出羽三山

月山(1984b)  羽黒山  湯殿山(1504b)
 ◆山形県東田川郡 羽黒町、羽黒手向、朝日村
 出羽三山は古来東北の総鎮護、国家鎮護の霊山として、また「五穀豊穣・大漁満足」「祖霊安鎮」の山として有名である。
 三山とは月山、羽黒山、湯殿山の総称で、出羽国の中央を占め、主峰月山は一名臥牛山とも呼ばれる。 その山々には月山神社、出羽神社、湯殿山神社の三社が鎮座している。
 元来この三神社は三つの独立した神社であったが、月山や湯殿山は人家を離れかつ冬期は積雪も深く冬の奉仕は困難であったから、羽黒山上の出羽神社に合際され三所権現と称し、羽黒山は月山・湯殿山両神社の里宮として形成されていった。
三所権現 三神合祭殿
月山
 月山神社の本殿は高峰月山の頂上に鎮座し、祭神は
月読命である。
 月山が神として山そのものを尊崇し、頂上を「おむろ」というのは、神がお篭もりにになられる意で、月山が神体山であった名残であろう。
 関東のある地方では伊勢参宮を済ませると、必ず奥詣りと称して出羽三山詣をしなければならない風習があるという。 これは、天照大神と月読命とが兄弟であることがその理由と思われる。

羽黒山
 羽黒山もまた羽黒の神であった。 鬱蒼とした山自体が神であったが、後に頂上の池が信仰の中心となり、さらに後には仏教の影響を受けて社殿が設けられるようになると、社殿を中心としした信仰となった。 古い書物に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませている。
 祭神は伊氏波神すなわち稲倉魂命である。
 羽黒山の本社前の池は、羽黒権現の御手洗池であるが、古代から神の池としての信仰から鏡を池に納めるので鏡ヶ池の名がある。 鏡池は御神秘殿が由良の八乙女の岩窟の底に続いていると信じられている。
 鏡は邪霊邪鬼を避けるもの、また神の御意を和めるものとして池中納鏡の思想が起きたと思われ、池の中より発見された鏡には平安・鎌倉時代のものが最も多い。

湯殿山
 湯殿山は今も神体山としての信仰が残っている。 湯殿山は湯殿山の神であり、神域には一切の人工を禁じた。
 湯殿山神社は湯殿山中腹に鎮座、太古より湧出する出湯と霊厳とを御霊代として社殿の設備はなく、ただ、仙人沢参篭所に詰員を置き参拝人の取り扱いを為さしているが、社務の一切は羽黒山の麓にある社務所で執っている。
 祭神は大山祇神、大己貴命、少彦名命の三柱である。 湯殿山は三山の奥の院と称せられ、羽黒古修験道極意の山とも称せられている。
出羽三山を開いた蜂子皇子と羽黒修験道
 古代の出羽はいわゆる蝦夷の国で、初めて田川郡が置かれたのは、天武天皇十一年(682)であるという。

 出羽三山を開いた蜂子皇子
(はちこのみこ)は、三十二代崇峻天皇の第一皇子であった。 しかし蘇我馬子らの横暴を避け、聖徳太子の勧めにより仏門に入り、弘海と称し旅に出る。
五重塔
 推古天皇元年
(593)に出羽国由良に着くと三本足の大烏が飛んできて、皇子を導き鬱蒼と茂った霊山に着いた。 ここは羽黒の阿古谷であった。
 皇子は滝を前に石の上に端座すると、やがて羽黒の大神が出現し、神の云われるまま苦行を積むとさらに大神のお告げを受け、同年秋月山に登り、月山大神を拝し、さらに同十三年には湯殿山に至り、湯殿山大神の霊徳を感受した。

 皇子は、皇子を導いた三本足の大烏の羽色にちなんで、山を羽黒と名付けたと云うことである。
 蜂子皇子は不可思議な呪術をもって人々の教化を行い、病を治し、災いを除き人々から苦悩を除くという意味から「能除仙」と称せられ、また「参仏理の太子」といわれたという。
 参仏理とは身振りの意義を持つ言語で、古代呪師のようでもあり、また羽黒神が一説に玉依姫命とも伝えられており、古代巫女の面影を感ずる。
 蜂子皇子より弟子の弘俊に伝えられ、のち羽黒派の修験道として発達したのであるが、これには多くの人師の影響を受けている。 第一には越前の泰澄である。 越前の白山を開いたことで有名であるが、「元享釈書泰澄伝」は、泰澄を羽黒の開基として伝えている。
 彼は諸国の山々を巡り、遂に出羽の羽黒山を開き熊野、吉野、大山に対立せしめ、また、出羽の三山に廻峰して、羽黒の修験道の興隆にあずかり、特に出羽の神部浄定を弟子としていた。

 古来修検の行場として出羽三山は山嶺渓谷の高嶺霊異の地に末社、王子が神祭され、全山百十余末社を数え、この末社王子の回峰のみでも容易の業ではない。 これまた蜂子王子の開山以来千三百余年の歴史の集積にほかならない。
平将門と出羽神社、五重塔

 羽黒には古くから将門の伝説が流布しているようであるが、将門の乱を詳細に伝えた「将門記」に巫女の神託を受けていることを伝えており、これを直ちに羽黒と結び付けることはできないが、羽黒の本尊を正観音、妙見大菩薩、軍陀利明王の三尊とした時代もあった。
 羽黒年代記によれば、将門は羽黒本社を延長四年、五年(926,7)の二ヵ年を費やして造替、さらに五重塔を創建した。 また彼の娘如蔵尼がはるかに相馬から羽黒山に来たり住み、羽黒で没したと伝えている。羽黒三郎の巨鐘

鎌倉将軍家と巨鐘

 鎌倉時代、中国にて蒙古が興起し、日本に迫っていた。 幕府・朝廷は神宮を始め諸大社に敵国降伏の祈祷をこめ、当羽黒山にも祈願する処があった。

 三山雅集によると旧記の伝えとして、将軍家が羽黒の宮前に敵国退散の祈願をこめたところ、九頭龍王が忽然として羽黒より黒雲を巻き起こして飛行すると、見る間に日本海に消えた。

 かくて間もなく蒙古の艦船が全部覆滅するを報じ、人々は羽黒の龍神の働きであると評判した。 幕府は羽黒の神々の霊威であると深く感じ、巨鐘を鋳て奉った。 これが建治元年
(1275)の事である。

 古来、大鐘のことを、南都の太郎、高野の二郎、吉野三郎といって、その古さ大きさの順位を称した。 南都(奈良東大寺九尺一寸)、高野(金剛峰寺六尺)、吉野(吉野廃世尊寺四尺)で、羽黒は五尺五寸であるから、吉野三郎をやめて羽黒三郎とすべきとも云う。

出羽三山史 より−
出羽三山の山岳伝承

 出羽三山が現在のように羽黒・月山・湯殿の三山に定まるのは、近世に入ってからのことで、それ以前は羽黒・月山・鳥海をもって三山とし、さらに古くは羽黒・月山・葉山を三山と称した時代もあったと云われる。 こうした信仰の歴史的変遷が三山の伝承を多様にしているひとつの理由と考えられる。 また、出羽三山とは言いながら、羽黒山と湯殿山は、その開山・法系・信仰内容 (特に神社としての湯殿山に対する) を異にし、江戸時代初期以来両者は激しく対立抗争したことも、伝承をさらに多様化している理由の一つであろう。

 すなわち、羽黒山側は、羽黒修験の開祖は能除仙(蜂子皇子)であるとし、天台密教(とくに近世以後)と真言密教とによって体系化しているのに対し、湯殿山側は湯殿山の開山は弘法大師であるとして、真言密教によって行法、信仰等を組織し、羽黒側の主張に対抗した。


 羽黒山の本地仏は観世音で、その垂迹の神は羽黒神、または玉依姫とされているが、この神は龍王の乙姫であるといわれるから龍神信仰に基づくものと考えられる。 また、羽黒山の神は稲荷だともいう。 月山は阿弥陀如来を本地とし、月読命を垂迹の神と仰ぐ。 これに対し、湯殿山の本地仏は大日如来、垂迹の神は大山祇神、または少彦名神とし、湯殿山を開いた弘法大師は、このままこの地に入定したというので、湯殿山行者には、その跡を慕い、仙人沢などの霊窟に籠もり、即身成仏を願うものが多い。 湯殿山に即身仏が集中しているのは、こうした信仰によるものである。

 羽黒神社に「いけのみたま」と仮名をふってあるが、三社神社社殿前の鏡池をさすもので、この池そのものが羽黒神の御魂であるとする古い信仰に基づくものであろう。 鏡池の信仰は、また龍神信仰にも連なるものである。 羽黒の神は玉依姫とする説があるが、これは海神・龍神信仰に基づくもので、この説はまた、羽黒神が由良海岸の八乙女洞窟から誕生したとの伝説に結びつくものでもある。

 『三山雅集』に
 「そのかみ羽黒権現此所より瑞光を輝かし、山頂に移りまし給ふよし、則海中に石の鳥居あり、今に至って、みな月より文月かけて星河さはやかなる夜は、この沖より龍燈あらはれ出て半天に昇り、又海上に落ちてその光を消す、かかる不思議豈凡察に及ばんや、すなはち修験入峰の時節は羽黒山より遙拝の霊地なり」 とある。
 八乙女の洞窟は、羽黒山本社内にある羽黒神の鎮座する宮殿と、地下道によって結ばれているとの伝承もある。

 羽黒山で雨乞い祈祷を行う時は、鏡池の周りに八大龍王の幟をたてるが、これは羽黒神が龍神であるとの信仰によるものである。 また、大晦日の晩に行われる松例祭には、女性の登拝が禁じられていたが、これは羽黒神が女神であるので、同性から見られることを嫌うためであるという。

-修験道の伝承文化 より-   

月山 羽黒山 登山旅行記

平成13年8月12〜13日    参加者2名
 8月に入って、盆の休みにどこかへ行きたいなと考えていたところ(予定は2日しかない)、TVにて山形県観光地の紹介をしており、山形といえば「鳥海山」「月山神社月山」だ、ということで何故か簡単に決まりました。 さっそく本屋にて山や観光の書籍を買い入れ検討したところ、強行ではあるが1泊2日で行けないこともないな(観光などは当然無し)と決行となりました。
 当初は月山登山だけの予定でした。 しかし、出羽三山の響きに誘われ三山制覇できないかと欲張ったのですが、この日程では無理ということで月山、羽黒山のみとしました。

 8月12日(曇りのち時々雨)
 12:00 月山登山口を目指して自宅を出発。 高速に乗り一路北へ。 13:15小矢部川PAで休息。 16:00黒崎PAにて夕食。 17:00新潟空港インターより国道走行となる。 ここからが長い。 海岸線をひたすら走るが、信号も少なく車の量にしてはスムーズに走っている。 途中に面白そうな神社がいくつかあったが、寄っている暇はない!
 18:40途中ローソンにて食料を仕入れる。 19:30ようやく鶴岡市に突入。 20:00ごろより月山への林道に入り、道はやや狭いが夜中でもあり対向車はなく、20:30月山8合目弥陀ヶ原駐車場に到着。 他に10台ぐらい先客あり。 就寝。

 8月13日(曇り一時雨のち晴れ)
 5:30起床。 まわりでは早々と準備を始めており、登り始める人もいる。 こちらも仕方なくぼちぼちと準備を始め 6:45出発となる。 天気は前日より小雨などが降り、朝からガスがいっぱいでまわりの風景は全く見えず。
一の坂
 まず、弥陀ヶ原湿原の木道を少し歩き、登山道に入っていく。 石を散りばめた道をどんどん行くが、傾斜は緩く頂上まできついところはありません。 しかし、お花畑が満開の状態で、ガスがなかったらすばらしい風景が望めるのに残念です。 途中20分ほど雨にたたられましたが、花を見ながら順調に登っていきます。 8:00仏生池小屋 気温は低いのでそのまま頂上を目指します。

 9:00月山山頂、月山神社着。 あいかわらずまわりは全くガスで見えず、鳥海山を望みたかったのですが当然無理。 神社入口にてお祓いを受けてから参拝します。 神社自体は冬の雪の為石垣に守られ、大きくはありません。 次の予定があるので、早々に下山。 9:45山頂発。 10:20仏生池小屋。 途中、弥陀ヶ原湿原の御日原神社(月山中宮社)に参拝して 11:30駐車場着。

 11:50着替えを済ませ、羽黒山に向け出発するが、林道でバスも絡んでちょっと渋滞となる。 12:40羽黒神社駐車場着。 ここから羽黒山に向け出発。 

 羽黒山は頂上に神社があるが、麓より石段が頂上まで続いていて、登山ではないがこの石段がきびしい。 山門を潜り奥に入っていくとやがて国宝の五重塔が出現。 そのあと例の石段が頂上まで続く。 その数2240段、一の坂、二の坂、三の坂と三つに分けられており、二の坂の途中に茶店があり、いい位置にあると感心する。 蜂子神社、三社合祭殿など参拝し、下山。

 15:00駐車場発。 長い帰りが待っている。 ひたすら国道を走る。 15:40夕食。 19:20高速に入る。 黒崎PA、米山PA、有磯海PAにて休息。 00:30自宅到着。

 思い立ってから一気にいってしまいましたが、湯殿山だけが残り
(最後に行くところらしい)次回に持ち越しとなりました(遠いから次回はいつになるだろうか)。 石鎚山に始まり熊野古道、高野山、出羽三山と修験道の山が続き、知らぬ間にシリーズと化した感があります。 このあと、白山の予定があり大山も考えていますが、登山にもそれなりの意義を持たせるとまた別の楽しみがあります。


再び山形へ   鳥海山


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