四国紀行(香川・愛媛)

  石鎚山  石鎚神社

 10月の連休、さてどこへ行くかと考え決まったのは、前回雨のため断念した「笠ヶ岳」への再挑戦でした。 しかし、荷物の準備を始めだした頃、どうも最近体調が悪いと嫁が言いだし、結局また中止にしてしまいました。 で、何処に行こうか、四国はまだ知らない、ということでなにがあるか調べだしたら、「石鎚山(1982b)がでてきました。 登山即決定。 そのほかには「讃岐うどん」を食べ、「レオマワールド」へ行って、といった単純明快なスケジュールを組み、金曜の晩出発の二泊二日の旅が決定しました。

 金曜日(21:00)発、北陸から名神に入り宝塚(23:00)着。 モーテルに泊まり、翌朝(8:00)四国に向け出発。 まずは四国香川善通寺IC(11:00)を出て、レオマワールドへ直行です。 レオマワールドはいわゆるテーマパークであって、遊園地と二つに分かれています。 テーマパークはイスラム寺院やアンコールワットなど、立派な建物が並びますが、遊ぶものはないので人は少ないです。 その分ゆっくりできますけど。 遊園地の方は、やや低学年向けで、子供連れで楽しめるところといった感じです。 そうそうに出る(13:40)

 次は讃岐うどんです。 HPにて調べておいた行く先は「山内うどん」製麺所です。 途中、琴平町山内うどん金比羅宮」のそばを通り、予定にはなかった(なぜか頭になかった)ので、また今度と後ろ髪を引かれつつ国道32号線を南に走り、山間の途中で満濃町への道に折れ、700mほどの所に看板が見受けられ右折。 さらに林の中へ坂を上ったところにいきなり一軒家が出現(14:10)。 横にトタン屋根の店があり、すでに車が10台ほど止まっていました。

 店はセルフサービスで客は並んでおり、人気のすごさにびっくり。 なぜ遠く離れた山の中の店に、こんなに人がと思ったが、うどんを食べてみて、うーんさすがでした。 うどんの腰、というより弾力ですね、これがすごくあって、つるつる感のうえに出汁がまたさっぱりしてうまいです。 これは食べてみないとわかりません。 そして値段が安い。 二人で油揚げやおっきいミンチ?などをのせて計650円。 さらに驚いたのは、水のうまいこと。 あれは谷川系の水ですね、やはりこの水がうどんの良さにつながっているのだと思われます。

 しかしなぜ田舎の店にこんなに客が来るのか。 それは翌週の新聞(タイミングがいい)を見て理解しました。 そのきっかけは、現在高松の出版社社長が10年ほど前、香川のタウン誌に「讃岐うどんルポ」の連載を始めたのが始まりだったそうです。

 『怪しいうどん屋がある』という話にのり、郊外の物置のようなところで食ったうどんに、「讃岐うどんの本場に生まれて30数年、ワシは何を食うとったんじゃと愕然とした」。 香川県内のうどん店は約700、これをきっかけに、探検ルポを始め、93年、連載をまとめた「恐るべきさぬきうどん」を出版。 94年第2巻発売、96年第3巻が出る頃には、本を片手に「うどんツアー」をする集団が現れ、製麺所のおばさんを驚かせた。 「今年の5月の連休は、県外のナンバーばっかり。 1万円かけて瀬戸大橋を渡って、うちの200円のうどんを食いに来る人がおる、恐るべき客やね」 (読売新聞より)

 旅は続く。 善通寺IC(14:55)に戻り愛媛へ向かう。 石鎚山SAに「石鎚山オアシス」という資料館があり、早速訪ねる(16:02)。 この資料館にてはずかしながら、初めて石鎚山の全容を知ることになった。 それまで、100名山の一つとは思っていたが、頂上に神社があるという程度としかみていなかったのです。 ここで初めて石鎚山は元火山であり、山岳信仰の山であり、空海も修行した山でもあることを知りました。 写真展を見て(どんな形の山かも知らなかった)、またこれがかっこいい山なんですねえ。 おもわず、さすが私の選択には間違いはないのだ、と悦(感動の域に)に入ってしまいました。 

 いよ小松IC(16:50)を出て、次は宿泊先を探さなければなりません。 私はいつも行き当たりばったりで宿を決めるのですが、西条市に宿を求め、温泉地へ行きましたが空いてなく、仕方なく駅前へ行き、ビジネスホテル(18:50)に泊まることにしました。

 翌朝コンビニで食料を買い、石鎚山に向け出発(7:02)。 国道11号線より黒瀬湖にむかい、さらにその上流の山間を走り石鎚山ロープウェイ下谷駅の駐車場に到着(7:40)。 ここからロープウェイに乗り成就駅より登山開始となります(8:02)

 登山行程天狗岳より石鎚山表参道)

石鎚登山ロープウェイ駐車場(8:02)下谷駅−成就駅(8:15)−中宮成就社(8:44)−八丁(8:50)−試しの鎖(9:48)−一の鎖(10:25)−二の鎖(10:45)−弥山・頂上社(11:00)−天狗岳(11:20)

弥山にて昼食

弥山(12:18)−八丁(13:45)−中宮成就社(13:58)−成就駅(14:28)−下谷駅(14:49)−駐車場着(15:05)

 山登りとしては楽な行程ですが、鎖場が結構すごいですね。 岩はゴツゴツしていないため足のかけるところが少なく、鎖にしっかりとつかまり、時には鎖自体に足をかけないと登れません(険しい岩場にかかるこの御鎖にすがる時こそ、邪心を捨て、無我の境地を体験する行です)。 そのため大渋滞となり、でもそれが休憩タイムがわりになって、頂上社まで休憩なしで登ってしまいました。 頂上は風があって雲も出ていましたが、おおむね良好で、山も紅葉が始まりだしたかなといった模様でした。 見晴らしは当然いいですね、西条市の東予港が望めました。 天狗岳は画像のとおり迫力があり、まさに修検道の修行の山そのままです。 翌週の読売新聞に「紅葉と樹氷の石鎚山」の写真が載りました。

 駐車場に下りると、後は帰りの長旅が待っています。 レストラン(16:00)で食事を済ませ、いよ西条IC(16:52)より高速に乗り、わき目もふらず帰宅の途につきました。 途中、神戸JCと宝塚IC間で渋滞となりここだけで1時間かかり、自宅にたどり着いたのは23:20となりました。

感想  四国は遠い。 今まで四国は漠然としていて次回廻しになっていたのですが、今回の旅で楽しみが出てきました。 しかし、ちょっと行くにはちょっと遠いなあ。

 


石鎚山(いしづちさん)

   ◆愛媛県上浮穴郡面河村天狗岳


 石鎚山は、いわゆる死火山であります。 活動期は千数百年前にさかのぼるといわれ、それも、阿蘇に匹敵する大カルデラを構成していたらしい。 石鎚山の山頂や、その周辺の安山岩を主にした険しい山容は、この時代の名残にほかならない。  石鎚山の山頂は、北面がほとんど垂直に切り立った屋根型となり、最高点の天狗岳(1982b)を中心に、北西の弥山(1960b)から南東の南尖峰(1972b)まで、長さ400bほどの頂稜をもつ。

 石鎚登山は、修験道の祖とされる役の小角(えんのおづぬ)によって慶雲元年(704)幕を開けた。 以来、富士山、大峰山、立山、大山、釈迦岳などとともに、七霊山の一つとして山自体をご神体とみなす石鎚山信仰の伝統は今も続いている。

 山頂から北に延びた尾根を登る表参道も、南面に源流をもつ面河谷に沿って登る裏道も、北壁の下をたどる縦走路も、石鎚山の山頂に立つためには、山頂を構成する岩と対面しなくてはならない。 そこに登場するのが、石鎚登山の象徴・上下三ヶ所からなる鎖場である。

 頂上直下の三の鎖は62b、土子屋からの合流点の二の鎖は49b、一の鎖は27b、そして、その前にある試しの鎖は75bと最大の岩場である。 これらの岩場には、いずれも右手に巻き道がつけられ、女性や子供でも歩けるようになり、大衆化している。 試しの鎖は登って降りる形になっている。

 しかし、7月1日のから10日間、山開きを兼ねて行われる石鎚神社の大祭では、初日・2日の2日間、成就から先の表参道は女人禁制となる。 

開創の伝承

 「石鎚山は瓶ヶ森より扇子の要だけ高い」 ということを言う。 その初め石鎚蔵王権現は瓶ヶ森(1896b)に祀られていたと伝えられる。 天保十三年(1842)の『西条誌』に
     瓶ヶ森山 嶺の内に角力取場、宮とこ、八郎次池、ゑずば等の小名あり、石鉄蔵王権現往古は此の嶺にましましたりと云伝ふ。

 また『伊予温故録』も 「石鎚神社往古は此山の絶頂に在りたり。因って古権現の森ともいう。」 と記しており、石鎚信仰の対象になった嶺は、現在の石鎚山ではなくて、瓶ヶ森であったとしている。 その他、笹ヶ峰(1859b)や子持権現(1677b)でも祀られていたようである。

 石鎚蔵王権現を瓶ヶ森から現在の石鎚山に奉遷したのは、年代不詳なるも西之川山村の庄屋高須賀氏の祖であると伝えられる。 同家は部落草分けの家とされ、初代の八郎兵衛は石鎚開山の行者を背負って登ったと云われる。


石鎚の投げ石

西条市中野に式内社「伊曽乃神社」がある。 この伊曽乃神と石鎚神を夫婦神とする伝承がある。

 ある時、石鎚の神が石鎚山に行くことになった。 女神の伊曽の神も同行しようとしたが、石鎚の神は女神の行けるところではないといって止め、私が山上に着けば、三つの石を投げるから、その落ちた真ん中の所に寓居を構えるように、私は女神のもとに通うからと。 果たして約束どおり石鎚の神は石を投げた。

現在、伊曽乃神社の鳥居元にある大石がそれであるという。
                                       ー修験道の伝承文化 よりー
式内社 伊曽乃神社本殿          大鳥居 右横の大石

霊峰石鎚山総本宮石鎚神社(いしづち)

    ◆愛媛県西条市西田甲七九七(石鎚神社本社)


石鎚信仰中宮成就社内の石鎚遙拝所

 石鎚信仰の母体、関西第一の高峰霊峰石鎚山(1982b)は、千三百年の昔、役の行者(役の小角)によって開山された。 その後、寂仙(じゃくせん)菩薩石鎚蔵王大権現と称えて深く信仰、山路を開き、登拝者を導き、常住社(中の宮成就社)を創立した。

 その後、上仙大師、光定大師などの高僧が、四国八十八ヶ所第六十番札所の横峰寺、第六十四番札所の前神寺を創立、石鎚神社の別当寺となって明治維新を迎えた。 しかし、明治天皇の大命により、神仏混淆が禁止され、別当寺は廃止、神社と定められた。

 かつて、弘法大師(空海)も石鎚山で修行したと伝えられ、桓武天皇文徳天皇、武将として源頼朝、河野家一族、豊臣家一族の篤い信仰があり、慶長十五年豊臣秀頼公により、中の宮成就社が御造営されたが、明治二十二年火災のため焼失。 現在の成就社は、昭和五十五年災禍により焼失し、昭和五十七年六月二十日に復興、御造営され現在に至っている。

 寂仙菩薩については「日本霊異記」によると、

 ... 彼の浄行を貴びしが故に美めて菩薩と称ひき。 孝謙天皇の九年、天平宝字二年(758)の年、寂仙禅師、命終の日に臨みて 「我が命終より以後、二十八年の間を歴て、国王のみ子に生まれて、名を神野(かみの)と為はむ。 是を以て我寂仙なることを云々」といふ。

 然して二十八年歴て、桓武天皇の御世、延暦五年(786)の年に、天皇の御子に生まれ、其のみ名を神野の親王と為す。 今、平安の宮に十四年通して、天の下治めたまふ賀美能(かみの)の天皇(嵯峨天皇)是なり。...

 とあり、伊予国の寂仙禅師が、聖君とうたわれた嵯峨天皇に生まれ変わったと伝えている。

 明治時代、石鎚神社は県社の社格に列せられていたが、戦後は神社本庁に包括される宗教法人となり、石鎚神社は従来の官国弊社と同格の別表神社という待遇を受けている。

祭神    石鎚毘古命(いしづちひこのみこと)

 石土毘古命(いわつちひこのみこと)、また石鎚大神(いしづちおおかみ)とも云い、伊耶那岐命・伊耶那美命の第二の御子であります。 古事記によれば、

国を生み竟(を)へて、さらに神を生み、かれ生みたまふ神の名は大事忍男の神。次に石土毘古の神を生みたまひ」 

とあります。
祭神は石鎚毘古命一神ですが、次の三つの御神徳を表すため、三体の御神像を祀っています。

玉持(たまもち)の神
鏡持(かがみもち)の神
剣持(つるぎもち)の神
和魂・にぎみたま=仁の神徳
奇魂・くしみたま=智の神徳
荒魂・あらみたま=勇の神徳

主要な祭礼行事石鎚遙拝所より

1月1日 元旦祭、 2月節分の日 節分祭・星祭・古神札神納浄火祭、 7月1〜10日 夏季大祭(石鎚山お山開き)初日祭−終了祭、 11日 夏季大祭御神像本社還宮祭、 12月1日 新穀感謝祭(新嘗祭)、 冬至の日 星祭祈願開始祭、 31日 大祓式・除夜祭(越年祭)

正月、5月、9月、の1日の月次祭には、特殊神事の御神像拝載の神事が執行されます。

石鎚山旧跡三十六王子社

 その昔、霊峰石鎚山に登拝するにはすべてを徒歩に頼っていました。 いつの頃からか、登拝者は山麓から頂上への道中、道沿いにある大木の幹洞窟断崖絶壁絶景の地などにを祀りその場で修行をしつつ、登拝を行いました。 現在この場が、三十六ヶ所確認されており、三十六王子社と呼ばれています。

 現在の登拝の道は、西条市の国道11号線沿いに石鎚神社・本社があり、ここが登拝の出発点となる。 本社では毎年希望者を募り、3泊4日の行程を以てそのすべてを巡拝し、三十六王子社境内の清掃、信徒の祈願札の奉納などを行っています。


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