摂社神倉神社

 ◆和歌山県新宮市


御祭神

高倉下命(たかくらじのみこと)天照大神神倉神社大鳥居と石段

由緒

 新宮市の西端に聳えたつ権現山の南東端、熊野速玉大社の飛地境内となっている神倉山に鎮座している。 御祭神の高倉下命は、神武天皇御東征の時、霊夢の告げにより神剣(建御雷の神より授かる)を得て賊軍を平定したことが記紀に記されている。

 高倉下命は、瓊々杵尊
(ににぎ)の兄、饌速日命(にぎはやひ)の御子神で、早くから熊野を統治せられ、後に熊野三党、三山祀官の祖となった神である。
 また、神倉山の峻崖は、日本書紀にある神武天皇が登った天磐盾
(あめのいわたて)であると伝えられ、山上の巨岩ゴトビキ岩を神の依り代と仰ぐ原始信仰であり、更に熊野三所大神早玉、結、家津美御子)が天降り給うた霊所でもある。

 これ故に、神倉山は古代より熊野の祭礼場として神聖視され、熊野の根本であるといわれる。 和歌山県指定の史跡となっている。

 古記録によると、社殿の外の峻崖上に拝殿があり、御供所、満山社、子安社、中ノ地蔵堂などがあった。 明治三年
(1870)の颱風で拝殿は倒壊、同四十年(1907)七月に熊野速玉大社に合祀されたこともあったが、大正七年(1918)、岩下に小祠を再建、昭和に入ってから社務所、神橋、大鳥居(山麓)など建築され、社殿、玉垣、鳥居(山上)、鈴門などを新築し今日に至っている。

 山麓の社務所北隣には妙心寺がある。 神倉の中ノ地蔵堂の本願として知られており、慈覚大師の創立と伝えられ、代々京都から公卿息女の入寺を例とした由緒ある尼寺である。 また、山麓から山上に至る自然石の積み上げによる石段は、源頼朝公の寄進と伝えられ、鎌倉時代の貴重な遺物として知られている

特殊神事

お燈祭神倉神社とゴトビキ岩
  二月六日夜(旧暦正月六日)に行われる火祭りである。

 午後五時過ぎ警固御幣三本神饌唐櫃迎火松明本社神職助祭員介釈
(二十五人)の行列で、熊野速玉大社より神倉神社へ出発する。 妙心寺に参拝し社務所にて小憩、神職は山上に登山、介釈は中ノ地蔵で上り子を制する。

 午後七時過ぎ、斎火を焚き、これを松明に移して宮司祝詞を奏し、迎火松明につけ、中ノ地蔵堂に至り、祈願者各自の松明に点火する。 次に祈願者
(上り子)が山上の玉垣内に入り門を閉じる。

 暫時して開門すると、急な石段を千数百人の祈願者が一斉に駆け下りる。 次に宮司以下祭員一同は阿須賀神社に至り、奉幣行事をして熊野速玉大社に帰還する。

 お燈祭は、「熊野年代記」敏達天皇四年に「正月六日夜神倉火祭始」とあり、神倉、阿須賀、速玉の順に奉幣行事があることから、「熊野権現垂跡縁起」に示す如く、神来臨の道順を毎年復縁する祭礼である。
 和歌山県指定無形文化財。

猿田彦神社 神倉三宝荒神社

 神倉山麓には、天孫降臨に「導きの神」の御神徳が高く「天狗さま」として親しまれた猿田彦命の神社が、明治の御代まで鎮座していました。 また、三宝荒神社(火産霊神・誉田別命)は立里(高野山)にあります。
 昭和五十六年
(1981)に社殿、鳥居、境内、参道等の整備を行い、両神社を御奉斎しています。
熊野速玉御由緒より−

徐福と神武天皇

 新宮市には徐福の墓があります。 徐福について簡単に説明しますと、

 中国において紀元前、最初に統一した政権にあの万里の長城を築いた
秦の始皇帝があります。 この始皇帝の命により不老長寿の仙薬を求めるよう指示された一人が徐福であります。
 徐福は、中国中を探したが見つからず、ついに東の海の彼方、日の出ずる国、蓬莱山
(富士山)の島にあると進言し、「童男女三千(書物によっては、五百などとも)と百工、五穀とその技術を持つ人をつけ東方に船出」した。(仙薬が見つからないと死刑となるため、逃走したともいわれる) ついには帰らなかった。 と、司馬遷の「史記」にある。

 これは、日本の弥生時代初期と時期が合い、全国二十カ所以上に徐福伝承地の跡がある。 これらにより、徐福の伝説は事実であったと思われ、弥生時代は徐福によって開かれたという説もあります。

徐福=神武天皇説

 ここに徐福は神武天皇であったという説がでてくるのです。 いわゆる神武天皇東征のことです。
 中国の故衛挺生教授
(1890〜1977)の「徐福の日本建国考」によると、

1,地理が合う.........「平原広沢」。 東海各島の中で日本にだけ平原広沢がある。
2,時代が合う.........「三種の神器」。 鏡、勾玉、剣は秦代のものである。
3,水軍の存在、舟師が活動している。
4,少年少女..........神武東征に働いた「童男女」、後の男軍、女軍。
5,五穀百工..........神武の軍は各地に一年以上住んでいる。 稲作などを指導した。
6,政治思想..........秦の郡県制度のようなものを神武も作った。 諸侯=国造 県君=県主
7,遇民政策..........文字や中国語を使わせず、使わなかった。
8,神話.............八神の中の七神が合う。 天、地、兵、陰、月、四時主など。
9,年代.............前203年、ヤマト橿原で即位。
10,考古遺物が合う.....秦代の明刀、安陽布などの貨幣、青銅器の出土。

 また、彭雙松氏の「徐福研究」によると

1,「史記」に実在した事実が記されている。
2,徐福について五十六の遺跡、三十二の伝説、四十六の文献に残っている。
3,神武東征と徐福東渡には三十七にわたる共通の事項がある。
4,子孫が六、七百年後、全土を統一している。(引用者注、五世紀、倭国か)
5,佐賀、金立神社由来記に「本神社は神武朝、振興時に之を創設」とある。
6,日向、延岡に徐福岩がある。 神武の出航した地域である。
7,福岡県の岡(遠賀)に三年もいた。 遠貿川式土器で知られる弥生文化発祥地。
8,金関丈夫博士による縄文人と弥生人の身長差などの研究では、華北からの渡航、移住を示す。

など、かなり符合する点があり、徐福研究は日中両国で続いています。
   
     − 「徐福集団渡来と古代日本」より −

熊野古道  熊野本宮大社  熊野那智大社  熊野速玉大社  


  頭之宮四方神社  瀧原宮