安寧天皇の御代に勅を奉じて社殿を建立し、いまの地に遷し祀った。 これが風土記にいう 「美佐伎社」 である。 その後、村上天皇の天暦年中
(947〜57)文島の神祠を現在地に遷し、「出雲」 を除き 「日」 の字を加え、もって 「日御碕」 と称した。 以来この神ノ宮・日沈宮を総称して日御碕太神宮と称するに至った、となっている。
日沈宮(下の宮)
 社殿の造営は創建以来二十数回に及ぶが、いずれも勅命または将軍の命によるものであった。 応永二十七年
(1420)には南朝の遺臣花山院長親(耕雲明魏)が、これに時の将軍足利義持・管領細川満元・当国守護京極持高らが奉加の署判を、また大永四年(1524)の勧進簿には將軍足利義稙・佐々木伊豫守尼子経久が署判し、亀井能登守禿綱の奉行をもつて雲州・伯州・石州・隠州の各国に対して棟別銭を下令している。 その後、大永末享禄初年のものと思しき勧進簿には將軍足利義晴が署判し、「日御崎付御造営任先例公方様御下知御判在」 と記録している。

 現在の社殿は元和年間
(1615〜24)検校家の支族古庄氏の出である社僧順式慶雄が社頭の荒廃を憂い、これが修覆方を江戸慕府に懇請し、寛永十四年(1637)松江藩主京極若狭守忠高が奉行としてこれに着手したが、図らずも同家が断絶したため、代って入部した松平出羽守直政がこれを継ぎ、かくて寛永二十一年(1644)に完成したもので、その後幾度か修理されているが、軸立はこのときのまま今日に至つている。

 この寛永造営の営時には、いわゆる両部習合の盛時たりしこととて、域内にはいま見る社殿のほかに薬師堂・多宝塔・護摩堂・大師堂・三重塔・鐘楼・神宮寺等も建立されていた。 そのうち神宮寺は寛政十年
(1798)の火災の折、神社より東一〇町ばかりのところに移転再建され、また他のものは明治の神佛分離令によりほとんど解体された。

 社領寄進は永延二年
(988)の雑賀入道善康による神楽国二町の寄進に始まり、中世末には四、○○○石に達していた。 しかし尼子毛利の争乱に際会して輿奪常ならざる状態となり、近世に入り、堀尾氏の入部に伴って改めて七八○石の寄進を受け、その後、京極氏・松平氏の各代にわたって徐々に増加しつつ明治元年には一、二八五石余となっていた。
 なおこの社は他の緒小社とは異なり、白川伯家を本所とし、松江藩に対しては直触の関係にあり、いわゆる一社、一令社として終始した。
明治四年国幣小社に列せられた。

白井宗因の『神社啓蒙』に
上社、社記曰、八束水神、名神記日、八握髯尊者素戔烏別称也。
 (中略) 相殿三座、田心姫・湍津姫・嚴島姫。 (中略) 下社、社記曰、大日霊貴、名神記曰、当国大日霊貴産生之地、而今又有日神垂跡也。 故名日御崎。 相殿五座、所謂正哉吾勝尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命、次熊野樟日命」
 とあり、両部時代には「十羅刹女社」ともいわれていた。 現行明細帳では次のごとくなっている。

神ノ宮、 神素盞嗚尊、 相殿 田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命
日沈宮、天照大日霊尊、相殿 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野豫樟日命
                摂社 林神社、天葺根命
(冬衣命) (『雲陽誌』に早足神社とある)


杵築大社   熊野大社   佐太大社   能義大社
出雲の国   美保神社   加賀神社   神魂神社  日御碕神社

  神社  話題  登山  今立町


神職神の宮(上の宮)
 小野家。 家譜によれば素盞嗚尊五世の孫天葺根命(天冬衣命)に始まり、以来代々相承けこの社に仕奉ること今日まで九十七世、その継職にあたっては從5位下に叙せられ、時に三位に叙せられることもあり、明治六年、第九十五世尊審光は男爵を賜わり從二位に陞叙された。

祭祀
 古来太陰暦七月六日・七日を大祭とし、太陽暦施行以後も新暦の七月当日を例祭としてきたが、季節が相違し、梅雨とも重なり、神幸式に支障をきたすことがしばしばなので、昭和三十年、神社本庁の承認を得て、もとの季節にほぼ相応する八月六日・七日を例祭とすることに改めた。

その他特殊神事として、一月三日神寄
(およせ)神事、一月七日御饗(みあえ)神事、一月十一日釿始(ちゃうのはじめ)神事、一月十四日御饗神事、一月十五日悪神追(おかお)神事、旧一月五日和布刈(めかり)神事、七月五日御田植神事、爪剥(つまむぎ)神事、七月七日神幸神事、七月三一日百手神事、八月一日還幸神事、旧十月十一日神迎神事、旧十月十七日神等去出(からさで)神事、十二月三十一日神劔奉天神事などがある。

−式内社調査報告より−
太陽崇拝
 出雲大社の神坐は西面である。 南面は建築上の形式にすぎず、本体は西面している。 神社は昔経島からの慣習を残したが、建物だけは普通の社殿にしたため、入り口も中央にせず、神坐のある右寄りにした、いわゆる「大社造」である。 西向きの理由について、千家尊統は、祭神と海の関係を考え、西方の海の彼方にある 「霊魂の故郷としての常世の国に相対せられているのだといってよいのではあるまいか」 とみている。  「日隅宮(ひすみのみや)」 といわれる出雲大社の神座が西面しているのは、西の海に沈む夕日に関わるからであろう。 だから 「日沈宮(ひのしずみのみや)」 といわれる日御碕神社が無視できない。

 もとの社地と伝えられるのは海岸にある経島である。 この島にアマテラスが降臨したと伝える。 この島は出雲大社からの夏至日没方位にあたり、出雲大社の建造より前から聖地であって、出雲大社の位置は経島からの冬至日の出方位、稲佐の浜からの春分・秋分日の出方位の位置として、選ばれたのではないだろうか。

 現在の日御碕神社の社殿も、出雲大社と経島を結ぶ夏至日没線上にあることからしても、偶然に現在地が決められたのではないことがわかる。
 さらに経島の西の海上に艫島
(ともしま)があり、その関係は、艫島から見て経島に朝日が昇ると夏至であり、経島から見て、艫島に夕日が落ちる頃は冬至である。 

 出雲が黄泉の国や日隅宮の地とされるのは、日の沈む地だからである。 さらに、日御碕や経島は夏至日没方位の聖地になる。 そして、このミサキから見る遙か海上の夕日の落ちる場所、そこも日隅の地である。 艫島はそういう位置にある。
−天照大神と前方後円墳の謎より−