由豆佐賣神社 (ゆずさめ)




◆山形県鶴岡市大字湯田川字岩清水八六番
祭神

溝織姫大神

神社明細帳によれば、中座に「溝織姫命」、左座に「大己貴命」、右座に「少彦名命」の三座を祀つている。
「溝織姫」の名にあるミゾは水の流れであり、水利を司ることによりこの地にあつて、温泉と密接な関係があるという。

社名

 九條家本、武田本とも、「ユツサヒメ」と訓をつけている。 現在は、「ユツサメ」と呼んでいる。
由緒

 三代実録の仁和元年(886)十一月二十一日條に、
「去六月廿一日出羽国秋田城中、及飽海郡神宮寺西浜雨石鏃陰陽寮言、当有凶狄陰謀兵乱之事、神祗官言、彼国飽海郡大物忌神、月山神、田川郡由豆佐乃賣神倶成此怪、崇在不敬、勅令国宰、恭祀諸神兼愼警固」とあり。由豆佐賣神社鳥居

 飽海郡の大物忌神月山神とともにみえ、出羽の俘囚の乱と関係があって祀られていることがわかる。 その後由豆佐賣神の名は、延喜式神名帳以外、正史等にはあらわれていない。
 近世に成立した、進藤重記の『出羽国風土略記』によれば、中世に入って、僧徒が改称して「龍蔵権現」と為し、土地の人々は、由豆佐とは湯出澤の義と考へ、訛って、 「湯蔵」と呼んでいたという。

 この神社の別当は、真言宗豊山派大日山長福寺で、寺伝によれば、大同二年(807)の縁起で、大和国長谷寺の直末であるという。 室町・戦国時代には、武藤氏、最上義光らも神地を寄進し、慶長年間に、最上義光は、長福寺に百五十石の所領を与えている。
 最上氏滅亡後入部した庄内藩主酒井氏も崇敬篤く、安永年間には、社殿を造営し、社領五十余石が寄進されている。
 明治九年十月には、田川郡湯村龍蔵権現が、三代実録や延喜式神名帳にある由豆佐賣神であるとして、式内郷社に列せられ、同四十年四月十一日に、神饌幣帛料供進神社に指定されている。


 現在の社殿は、神仏分離以前は、別当寺長福寺の観音堂であった(天保三年古図)。 今の長福寺から、由豆佐賣神社にわたる広い境内には、与喜天満宮、諏訪神社大日山長福寺などが勧請されており、層塔もあったという。 この伽藍配置は、長谷寺のそれと酷似している。

 長福寺門前には、七つの宿坊があり、今の温泉街には、同寺の敷地がひろがっていた。 さらに、西方、田川八幡神社に至る坂道が大日坂と称されていたこと等、長福寺が、この地方有数の寺院であったことがわかる。
 同寺には、宋風様式を示した南北朝時代の絹本著色長福寺三千佛(県指定有形文化財)が伝存しており、縦一八五センチ、横一五三・三センチの堂々たる三千仏画は、この地域の文化の高さを物語る。

湯田川の乳イチョウ
由豆佐賣神社拝殿
 境内には、山形県指定天然記念物の湯田川の乳イチョウと呼ばれる、イチョウの巨樹がある。
 山形県内有数のイチョウの巨樹で、崖際にあるために、正確な根まわりや目通りの幹まわりの測定はできないが、高地面での周囲七・三メートルである。
 高さは約三七メートルであって、大枝からは大小数本の乳柱が垂れ下がるので、乳イチョウの名がある。 しかし、雄株であって実はならない。

 昭和二十七年四月一日、山形県の天然記念物に指定された。
−式内社調査報告−
  − 案内板 −  

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