能登国一ノ宮    気多大社(けた)

◆石川県羽咋市一の宮町
御祭神
       大己貴命(大国主命)    事代主命(若宮社)  菊理姫命(白山社)
縁起
 天正五年十月十五日  気多社神事由来記

        
 「天正五年吉江喜四郎へ上ル写□  同文」 
  (貼紙)
  「気多神社神事由来記写 一ヶ年中七箇度勅使之事」

 仰当宮の御事、すさのおのみことの御子国つくり大あなもちのみこと之かうし奉り、天地かひひやくの御神なり、御子百八十一神まします、其ちやく神しなののくにすわ大明神ことしろぬしのみこと、天地おひわかつよりこのかた、むりやう百千万おくさいあそうきかうじやうらうふめつの御神、正一位くん一とう気多ふしきちまん大ほさつと申奉り、せんてうにをよひては八千ほこのみことと申九万八千のぐん神の惣つかさの御神なり、すひしやくしやうぐん地蔵にまします、いこくたいちの御時かんまんりやうくわのめいしゆ、かひていになけ、しんら・はくさいのけうぞくをことごとくほろほし、天下たいへい、こくどあんおんにあひつつき候処、てんしやうより二度のちよくしありといへとも、ついに御返事なきゆえ、てんそんぐぶ三十二神をひきくし、ひうかの国くしふるみねへ御かうなされ候に付て、とかくじ気多大社大鳥居するにをよはす、此くにを天照皇大神宮へゆつり奉り御申候て気多の御神、北陸道のちんしゆと定め、当社御ちんさ有事候、
 くわしく日本しよき神代のまきにこれ有、おくの宮両宮すさのをのみこといなたひめ御ほんしや、わきたち白山めうり権現かみの御母いさなみのみこととわかみや  なり、しかれは仁王十代しゆじん天王の御宇はしめてちよくしをあひたてられ、地よくちやうくわんふの御社にて候、其すちめをもつて、京都よりはえん路について、中古よりちよくし当国めわりへくたし申され、年中に七度さんたいこれあり、

 
気多神社の史料

 気多神社は能登国一宮で、はやくより朝家を始め武将・領家・地方民の信仰が篤かった神社である。 従って往古よりおおくの史料が存したわけだが、長い年月の間には火災その他の厄に遭う失われたものがすこぶる多い。 なかでも、明治維新は一大変革であって、特に神社の変革が著しく、社家・社僧の退転した者がおびただしい数にのぼり、従って記録文書の類の散逸したものが極めて多い。

 言うまでもなく維新前においては、気多神社は社家・社僧、その他氏子並びに多数の崇敬者によって信仰が保たれ、そこに発生した多数の記録文書が存在し、重要文書は本殿や奥の宮などに秘密に保管せられる事はあっても、多くはその実務担当者によって保管されたわけだが、その実情は明らかでない。なかんずく、維新の変革に際して社家・社僧等の離散したとき、記録文書の処置帰属は不明であるが、おそらくたまたま神社に残ったものの外は、実務に当たっていたものが所蔵したであろう。従って神社文書は、伝来の事情を無視しては理解する事が困難である。社家や旧社家それぞれに個別的な伝来の事情を配慮して、理解を試みるのが妥当であろう。
特殊神事

 平国祭
 「上古、大己貴大神国土を経営し給いし時、此の国に邪神妖賊屯聚して庶民を悩害せるを誅除して一国平定し給える古式を伝うる祭典なり、故に平国祭と云う。 又俗に御出祭と称す。御出は御神幸の略語なり。」と説明している。
 古くは二月神幸と称した。 近世中頃の記録より平国祭の称が見え、クニムケと訓み、行幸(ヲイデ)・御幸(ヲイデマス)とも記している。 明治以降はもっぱら平国祭と称し、一般にはオイデマツリとよばれている。

祭日

 現在は三月十七日の発輦祭に始まり、翌十八日に神幸、同二十三日の還幸まですべて七日間にわたる。 この期間は時代によって異なり一定しなかった。 近世中期の記録によれば、二月末日に神輿が中門に出て一泊(古くは鹿島郡金丸泊まり)、翌申の日に七尾所口へ神幸して同地に二泊、戌の日に還御した。 明治四十一年の記録では、三月二十日本社発輦、同二十三日本社還幸となっている。 尚明治十七年には十年ごとの所口神幸と改められたことがある。気多大社境内

行事

 三月十七日午後五時に発輦祭をなす。 神職は明日よりの神幸供奉の装束姿で奉仕する。 修祓後、開扉・献饌・祝詞奏上・玉串拝礼・撤饌後に神輿を釣殿に移す。

 神幸初日の十八日は、早朝、拝殿前において神馬をミクジによって選定する。 神馬の毛色によって天候などの占いをなす民間信仰がある。 神馬の背にはお榊の幣束がのせられる。 午前七時、神門前において修祓後出発。 六日間の御旅に着く。
 先頭は神馬。 つぎ連絡員・神職
(乗馬)・広矛・長柄鎌・社名旗・唐積・四神旗・錦旗・太鼓・神職(乗馬)・神輿・くらかけ台・宮司(乗馬)・献備箱・長持・宰領の順で総勢五十人に達する行列である。 馬は近年は五頭。 神輿かきやお道具持ちは地元の寺家町をはじめ羽咋市内の特志者が白丁姿で奉仕する。
 寺家・一ノ宮・滝谷より北上して羽咋郡志賀町に入り、高浜町の小浜神社で小休して昼食。 それより高浜から南下して午後八時近く一ノ宮の滝屋神社にいたり、神輿は駐泊する。 この間、沿道の部落では産土の神社に神輿を招待して祭典をあげ、神恩を謝して部落の平和と繁栄を祈る。 個人の家での招待もある。 これは六日間を通じて各地で見られるところである。

 神幸二日目の十九日は、早朝に滝屋神社を出発、羽咋・富永・邑知地区の諸部落を巡幸して寺家町の大穴持像石神社に駐泊する。 この日の昼食の小休は羽咋町の崇敬者の招待先にてなす。

 神幸三日目の二十日は、早朝に出発して羽咋・粟ノ保地区より羽咋郡志雄町に入り、敷浪から七尾街道の諸部落を巡幸。 それより再び羽咋市の邑知・余喜地区に入り鹿島郡鹿西町金丸の宿那彦神像石神社に至って駐泊する。 この日は羽咋市中川町ではキナコ餅、酒井町では桃ダンゴを献供する慣例がある。

 神幸四日目の二十一日は、早朝に気多大社拝殿宿那彦神像石神社を出発。 このとき同社の少彦名命が神輿に同座する。 神代の昔、気多の大己貴命とともに能登国の平定開発に神功を立てた神縁によるものといわれる。 金丸出・下曽祢より鹿島郡鹿島町の諸部落を巡幸、小金森の木賀神社では弓射の儀をなし、小田中の白久志山御祖神社では福田区より福俵を献上する古儀がある。 気多の大神が暴威をたくましうした大蛇を退治した神恩に報ずるためだと伝えられている。 この日の昼食小休は鹿島町二宮の公民館にてなす。 それより北進して七尾市域には入り、夕刻に所口の能登生国玉比古神社即ち気多本宮に到る。

 帰社した神輿は四月三日の例大祭まで拝殿に安置され、平国祭がそれまで連続していると伝える。

 例大祭には境内で蛇の目の的を神職が弓で射、槍で突き、太刀で刺す行事があり、祭神が邑知潟にすむ毒蛇を退治した状況を模したものだと説かれているが、古記録によれば、流鏑馬神事が歩射となったものであることが知られる。 昭和六十三年からはその流鏑馬神事が四百五十年ぶりに復活され、古式に従って毎年執り行われている。
  平国祭は気多大社鎮祭の由来を伝える重儀で、祭祀の性質としては祈年祭に属する。まことに大規模な渡御祭として全国的にも注目される。


  ”寒さも気多のおいでまで”といわれ、折しも春の彼岸である。 能登路に展開する平国祭は、春耕の到来をつげる生活暦ともなっているのである。


  神社  話題  登山  今立町



気多本宮     関連神社
(羽咋郡誌より)
境内地

 現在の境内地は 11,867坪40(神社明細帳)。 往古はすこぶる広大で、東は宇大寺庭を限りとし(柳田村境)、西は字アカマ池を限りとし(瀧村地の境)、南は神明森を限りとし(羽咋村地の境)、北は不思議谷を限り(柴垣村地の境)として数十万歩に達したと伝へ、その後は多少の減少を見たが、なお220,400坪を占めたという。 近世に入るや、元和六年(1620)に2丁四方すなはち17,865坪を境内とし、その余は御林山と定められた。 文化四年(1807)、御林山の中、12,700坪を本社境外に於て花松山として附せられた。

 現在、本殿の背後に続く社叢約10,000坪は、地形は緩い丘陵をなし、”入らずの森” と呼ばれ、一般の立入りを堅く禁じてきた聖域で、スダジイ・タブ・ツバキ・ヒサカキ・ヤブニッケー等の繁茂する原生林として知られ、昭和四十二年には国指定の天然記念物となった。 ここに奥宮が鎮座するのである。
 なお、社叢内に三基の円墳がある。 一基は本殿の後方七間の地、そこより約四間を距てて一基、さらに十八間を距てて小円墳がある。
−式内社調査報告より−
擾末社

 境内摂社として最も重んじられたのが社叢内にある奥宮である。 周囲に巨石を積んだ石垣をめぐらした霊域に二社鎮座する。 素戔嗚尊及び奇稻田姫命を祀り、一般の参拝は許されない。 切妻造り妻入りの小祠で、もとは二十一年毎の造替の制があった。 明治前は、三月四日の神事及び十一月の鵜祭に、石動山の衆徒が入峰と称して奥宮参詣の例だった。 現在は十二月三十一日の夜、宮司以下松明の先導にて奥宮に至り、積塵を清掃する。 大床払いと称し、これをもって年一度の例祭としている。

 摂社の白山神社は、本殿に向かつて右手、玉垣内に鎮座して菊理姫命を祀る。 三間社流造りで正面に一間の向拝を付け、建物周囲に切目縁をめぐらす。 屋根は檜皮葺、本殿と同じく天明七年の建立。 昭和五十七年、国指定重要文化財となる。

 摂社の若宮神社は、本殿に向かつて左手、玉垣内に鎮座して事代主命を祀る。 往昔は本社より末の方、約二丁ばかり距つた若宮屋敷に鎮座したという。 一間社流造りで、旧記には 「永禄十二年再興、元亀上葺、願主畠山修理大夫源義綱」 とある。 建物の小屋束に 「永禄十二年已巳三月再建」 の墨書があり、様式手法と一致するという。 明治三十九年に国宝、昭和二十五年に重要文化財に指定せられた。 

 境内末社 太玉神社太玉命を祀る。 もと神幸殿または講堂とよばれ、慶長十六年に前田利光が改造したが、明治に入つてから朽損のため建替して現社名に改めた。

 楊田神社は社殿なく、鳥居一基を建てるのみであるが、火の神と仰がれた。 旧明細帳には祭神未詳とし、明治三十五年の由緒調査には荒御魂神とあり、現明細帳は迦具土命とする。

 菅原神社菅原道真を祀る。 奥津島神社奥津島姫命を石祠に祀る。古くは辨財天とよばれた。 

 また、寺家町にある境外の末社には印鑰神社
(倉稻魂神)及び大多毘神社(社殿はなくタブの老樹の繁みに迦具土命を祀る)がある。

 なほ明治になってから内務省から由緒上の摂社と定められたものに大穴持像石神社
(羽咋市寺家町旧県社 式内社 古來、境内摂社の白山・若宮社と同一に運営維持された。) 宿那彦神像石神社(鹿島郡鹿西町金丸、旧郷社、式内社)その他六社がある。