苅田嶺神社(かりたみね)




祭神

日本武尊
合祀 境内社
苅田嶺神社拝殿
 明治四十一年から四十四年にかけて、熊野神社(旧白川村)・出神社(下原田東)・八雲神社(内方)・山神社(荒子)・籠石稲荷神社(かわこ石)・雷神社(土井下)を合祀した。 又、境内社として山神社・賓蔵稲荷神社・愛宕神社・赤子養育神社を祀る。 

 また、本殿裏手には、それぞれ寛文十三年(1673)・元禄十二年(1699)・文政十一年(1828)・元文元年(1736)・元文四年の銘が刻まれた五基の白鳥碑が建っている。



もう一つの苅田嶺神社

 現在式内苅田嶺神社を称する神社はまた一社ある。

 蔵王山刈田嶽山頂鎮座の苅田嶺神社である。
 天之水分神・國之水分神の二神を祀る。
 蔵王山刈田嶽山頂(標高1758メートル)に鎮座する。 一説に本社はもと熊野嶽(標高1840メートル)に鎮座していたと伝える(『宮城県管内式内神社調』)。
 山麓の遠刈田温泉に御旅舎(里宮とも称す、刈田郡蔵王町遠刈田温泉字遠刈田一一番地)があり、冬期間はこの里宮に遷座する。

 創祀年代、鎮座の由来等不詳。 社伝によれば、白鳳八年(680)役小角の叔父願行、大和国吉野の金峰山蔵王権現を不忘山頂に勧請し、山名を蔵王山と改め、社号を蔵王大権現と称した。 平安末には陸奥の豪族安倍氏の崇敬厚く社殿造営のことがあり、戦国時代には出羽最上氏の尊崇するところとなり神田の寄進を受く。 近世、伊達氏の崇敬を受け、家臣片倉氏本社を守護した。
 明治五年社名を蔵王権現から水分時神社に改め、更に、同八年現社名に改称して郷社に列せられた。 同四十年三月神饌幣帛料供進社に指定さる。 別当寺金峯山蔵王寺があった。


社名苅田嶺神社鳥居

 九條家本は「苅田(かむた)嶺神社」としている。 武田本・吉田家本は「苅田(かりた)嶺神社」。

由緒


 人皇第十二代景行天皇の御宇、倭建命東夷征伐のおり陣を敷き給う地を尊崇し、日本武尊を祭りて刈田嶺神社と称す。

 人皇第十四代仲哀天皇元年、神田寄進のことあり、更に人皇第二十四代推古天皇七年(598)刈田郡司に命じて社殿を修覆せらる。 延暦二十年(801)坂上田村麻呂東夷征伐のおり、西宮(若宮)の地に遷座せしめ白鳥明神と同殿に祭る。 本社を白鳥明神と称する所以である。 

  また奥州藤原氏本社を尊崇し、治承元年(1177)藤原秀衡社殿造営のことあり。 中世衰徴せるに至るも、永正年中(1504−21)佐藤将監兼速参詣者の便を考へ現在地に社殿を造営し遷座せしむ。 天正十八年(1590)兵火により社殿烏有に帰す。 その後、伊達氏本社を崇敬せること厚く火災の都度社殿再興のことあり。
  享保三年(1718)領主片倉小十郎村休社殿を造営す。 現在の社殿これなり。 一説に本社の創建を平城天皇の御宇とも伝える(『封内風土記』)。

 古昔、別当宝池山蓮蔵寺あり。 真言宗醍醐報随神門恩院末寺である。 寺伝によれば、役小角の叔父願行、蔵王嶽を開き草庵を結ぶ。 後、東寺長者實慧の弟子實源、伽藍を建立して薬師像を祀り願行寺と称す、これ白鳥社の旧地なりという。
 子院四十八坊を数へ繁栄したが、中世荒廃し、当本坊・嶽之坊・山之坊の三院のみ残るに至った。 後、山之坊は衰微したが、宮本坊は伊達政宗の帰依を受けて伽藍を建立し、宝池山蓮蔵寺の号を下賜された。

 嶽之坊はこの蓮蔵寺の末寺となり、金峯山蔵王寺と号した。 維新の際の廃仏毀釈より伽藍・什宝等を失ったという

 本社は、古来、苅田宮(大正十六年・永緑十一年・慶長十六年社蔵棟札)とか、苅田白鳥大明神宮(天文二十一年社蔵棟札)、又単に白鳥大明神(『封内風土記』)と称された。

 享保二十年(1735)正一位の宗源宣旨を受く。 明治五年六月郷社に列せられ、昭和三年十月県社に列格した。 明治四十年三月神饌幣帛料供進社に指定された。

出羽三山   再び山形へ   苅田嶺神社   由豆佐賣神社    山寺「立石寺」

  神社  話題  登山  今立町
[式内社調査報告]より

◆宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場一番地◆