日本の鬼の交流博物館

 ◆京都府加佐郡大江町字仏性寺


大江山峠うどん

 6月、丹後半島をドライブ中、「大江山鬼の交流博物館」の看板を見て、これはちょっとのぞいてみる必要があると、進路変更となりました。 天の橋立の方から大江山に向かい、山越えです。 途中、大江山峠に茶店ならぬうどん屋がぽつんと一軒だけありました。 藁葺きの小さい平屋の家で、土間に囲炉裏ときて、お婆さんが一人でやっているみたいです。 これが野原の一軒家ですと、「安達ヶ原の...」(失礼ではあります)となるのですが、私はこういう店が大好きなので、即、入りました。 まあうどんは普通ですが、この雰囲気で食べると結構おいしいです。

 峠をすぎ、山を下っていくと交流博物館への脇道があり、下の画像のような異様な建物が出現します。 ここは、大江山の連峰に囲まれたといったような地にあります。
 
 この博物館の内容は、「鬼とは何者かをさぐる
(世界中の)」「大江山の三つの鬼伝説紹介」「日本における鬼瓦の推移を見る」「ちびっ子おに」となっておりますが、予想したよりかなり中身は濃いです。 鬼に対し興味のある方には、おすすめです。
 特に鬼瓦の展示がなかなかすごいものがありました。 一応、大江山の酒呑童子に関してだけ紹介します。

 
     大江山の鬼伝説(その一)

   陸耳御笠(くがみみのみかさ)
   −日子坐王伝説−

 大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが「丹後風土記残缺」に記された陸耳御笠の伝説である。 青葉山中にすむ
陸耳御笠が、日子坐王の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものである。
 「丹後風土記残缺」とは、8世紀に、国の命令で丹後国が提出」した地誌書ともいうぺき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
 この陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遺わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。
 土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、土蜘蛛というのは、大和国家の側が、征服した人々を異族視してつけた賎称である。
鬼の交流博物館
 一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐
(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲こ伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。
 「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。 この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。

     大江山の鬼伝説(その二)

   
英胡(えいこ)軽足(かるあし)土熊(つちぐま)
   −麻呂子親王伝説−

 用明天皇の時代というから六世紀の末ごろのこと、河守荘三上ケ嶽
(三上山)英胡・軽足・土熊に率いられた悪鬼があつまり、人々を苦しめたので、勅命をうけた麻呂子親王が、神仏の加護をうけ悪鬼を討ち、世は平穏にもどったというものである。 麻呂子親王伝説の関連地は70ヵ所に及ぷといわれている。
 麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる。 文献によっては、金丸親王、神守親王、竹野守親王などとも表記されているが、麻呂子親王伝説を書きとめた文献として、最古のものと考えられる「清園寺古縁起」には、麻呂子親王は、十七才のとき二丹の大王の嗣子となったとある。

 この伝説について、麻呂子親王は、「以和為貴」とした聖徳太子の分身として武にまつわる活動をうけもち、仏教信仰とかかわり、三上ケ嶽の鬼退治伝説という古代の異賊征服伝説に登場したものであろうといわれているが、実は疫病や飢餓の原困となった「怨霊=三上ケ嶽の鬼神の崇り」を鎮圧した仏の投影でもあり、仏教と日本固有の信仰とが、農耕を通じて麻呂子親王伝説を育て上げたものであるともいわれる。 この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似点も多く、混同も多い。 酒呑童子伝説成立に、かなりの影響を与えていることがうかがえる。

      大江山の鬼伝説(その三)

   酒呑童子(しゅてんどうじ)
   −源頼光の鬼退治−

 平安京の繁栄−それはひとにぎりの摂関貴族たちの繁栄であり、その影に非常に多くの人々の暗黒の生活があった。 そのくらしに耐え、生きぬき抵抗した人々の象徴が鬼=酒呑童子であった。 酒呑童子物語の成立は、南北朝時代
(14世紀)ごろまでに、一つの定型化されたものがあったと考えられており、のち、これをもとにして、いろいろな物語がつくられてきた。

 酒呑童子という名が出る最古のものは、「大江山酒天童子絵巻」
(逸翁美術館蔵)であるが、この内容をみると、まず「酒天童子」であり、童子は明らかに「鬼神」である。 また大江山は「鬼かくしの里」であり、「鬼王の城」がある。 あるいは、「唐人たちが捕らえられている風景」、「鬼たちが田楽おどりを披露する」など興昧深い内容がある。 そして頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に迫い出され大江山にやってきた。」とある。 また「仁明天皇の嘉祥2年(849)から大江山にすみつき、王威も民力も神仏の加護もうすれる時代の来るのを持っていた」とあるから、神仙思想の影響もうかがえる。

 つまりは、酒呑童子は、山の神の化身とも考えられるわけだが、酒呑童子は仏教によって、もとすんでいた山を追われる。 それは山の神が仏教に制圧されていく過程であり、酒呑童子を迎えてくれる山は、仏教化されていない山−もっと古い時代から鬼のすんだ山−土着の神々が支配する山である大江山しかなかったのである。
 酒呑童子は、中世に入り、能の発達と共に謡曲「大江山」の主人公として、あるいは「御伽草子」の出現により、広く民衆の心の中に入り込んでいった。
 
 酒呑童子は頼光に欺し殺される。 頼光たちは、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い、酒呑童子一党を殺したのだ。 このとき酒呑童子は
「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。
 酒呑童子は都の人々にとっては悪者であり、仏教や陰陽道などの信仰にとっても敵であり、妖怪であったが、退治される側の酒呑童子にとってみれば、自分たちが昔からすんでいた土地を奪った武将や陰陽師たち、その中心にいる帝こそが極悪人であった。 酒呑童子の最後の叫ぴは、土着の神や人々の、更には自然そのものが征服されていくことへの哀しい叫ぴ声であったのかもしれない。

   
酒呑童子の出生伝説

 「御伽草子」は、酒呑童子の出生地を越後としているが、
越後国(新潟県)には、酒呑童子出生にまつわる伝説が、かなり残っている。 中でも弥彦山系の国上山にある国上寺(分水町)には、「大江山酒呑童子」絵巻に、酒呑童子の生い立ちがくわしく記されている。

 それは、垣武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へ来た。
 従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊綱が、妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈顕したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれた。 幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられる。 外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕された。
 そうしたうちに、外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙がたちこめ煙にまかれて気を失う−しばらくして気のついたとき、外道丸の姿は見るも無惨な鬼にかわっていた−外道丸は戸隠山の方へ姿をけしたのち、丹波の大江山に移りすんだというものである。

 もう一つの酒呑童子出生についての異説は、近江国
(滋賀県)伊吹山、井口とする説であり、奈良絵本(酒典童子)に描かれている。

 嵯峨天皇
(809−823)のとき比叡山延暦寺に、酒呑童子という不思議な術を心得た稚児がいた。 人々が怪しんで素性をしらぺたことろ、井口の住人須川殿という長者の娘王姫の子であり、伊吹山の山の神=伊吹大明神の申し子であっつたというもので、3才のころから酒を飲んだので酒呑童子と名づけ、十才のとき比叡山の伝教大師のもとへ稚児として弟子入りする。
 帝が新しい内裏に移ったお祝いの祭日の日、「鬼踊り」をしようということで三千人の僧の鬼の面をつくり、とくに精魂こめて作った自分用の面をつけ京の都へくり出し、大変な人気であった。
 山に戻って、大宴会ののち、酔いがさめ鬼面をとろうとしたが、肉にくいついてとれない。 伝教大師は、酒呑童子を山から追い出し国にもどすが、肉親からも見すてられ、山々を転々とし、ついに大江山にいたったというものである。

「いま蘇る鬼」鬼交流博物館 常設展示館資料より抜粋

日本の鬼の交流博物館     京都府加佐郡大江町字仏性寺909番地
〒620-0321  Tel &Fax 0773-56-1996


  酒呑童子異聞

 「福井の意外史」
(読売新聞)では、この鬼退治は越前の出来事ではなかったかという。
 「正史国司考」によれば、この頃、頼光の父、源満仲越前国司(福井県武生市)として一族と共に入国していた。 当時大江山ならぬ丹生ヶ岳
(この事件より 鬼ヶ岳となる)に鬼が棲み、付近を荒らし回っていたので、国司の威信にかけても討伐しなければならなかった。 そこで満仲は六人の子供に命じて、鯖江白鬼女の津(現 白鬼女橋)に出没したところを討ったという。(白鬼女というように女の鬼である)

 鬼ヶ岳も大江山もどちらも鬼の岩屋と呼ぶ洞窟があり、討ち手が六人と似たところが多い。 鬼ヶ岳にまつわる伝説で、大江山の話を越前に付会したものかも分からない。

 源頼光のあと、弟の頼親
(二弟)と頼信(三弟)の二人が、跡目相続争いをし、頼親は負けて杣山城(福井県南条町)に入り、頼信が家系を継ぐことになるが、鯖江、武生にはこの一族たちの伝説が多い。

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