熊野古道を目指して
熊野那智大社から熊野本宮大社へ

一次遠征の記

 熊野古道については、以前よりテレビや雑誌などで知っていました。 しかし、もう一つつっこんだ見方はしていなかったので、そのままになっていました。 このたびようやく検討に入り調べていると、これがなかなか歴史的にも興味がわきまして、行こうと云うことになったのですが、もう十一月、気温も低い。 一応連休を予定し、テント持参で那智勝浦から熊野本宮まで天候が晴れならば一泊二日でと計画を立てました。

 結論をもうしますと、天候が悪く
(二日とも曇り時々雨)来年の春に延期にしました。 でも、一応下調べということで和歌山県の那智勝浦まで行って来ました。
...遠いですね。 高速道路が伊勢までしか無く、車で八時間はかかります。 これは多少問題有りです。
 今回は、夜九時前に出発、伊勢の手前に十二時着、一泊して翌朝八時頃出発。 那智勝浦には十二時前に到着。 といったところで往復に1日必要なので、一泊二日のコースだと三日は必要と云うことになります。

 今回は下調べということで、熊野三山について情報を集め
(観光)、関連神社などに参詣してまいりました。 以下にまとめましたので興味のある方は閲覧ください。
二次遠征の記

 3月、連休があったので、早速計画の再実行と行って来ました。 しかし、なぜかその日だけ朝から雨。 それでも午前7時より決行したのですが、小口まで那智勝浦駅からではちょっと無理があるようです。 那智高原まで歩いたのですが、3時間かかりました。 雨の中テント持参で観光も兼ねてではこんなものです。 大門坂と那智高原への石段を計1時間は、雨で滑るししんどかったです。 

 結局、那智高原にて昼食とし、今回も中止。 高原の喫茶店にて情報収集としました。 それによれば、小口までのコースはこの那智高原まで車で来てここから出発というのが一般的だそうです。 ここからだと6〜7時間で小口まで行けます。 また次回に持ち越しとなりました。
 まあ、とりあえず浜の宮王子より那智高原まで歩いたということでよしとして、次回は仲間を連れてこようかと考えております。
 熊野那智大社に参詣してきました。
最終遠征の記
 五月の連休田植えも終わり、三度目の正直で再々挑戦としました。 今回は会社の山岳部の連中を三人を、「三本足の八咫鳥」にたとえ、今回は間違いないだろうと出発しました。 しかし、夜中那智に着くまでずっと雨、又かと心配しましたが、朝には上がっていました。
 今回は、車で那智高原まで向かい、ここより出発しました。 じつは、最近右膝に違和感を感じており、テントを担いでの走破ができるか心配していましたが、無事歩ききることができました。
 その後、八咫鳥の連中を熊野三山
(本宮、那智、速玉、神倉)へ案内して、帰宅となりました。 前日夕方発の二泊三日の旅でした。
 くわしくは、大雲取越・小雲取越

熊野信仰
 熊野信仰は中世の上皇、女院の時代を経て武士、庶民へと広がりを見せた。 熊野大神の前に額ずけば、その慈悲により俗世に傷ついた我が身も往生決定して生まれ変わり、幸せ多い人生が約束されると信じた。 「道の辺に飢え死ぬるもの数知れず。」といった中世の地獄を見た人々の心を激しく揺り動かし、熊野へと聖域めざし参詣心をかき立てたのである。
 京より往復およそ1ヶ月、雲を分け昇り、露を凌いて熊野三千六百峰の山々をよじ登り、谷を下り、僻遠の地熊野本宮を目指して参詣した。

 熊野は古くから、日本古来の神道に、仏教が習合しさらに熊野修検道が加わり、当時の末法思想とも合わさって、一つの浄土思想を形作っていった。
この道は難行苦行の旅であるからこそ、一切の罪行が消滅するという信仰になり得たのである。

 藤原定家は「山川千里をすぎて遂に宝前に額ずく、感涙禁じがたし...」と記している。

 日本古来から神社の聖域はけがれを忌み嫌うものとされた。 死もまた穢れであり、死に触れることもタブーとされた。 唯、熊野信仰のみは、浄、不浄をきらわず死者も白衣をまとって熊野に詣るとまでいわれた。
熊野三山

 「熊野本宮大社」 「熊野速玉大社」 「熊野那智大社」を合わせて熊野三山と呼ぶ。

 ”蟻の熊野詣” 聖地を目指す人々の行列をこうたとえた熊野三山詣。 ”熊野三千六百峰”といわれ、峻険な山々連なる辺境の地。 そこは古来より原始神道の神々が祀られていた。
 仏教が伝来すると、ここを修行の地としたことから、その修行僧たちによって熊野の神々の存在が都に伝えられた。 さらに朝廷により”正一位
(本宮大社、速玉大社)という最高位を授かるのだが、当初は速玉神の方がランクは上であった。 この格差はともに正一位となる天慶三年(940)までつづいた。

 創建した年代や御祭神はほとんど同一だが、熊野本宮大社は家津美御子大神
(素戔嗚尊)、熊野速玉大社は熊野速玉大神(伊邪那岐命)結大神、熊野那智大社は熊野夫須美大神(伊邪那美命)を御主神として奉祀している。

 三山として成立を見たのは平安中期頃と思われ、この頃に、仏が神となり人々を救うという神仏習合の本地垂迹思想
(ほんじすいじゃく)が広まる。 熊野の神々もこれにより、祭神と本地仏を祀る熊野三山が形成されたようである。
 熊野三山は、万民を受け入れ、伊勢のように僧職を忌避することもなく、高野のように女人を拒むこともしない。

 全国には三千を数える熊野神社があり、その総本山が熊野本宮大社なのであるが、紀伊半島の中程にあるこの聖地に向かうには、京・大坂から西回りで行く紀伊路、伊勢から東回りで行く伊勢路がある。 三重を通る伊勢路が開けたのは以外に早く、平安時代後期の歌謡集「梁塵秘抄」にその名が見える。

伊勢に七度、熊野に三度、愛宕さまには月参り  「東海道中膝栗毛」

 庶民に人気ある寺社詣として伊勢神宮につづいて熊野が上がっている。 平安時代、熊野へ盛んに詣でたのは都の皇族・貴族たちであった。 鎌倉・室町時代になると、武士層の参詣が盛んに行われている。 江戸時代になると、伊勢参宮の後に熊野三山へ、さらには西国三十三ヵ所観音巡りへと、足を延ばしていくことになる。

 この熊野のような辺境の地に人々を呼び寄せるため、御師先達熊野比丘尼と呼ばれる人々が活躍した。 伊勢詣りをブームとした伊勢の御師は、この熊野に習ったというのが定説である。
「熊野古道を歩く」より
熊野の森
 紀州熊野。 黄泉の国といわれ、死者が棲むといわれた異界の地。  熊野には真の闇があるという。  しかし現代の熊野に、中世の人びとが怖れ憧れた闇の世界が残されているわけではない。  戦後、林野庁の主導による緑化運動でスギの植林が奨励され、熊野もいたるところで伐採が行なわれて、スギやヒノキの森に変貌してしまったからである。
 鬱蒼と繁るスギやヒノキの森の直線的な暗さは、真の熊野の闇ではない。 人びとの心を捉えて離さなかったほんとうの熊野の闇は、ナラやカシやトチ、ブナ、クスノキ、梛木などの、広葉樹林と照葉樹林の混交の森にあったのだ。

 熊野詣を縄文文化への復帰願望のあらわれだと評したのは、哲学者の梅原猛だった。 熊野にはアイヌや琉球と同じく、縄文の系譜が色濃く残されているからである。 弥生文化は、平地を切り開き、稲作を主とする農耕によって定住文化を築き上げ、狩猟採集を基軸とする縄文文化を辺境の地に追いやった。
 熊野には近世にいたるまで、漁労採集の生活が遺されてきた事実がある。 南北にかけ離れた蝦夷琉球ならいざ知らず、本州の中央に位置し、弥生文化の中枢を担ったはずの近畿地方の一角に、なぜ縄文の息吹が遺されたのか。 それは熊野が、京や大阪からでさえ遠く離れた辺境の風土だったからなのだ。

 農耕を中心とする弥生文化にとって、太陽の恵みは欠かせない存在だったがゆえに、彼らは天照大神を絶対神として祀り、忌み嫌われた縄文の象徴である火の神カグツチと、その母イザナミノミコトは、熊野に逃れて「花の窟」に祀られるのである。

 熊野には、古代の葬送の儀礼である風葬や水葬の習俗が遅くまで遺されたという。 川が死者の骨を洗い、カラスが風葬にされた死者たちの清掃者であった。 熊野本宮の象徴として八咫鴉が祀られたのは、ゆえなきことではない。

 那智大社のご神体は、那智ノ滝そのものである。 その一角の青岸渡寺には、西方浄土に漕ぎ出す補陀洛渡海の思想と故事があった。 新宮の速玉大社のご神木は梛木で、ナギには海が凪ぐという意味がある。 速玉神は船の神なのである。 そして新宮の上流、熊野川と音無川と岩田川の合する中州に立つ本宮大社は、川の神と考えられてきた。 川の神はすなわち、山の幸をもたらす豊穣の神である。
 その一方で神仏習合の結果、那智大社は過去を救済する観音菩薩、速玉大社は現在を救う薬師如来、そして本宮大社は未来を約束する阿弥陀如来を、それぞれの本地仏として祀った。
個別に発生したとされる三つの大社は、過去と現在と未来を巡る浄土信仰と、熊野の自然に宿る神々によって渾然と融合し、広大な精神世界を醸し出してきたのである。

「古道巡礼」高桑信一

大雲取越・小雲取越  熊野本宮大社 熊野那智大社  熊野速玉大社  摂社神倉神社


参詣した神社  瀧原宮  頭之宮四方神社


  神社  話題  登山  今立町