気多本宮   能登生国玉比古神社

御祭神
      
大国主神(大己貴命) 素戔嗚尊 奇稲田姫命

 宝暦十年(1760)能登国大小神社帳に 「気多本宮能登生国玉彦神社」 とあり、文政十二年(1829)社号書上帳に 「気多本宮能登生国玉比古神社、祭神大已貴命・素戔嗚尊・奇稲田姫命」 とある。 昭和二十七年神社明細帳には
     「祭神・大已貴命、配祀・素戔嗚尊奇稲田姫神事代主神底筒男神中筒男神上筒男神建御名方神」 とある。


社名
 吉田家本は 「ノトナリクニタマ」 と訓み、九條家本・武田本は能登に傍訓を附けず 「ナリクニタマ・ナリクニタマノ」 と訓む。『神祇志料』には 「ノトノイククニタマヒコノ」 と傍訓があり、『神社藪録』には 「生国玉は伊久久爾多麻と訓べし」 とある。 現在は「ノトイククニタマヒコ神社」と呼ばれている。

由緒
 当社は比定される神社に次の三社がある。

     能登生国玉比古神社  現在の鎮座地は七尾市所口町ハ部四十八番地。
     能登生国玉比古神社   現在の鎮座地は鹿島郡鹿西町金丸セ部三五番地。
     能登部神社         現在の鎮座地は鹿島郡鹿西町能登部上ロ部七〇番地。

 当社については近世以来異説があり、『石川県鹿島郡誌』 は旧藩時代の鎮座地異説として上記三社の名を挙げるに止めているが、『特選神名牒』 は次の如くに論じている。

   今按一説本郡所口村気多本宮を生国玉比古神社と云へれど、こは羽咋郡気多神社の本宮にて気多社記にもその由記せるを、承応の頃石動山の神官詐術を以て能登部上村の社号とせんと計りしに、上村の邑民服せざるを以てその事ならず。
 後、気多本宮の神官と姻を結び終に本宮を式社と云始めしなれど、本宮の所蔵建武已来の古文書により考えるに、何れも気多本宮又所口気多大明神とあれば生国玉比古神とは別神なり、故今取難けれど異説あるを以て姑く決し難し


 こうした論説をふまえてが 『鹿島郡祭神御事歴調査書』 の大入杵命・能登比古神の 「考證」 の項に、次の如くに論述されている。

 大入杵命は人皇十代崇神帝の皇子なり、伝へて云ふ上古草昧の代、妹命と共に此の国に下り大に殖産興業の途を開き給う (中略) 薨じ給ふや御遺骸をタ日直刺処親王塚に葬り給い、御神霊を上村に鎮め給うと能登之臣の祖神にして郷土開拓神なり (中略) 能登臣の祖神能登部の氏神として尊崇措かざりき、乃ち此の宮を兄宮、沼名木入姫命の神祠を妹宮、村名を能登部兄村妹村と云いて以て神の御名を負ひ称へ拳れり。
 その社名を
能登生国玉比古神社と尊称し能登比盗_社と並びて、能登国の本郷の神たりしに略しては能登比古神とも称したるにや、何時しかその元の名の忘られてここに能登生国玉比古神社の社号争ひの事など起り始め、さては大入杵命の御名の考證より (中略) 余木、與木、撰木は入杵なり或は此の命の (中略) 「此の地ヨキ地かも」 との御言によせてか (中略) 余喜比古神乃ち大入杵命なりとの考さへ出づるに至れるにや (中略) 気多本宮にてもその社伝に大入杵命を祭神とせるよし神璽箱に表記並びに棟札の存するありという。

 金丸にては祭神多気倉長命は大己貴命当国鎮定の時、協力討伐に従い玉ひし国魂之神なりといひ (中略) 更に能登生国比古の社号は、これを能登比古神社に用いんとし神官清水氏・権威を以て金丸村に存在の奉額を取揚るも、上村の邑民承證せず遂に気多本宮へ養子縁組の際、本宮社へ持ち行き神社の二字を削りて生国玉とし奉掲せしめしものなりというと。 此額面取揚の古伝、果して如何にぞや、 (中略) 本宮社にて現に奉掲しある生国玉の額面にして然りとせば (中略) その字体に準じて二字を付せんか甚だしき員幅を要するものを気多倉の社にして此の大きなる額面にてありしや否や、又承応の頃本宮へ養子云々。 (中略)
  承応の加越能式内等旧社記によれば
能登生国玉比古神社式内一座金丸保能登比古神社朝日庄能登部上村気多本宮社所口村明神野とありて当時既に金丸村存在説ありしこと徴證とするに足らん。 然も同書に能登比古神社古来兄宮上宮、式外之旧社也といひ、能登比盗_社の項に旧称云比古比痘シ神鎮座故往昔称邑名兄村妹村也とあること、ここにかへって疑義なきか、則ち能登生国玉比古・能登比と連称すると能登部兄村・能登部妹村と連称すると (中略) 両村両社連称して郡の古名を称唯せしなるを知るに足らんか。 金丸村の国魂神の御子金鋺翁の古伝説も味ふべき文なりとしかれども、金丸の村名より能登の郡村名を造り引いて能登国魂神と引證するはあまりに迂遠の如くにや (中略) ここに附記して後考に待つこととせり。

 上記の所論は長文のために抄録したが誠に傾聴すべぎ論考といえよう。 ただここに附言するとすれば、いづれの社を式内社に比定するかは能登の国魂神の性格を何に把握するか。 即ち大已貴命を以て国魂神とする示例にその例證を求めるか。 或は国土経営の租神奉祀の社にその例證を求めるかによつて、おのずから考定に導かれるであろう。


縁起
能登生国玉比古神社中門 能登国能登郡(現鹿島郡)気多本宮は延喜式神名帳に所謂、能登生国玉比古神社と伝承すものなり。

 上世の昔、大己貴命、出雲国より因幡国気多崎(因幡の白ウサギの地)に至り、八上比唐フ許に通せ給い、夫より鹿・亀の二霊に駕して、当国当所に渡らせ給う、今の府中の浦是なり。
 この時老翁夫婦出向きて、菓餅二品を柏葉に盛りて饗す。 一品は野老、一品は焼付餅。 曰く、我此の地に住せる事無窮。 汝命、永く此の地に留座して国土人民を保護し賜えと、応諾了て去りぬ。 伝え曰く、此の老翁夫婦は素戔嗚尊・稲田姫の二神也と云々。

 その頃、此の国に大鷲棲みて人民を害し禽獣を傷う。 大己貴命速に鳳鳥に駕して是を降伏し給う。 依ってこれ萬類其の恩頼を蒙る。 霊験日に新にして人皇八代孝元天皇宮社を建て、春秋の御祭甚だ厳重なり。当国の生国玉と申す事、仰ぎて可尊崇者也。

 気多と申すは、彼気多崎より影向ある故の名也。 本社三座、中は大己貴命、左右は素戔嗚尊・稲田姫の両尊也。 彼駕し給える鳳の至り止まる地を今呼びて鳳至郡という。 蔵し治し所を重蔵宮と号す。 大巳貴命を奉崇。 文明十八年(1486)重蔵宮の社記にも気多の分神と見えたり。

 人皇第十代崇神天皇の御宇、当国鹿島嶋路の湖水(現金丸の湖水)に毒蛇棲みて人民を害し往還を絶つ。 この時尊神当社より其の地に趣せ給い、彼毒蛇を降伏し、遂に羽咋郡竹津浦に垂跡し給う。 今の一宮是也。 故に当社を以て本宮と称し奉る。 当社御鎮座より百有余年の後の御垂跡跡也。

 仰当社尊神は、諸の地祇の統領として国土の地主にてまします。 故に大国主神とも大物主神とも大国玉神とも顕国玉神とも申す。 国家を経営し給うに依って、国作大巳貴命と申す。 憤怒の形を現して邪神を降伏し諸縁の結れを解除き給う。 故に葦原醜男といい、八千戈神と奉る。
 当社は大己貴命 (相殿には素戔嗚命奇稲田姫命とを祀る) を祀り、県社にして俗に本宮と称し別に

     所ノ口気多大明神                                 気多本宮
     気多本宮地蔵大権現                             所口気多ノ社拝殿

 所口本宮、気多ノ社、など称せり、即ち延喜式能登生国玉比古神社これなりと記載せり。

本殿 (元禄十二年六月建つ  前口三間半、奥行三間半)
拝殿 (文久元年十月建つ   前口七間半、奥行き六間半)
中門 (天保九年二月建つ   前口三間、奥行二間)
              其の他大鳥居、玉橋、神輿庫、手洗舎等を備えたり。
この外境内地に於いて摂末社三社あり。
往時の周辺の地域

 当社の四望は、南に伊須流岐彦鎮座の高山あり。 山の峰を別けて能登・越中の堺とす。
 北に鷲尾と云う高山ありて、二十里程を経て珠洲三崎に至る。 須須神社あり。 此処折々山鳴り海吼えて疾風暴雨の怪あり。 郷俗是を神軍と云い、風静まり雨晴れて是を観れば沙上に石鏃を降らし、海水血に変す。 又当郡を珠洲と号する事は、古往来今、時々珍珠を出す故の名也。

 東北の方に能登の嶋山あり(今 袋嶋と云う)

 南西に望めば、田畝茫々として湖水湛えたり、此の辺の山を能登の中山と云い、此の山上の端一宮垂跡の地也。 巫女原と云い山を巫女山と云う。 古来より山燈有りて毎夜一宮へ飛来す。 又能登部と云う処あり。 能登比湯チ座の地也。 三穂津姫を奉祭(三穂天神)、毎年一宮神幸の時、此の社にて稗粥を供す古例也。

 西北に望めば久麻加夫都阿良加志比古の神社あり。 およそ熟愚按を廻せば、当社の近隣は雲州の降跡を模せる有様なり。

 先南に当て近き山里あり。 此を八田村という。八丘八谷あり、此処に続き東に当て蛇池あり。 其の深さ量難し、永旱と云うとも水不乾。 八田村の谷より流出る川を比川と云う(又は保川)。 水上に脚摩乳・手摩乳の社あり。 又此の村の下に千野村と云うありて妙剣宮あり、西の田中に小山あり是を久志伊良山といい、奇稲田姫の社あり、この他鈴石あり、尊神鎮座の時、御鈴を息め給う石と云い伝う。

 又、府中浦一里許の沖に雌雄二の嶋あり、彼の老翁夫婦の出向かい給うところといえり。 又、北浦を小島と名つく、此の磯に鹿岩・亀岩の二あり、彼の二霊の降跡と云えり。 宮山の西の端に岩屋の清水あり、磐穴凡そ五六間四方、盛旱と云うとも水不絶。 里人是を利とす。

 又、二里北に当たりて和倉と云う処に少彦名神社ありて、名湯潮の中より湧出、諸病治す事妙なり、その入海に机島・硯石あり。 此の辺に筆染と云う処あり、皆机島に寄る名也。

 嶋山の内、別所村に八上比唐フ神社あり、八上明神という。 又、先崎明神・柴山明神と云うあり。 矢田村に大森神社上下両社あり、鳳至郡三井の郷一坂村に木俣神社あり、これら皆当社の末社の中也。 又当所に印鑰大明神あり、是当社の印鑰(社殿の鍵)を納めし社也。

 当社往古より鎮座の地は、所口の古城山是也。 境内方八町、南面大鳥居の跡、今の郡町、玉橋(一本杉町通りの橋、千体橋)、神子橋、御手洗川(大仏の水、本宮遷宮の時此の水を用いる)、中門の跡、老檀一株。

 建武の頃中院少将定清当国の国司たり、足利氏の兵権を執の日、畠山氏封国として世々松尾城に住す(本七尾)

 天正年中(1572〜)、其の老臣温井・三宅・遊佐等甚だ跋扈して、其の主畠山則高 一曰義隆を逐出し、国中分崩離析す。 上杉謙信此の虚にに乗じて乱入し松尾城を責破、国中の神社仏閣悉く放火す。 当社も亦焦土となりぬ。 同九年(1581)信長公、菅原利家卿をして当国を平治せむ、卿即松尾城に住して政事を掌る、遂に封国となり。 同一七年(1589)卿新たに当社の旧地を以て新城を築き、七尾城と号し旧城松尾城を廃す。

 七尾というは、此の山に鶴尾・亀尾・松尾・竹尾・烏帽子尾・袴尾・牛尾とて七の尾崎あり、よりて之を七尾といい、又は松尾城という也。 この時、新城の南原野(名神野)の中に二町四方の地を賜いて当社を再興あり。 三輪藤兵衛神供料許多を寄付せられ、以て今日に至れり。

 往古当社の社司・社僧数十家あり、天正の兵火に遭いて悉く十方に離散し、旧記重宝など紛失しおわりぬ、ようやくにして吾先祖舟木伊豫守桜井宿祢定家、慶長年中(1596〜)社中に帰参して神職を相続す(一家分かれ今両家となる) 船木氏その姓は桜井宿祢、一宮(気多大社)の社司もまた同姓也。
 当社の御紋桜花なり、社司も桜花を以て家の紋とす。 当社明神の神詠

我宿の千本の桜花咲は植えにし人の身も栄えなむ

  ◆石川県七尾市所口町
  神社  話題  登山  今立町




気多大社    関連神社
羽咋郡誌より)
−式内社調査報告より−