多賀大社

◆滋賀県犬上郡多賀町多賀604


 多賀大社は、以前、淡路島の伊弉諾神宮に参詣したとき、「古事記」に ”伊耶那岐の大神は淡路の多賀にまします” という下りについて、

”日本書紀に是以構幽宮於淡路之洲とある。 真福寺本には淡海(琵琶湖)の多賀とする。 伊勢系本は淡路説。”

と記しましたが、では淡海(琵琶湖)の多賀とはどういう神社なのか、ということでさっそく参詣することになりました。 もっと早く行きたかったのですが、そこはいろいろと有りまして延び延びになっていた次第です。

 8月1日、暑い真っ盛りに高速に乗って、滋賀県犬上郡に鎮まります多賀大社に向かいました。 北陸高速道路の彦根インターを降り、国道306号線に乗り南へ9qほど行ったところで、無料駐車場もあります。 多賀大社は往古より多賀参りといって、伊勢参りと同じように全国より多賀信仰の信者が集まっていたようです。

お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる
お伊勢七たび 熊野へ三度 お多賀様へは月詣り

と、 古くから謡われていますが、「古事記」によると、伊弉諾尊「多賀大社」から天照大神「伊勢多賀大社鳥居神宮」は生まれたのですから、このように謡われているのです。 このように多賀信仰の盛んになった理由の一つは 「長寿の神」 といわれているからです。

 駐車場より歩いて5分、正面鳥居の前にくると、鳥居から境内に向かって提灯がめいっぱいつり下げられていました。 これは、8月3、4、5日に行われる 「万灯祭」 の準備に入っていたためでした。 祭りの雰囲気の中、鳥居をくぐると太鼓橋(寛永15年)があります。 この石橋は祭りの時、神輿がここを渡るそうです。 よって、両脇の橋を渡り境内に入ると、広い境内ですがそこにも縦横に提灯がつり下げられ、係の人が準備に追われていました。 雰囲気はいいのですが、提灯のせいで写真はなかなかよく撮れませんでした。 境内の中には能舞殿まであり、年中行事の中で能狂言なども奉納されるようです。 その他、多数の境内社が見られました。

 社殿はなかなか立派な物で、桧皮葺きの屋根がなかなかの風格を感じさせます。 昭和41年(1966)より、御本殿以下御屋根葺替、御造営、改築などの大工事を竣功して現在にいたっているそうです。 社頭は回廊になっていて、その奥に本殿がありますが、遠すぎてよく見えませんでした。 でも、大社に関する資料は少々入手することができましたので、以下に記します。


 「延喜式」によれば、近江国犬上郡には五社があり、その中に”多何ノ神二座”とあります。 その二柱とは「伊邪那岐命」「伊邪那美命」であります。 この二柱によって「国生み」の大業がおこなわれ、日本国の生々発展の源となったので縁結びの神、生命の親神という信仰が生まれました。

祭神     伊邪那岐命   伊耶那美命

神紋    虫くい折れ柏紋

主要な祭礼行事

1月「歳旦祭」 2月「節分祭」「紀元祭」 3月「祈年祭」「初午養蚕祈願祭」 6月「御田植祭」「夏越の大祓」 8月「万灯祭」 9月「秋季古例祭」 11月「新嘗祭」 他。

多賀大社の沿革

 神代に鎮座、またの名を「日の少宮」という。 天平十年(738)多賀大社造営、本地堂、護摩堂、如法堂、八角経蔵、三重塔、御宝蔵、楼門を再建。 天平神護二年(766)田鹿神、日向神合祀。 大同三年(808)山田神合祀。 延長四年(926)多何神社二座、これよりさき伊邪那美大神が配祀されたが、その年代不詳。 明応三年(1494)不動院開基。 寛永十一年(1634)徳川将軍より社殿造営にかかる。 明和三年(1766)屋根葺替などの大修繕完了す。 大修繕を急ぐため特に許可を得て、大阪に於いて「富くじ」を興行している。 明治元年(1868)神仏分離を仰せ出され、別当職不動院復飾、境内すべての神宮寺は払拭せられる。 大正三年(1914)官弊大社に昇格仰出さる。 大正五年(1930)御本殿改築。 昭和四十一〜七年(1966〜72)御本殿以下御屋根葺替及参集殿新築造営を行う。  

寿命石多賀大社拝殿

 長寿祈願で最も著名な伝えは、俊乗坊重源上人の話であります。 平重衡が奈良の東大寺を焼き討ちにしたので、その復興のため、後白河法皇の院宣を蒙って、大勧進の大役を務めることになりました。 上人は齢六十歳を過ぎていて、到底大業の成就は覚束ないと当社に十七か日参籠して寿命を祈ったところ、満願の暁に、

 神殿より一葉風に吹かれて上人の前に来る。 取って見給うに”莚”という文字虫食いにありけり。 莚という文字は二十廷と書く。 さては我六旬(60歳)に及ぶといえども、自今以後二十年の寿命をあたえ給うよと、歓喜の思いをなし 

 ついに建久六年(1195)三月、大仏殿造立の大事をなしとげ、重ねて報恩謝徳の参詣をした、と 『多賀大社儀軌』 は記しています。 いま、ご社頭に「寿命石」とよばれるものがありますが、これは上人が(”きゆう”背に負う荷物)をおろされたところと伝え、東大寺には今も上人の木像を安置したお堂があり、年々供養されているそうです。

お多賀杓子

 多賀大社には「お多賀杓子」縁起があります。 『多賀神社史』は 「元正天皇の養老年中(717〜723)、天皇不与にましまし、供御を聞食されなかつたにより、本社に御祈願あり、祠官等斎火を以て強飯を炊き、神山のシデの木(ケヤキの一種)を以て杓子を作り之に副えて奉ったところ、頓に御悩の平癒を見たという」 と記しています。 杓子を作った木の枝を地にさしたところ根が生じたのが「飯盛木(いもろぎ)で、男飯盛木と女飯盛木があります。

 杓について説明すると。 水をすくうのは柄杓、味噌汁は杓子、御飯を盛るのは杓文字と使い分けているけれども、もとはみなまったく同じ道具でした。 「柄杓」の語は瓢箪の異称「(ひさご)」が訛ったものです。 古来瓢箪は神霊の容器と考えられ、杓子はくりぬかれた中央のくぼみに神霊が宿るとして、神聖視されたと民族学では説明しています。 近世の伊勢の「お陰参り」で、巡礼者が曲物柄杓を腰に差した背景にはこうした信仰があるようです。

 杓文字はお椀やお盆などと同じく、木地師と呼ばれる山々を渡り歩く、山民によって作られました。 彼らは生産物を里に定住する農耕民の穀物などと交換していました。 このため杓文字は山という異界からもたらされる呪具として里人から神聖視されたと説明されています。 この木地師の根元地・発祥の地として知られたところが鈴鹿山脈の山中にあります。 お多賀杓子は、この木地師による関連が大きいと思われるのです。

 元正天皇の頃、御飯といえば強飯であったらしく、一般に今風の煮飯が主流になるのは、釉薬がかかった陶鍋や、陶釜が普及する平安中期以降だといいます。 それ以前は精白技術が十分ではなかったので、ポロポロの強飯を食べていたらしい。 とすれば、現在のヘラの杓文字では御飯をうまくすくえなかったと思える。 明治期までのお多賀杓子は、お玉の部分がくぼんでいて柄はオタマジャクシの尻尾のように曲がっていたようで、その珍しさから盛んに文学にとり上げられた。

−「多賀信仰」より−


関連ある社

胡宮神社(このみや)

胡宮神社 多賀駅から約2q南の緩やかな丘に、静かにたたずむのが胡宮神社です。 祭神は伊邪那岐・伊邪那美・事勝国勝長狭の三神で敏達天皇の勅願によりつくられたといわれ、また、多賀二座の一つとも伝えられています。 古くは、背後の青竜山の巨石「磐座」崇拝を起源とし、鎌倉時代には天台宗敏満寺の鎮護の神として栄えました。 多賀胡宮とも称せられ、多賀大社の別宮として篤い信仰を集め、授子・授産の神、鎮火の神として崇敬され、僧侶や歌人をはじめ多くの人々が祈願に訪れています。

 多賀神社に於いては、中世の頃より胡宮を末社と称し、寛政年中(1789〜1800)に入り、胡宮側よりこれを否定して奥宮と主張したため紛争を生ずるに至ったことさえあります。 奥宮伝説がおきた事由として、両社における祭り行事の関係があるのです。

 多賀大社祭礼に先立ち、御使殿と称し7日間宮籠り、さらに毎日胡宮へ社参。 そして、胡宮祭礼の後、胡宮の神輿は敏満寺丘陵を下って神輿多賀社へ渡卸、明けて午の日(22日)が多賀社の年中一度の大祭を行うを例としています。 かように例祭に先立つ神幸が繰り返されてきたのを見ても、相互の間にただならぬ関係を思わせています。


胡宮の磐座(いわくら)−胡宮神社の石版より−

一、青龍山の頂上に大きな岩がある。 大昔からこの岩を磐座とよび深く信仰して龍宮を祭り、長寿、豊作、雨乞い、の祈願をした。 これを原始信仰と云い、麓から遙拝するため社殿を造ったのが胡宮である。 磐座は胡宮の奥宮であり、多賀大社の奥の院と呼んだ時代もある。

一、頂上付近の神聖な場所を境界(いわき)と呼び一般の人は立ち入らせなかった。 「お池」で身を清め、供物を洗い、祭典の広場で春秋の祭りの式典を行った旧跡もある。

一、胡宮磐座は社殿信仰以前の原始信仰の姿を見せてくれる神体山である。 滋賀県内でも数少ない山岳信仰の聖域である。


不動院と敏満寺

 多賀大社の本地堂・神護寺の僧が、社内の法会の勤行・護摩供などの修法に当たっていましたが、明応3年(1494)多賀豊後守高備が、坊舎を建てて不動院となり、多賀大社の別当寺となりました。

 不動院の下に、観音院・般若院・成就院の三寺がありました。 般若院・成就院は、敏満寺の筆頭の塔頭でありましたが、多賀大社の年中の法会の勤行・護摩供などの修法は、両院が取り仕切り、社役を勤める時は、大社内の別坊へ出張してきました。

 元亀元年(1570)敏満寺は、織田の兵火に罹り焼失したので、大社内に移転し不動院の配下になりました。


大滝神社

 多賀駅より胡宮神社を過ぎて約四q、犬上川の清流に面して大滝神社が鎮座しています。 ここは俗称「滝の宮」として知られるとおり、犬上川がここで約十bの落差をもって流れ落ち、滝の周囲は奇岩、怪石に目を奪われるほどの景勝の地となっています。大瀧神社

 神社の創立は明らかでないが、古来、多賀大社の末社、あるいは奥宮として考えられている。 祭神は高ヲヲ神闇ヲヲ神の二神で、「湿雨を司り水脈を主宰し、農作物の生茂繁植の道を補助し給う神」 といわれます。 (ヲヲ=の下にと書く)

  御祭神 高?神(たかおおかみ) 闇?神(くらおおかみ) 分水神(みずをわけるかみ)
  例祭日 5月5日
  御本殿 一間社流造 檜皮葺

 御祭神は京都鞍馬の貴船神社にも祀られる水神で、旧大滝村の総鎮守として、また、犬上川流域の水利を司る神として広く崇敬されている。 創祀年代は確定できないが、「淡海落穂草」に「大同2年坂上田村磨将軍の御領にて建立」とある。
 現在の本殿は、 寛永15年
(1638)三代将軍徳川家光公の指示により修復され、昭和48年(1972)滋賀県の文化財に指定されています。
大滝神社本殿
  県指定有形文化財   一間社流造、檜皮葺、(江戸時代)

  一間社造の本殿形式は、全国的に分布し、三間社流造に次いで遺構が多い。 現在の本殿は、棟木および高欄擬宝珠に寛永15年
(1638)の銘があり、また、「慈性日記」の同年の記録からも胡宮神社本殿、千代神社本殿(彦根市)などと共に多賀大社の末社として再建されたことが裏付けられる。犬咬明神と大蛇ヶ淵
 一間社としては規模の大きな本殿で、象頭形の木鼻、鳥や花を彫刻した蟇股
(かえるまた)、欄間などに江戸初期の様式手法をよく伝えている。
旧跡 大蛇ヶ淵
 大滝神社境内の、御神木辺より見降ろすあたりの岩瀬は「大蛇ヶ淵」と呼ばれる。 上流に、犬上ダムが建設されるまでは、「大瀧」の名に恥じない堂々たる瀑布であった。
 瀧淵には神代の昔、大蛇が棲んでいたと云われる。 近辺の住民に仇なす祟り神であった。 大蛇は、犬上建部君稲依別命と忠犬小石丸によってこの淵に鎮められる。

 ここより対岸に小さな祠が見えるが、この祠が犬上神社の元社稲依別命が小石丸の首を鎮めたと云われるところで、眼下の大蛇ヶ淵と、時に大奔流と化す川面を見守り、鎮めているかのようである。
犬胴松の由緒
 その昔、犬上・式部二族と云われます稲依別王命は、日頃より猟を好まれ猟犬小石丸を引き連れ山間を徘徊されていた処、偶々この渓谷の淵に往来の人々に危害を加える大蛇がいる事を聞き及び、退治せんものと愛犬を伴い渓谷を探し続けた。
 七日七夜を過ぎ、仮眠中の危急を知った小石丸が吠えたてる事頻りなれば、命は怒り、腰の剣で一刀のもとに愛犬の首をはねると、首は岩影より命に襲い掛からんとする大蛇の喉にしっかり咬みつき、大蛇は遂に淵に落ち悶死せり。  命は大いに驚き、この愛犬忠死に深く感銘し祠を建て之を祀り給う。 これ犬咬明神である。

 斯くして命を救った忠犬の霊を犬胴塚に葬り、其処に松を植えられたのが犬胴松である。 今は枯れ果てその面影を残すのみであったが、お堂を建立してその霊をお祀りするものである。
−大瀧神社表札より−

  神社  話題  登山  今立町