越前和紙
大徳山の山ふところにいだかれ、五色に綾なす岡太の清流が流れるその里には、真白な紙の花が咲く、といわれた越前和紙の里、今立町五箇(大滝、岩本、新在家、不老、定友)には、千二百有余年の伝統を持つ紙の祭りが例年行われている。 紙の祭りは全国的に見ても数少ない祭りの一つである。
昭和四十八年(1973)には、総社大滝神社と紙祖神「川上御前」を祀る岡太神社の第三十八回式年大祭が行われた。 式年祭(開帳)は三十三年に一回執り行われることになっているから、祭りの起源は、越の大徳泰澄大師が大滝児大権現を開闢したといわれる養老三年(719)にまで遡る。
大正十二年には、岡太神社に鎮座されている川上御前が、日本で一番筋の通っている紙祖の神であるとして、大蔵省紙幣寮抄紙局に御分霊が移された。 当時抄紙部のあった王子工場には岡本神社が建立され、紙祖神「川上御前」が分祀された。
江戸時代の経済学者、佐藤信淵の『経済要録』には 「明和、安永のころまでに各国とも、みな立派な紙を出しているが、その中で高名なものは、... ...それらの紙のうち貴重な紙を出すのは、越前岩本、大滝、定友、不老、新在家、この五箇村をもって日本第一とす」 と述べている。
越前和紙の技術が、鎌倉時代に栃木県の程村に伝播して程村紙となり、江戸時代には兵庫県の名塩へ、また筑後へと伝播していった。
伝統技法「越前生漉奉書」を漉く九代岩野市兵衛さん(66)=大滝=が五月十九日、国の文化財保護審議会の答申で、国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に選ばれました。
福井県内で人間国宝に認定されているのは、これまで昭和四十三年に岩野さんの父親、八代岩野市兵衛さん(故人)が選ばれているだけで、県内で三十五年ぶり、二人目。 親子での栄誉となりました。
九代岩野市兵衛さんは昭和二十四年、家業の手漉き和紙の道に入り、八代岩野さんの下で、楮(こうぞ)だけでつくる生漉奉書の技術を習得されました。 先代から受け継いだ技法をかたくなに守り続けて昭和五十三年に伝統工芸士に指定され、同年九代岩野市兵衛を襲名。 平成九年には、県無形文化財保持者に指定されています。
伝統的な越前奉書は、原料の楮を手打ちし繊維をほぐす「叩解(こうかい)」や、木綿の布で楮を水でさらしデンプン質を取り除く「紙出し」など、手間を惜しまない入念な原料処理に特色があります。 紙質は強靱で、格調高く重厚な風合いが特徴。 現在の主な用途は版画用紙や書画用紙ですが、特に岩野さんが漉く越前奉書は芸術的価値が高く、二百回から三百回もの摺りに耐え、国内外からの著名な版画作家の用紙に使用されています。
「広報いまだて」より
漆掻き
江戸時代の今立町の漆掻きの人数は不明であるが、全国的にみると多い方だといわれる。 今立郡(旧河和田村、旧池田村などを含む)には数百人の漆掻きが主として東日本に出かけていったというが、正確な数は分からない。 今立町の場合は主として旧服間村を中心として、それに旧岡本村、旧南中山村の一部から出稼ぎ人が多く出たと考えられる。
『東庄境村漆掻ロウ御願上帳』などによれば、信濃(長野県)、甲斐(山梨県)、相模(神奈川県)、武蔵(東京都、埼玉県)、上野(群馬県)、下野(栃木県)、常陸(茨城県)、陸奥磐城(福島県)などの各地に出かけて働いていた。
嘉永三年(1850)正月、寺地村庄屋六兵衛以下五十二人連名の『漆掻出稼慎規定書』が作られた。 これは寺地村には漆掻出稼人が多く、問題が多いので取り締まりの規則を定めた。
漆掻きが越前国から国外へ出る場合には、往来寺請手形を持参したり、出稼ぎ願いを地元の奉行に差し出したりした。
繊維
絹織り(羽二重)
越前国は、古くから繊維産業の発達した国であった。 『続日本紀』には、和銅二年(712)秋七月、越前国ほか二十ヵ国に命じてはじめて綾錦を織らしめたことが記されている。 また延喜五年(905)には越前国ほか三十五ヵ国に命じて絹帛をもって調貢をさせており、越前国は古くより絹布の生産国として知られていた。
今立町の服部(はっとり)、服部谷、服部川などの名前の起源は、古代に遡るものと思われる。 はたおりは『古事記』『日本書紀』などに記載されている機織りのことで、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済から、弓月姫が百二十県の人民を率いて我国に帰化した秦氏に関係が深く、今立町朽飯(くだし)の地名は百済人(百済の師)がこの地に住み着いたからという。
少なくとも今立町服部谷は越前国最初の絹織物の重要な生産地の一つだと思われる。
文明三年(1471)一乗谷に入った朝倉氏は、将軍家に国産の絹を毎年贈っており、天正年間柴田勝家越前入国の際も、絹五百疋を信長に進上したことが『異本信長記』に記されており、当時の北ノ庄の軽物座は絹織物の座であった。
麻織り
麻は江戸時代から今立郡の特産として有名であった。 『越前名蹟考』にも今立郡の産物として「さよみ」と称する麻織物があげられている。 江戸の中期以降は今立郡内で生産された麻糸は主に近江長浜方面へ運ばれ、近江蚊帳の原料となった。
文政元年(1818)粟田部に生まれた重野六十九は、吉田惣七(幸七)、上田金十郎と今立地方に蚊帳織りの技術を伝えることを計画し、安政三年(1856)次女ひなを近江神崎郡宮部村某家に奉公に出し、ひそかに蚊帳地織立ての技術を習得させ翌年帰国、三名合同の伝習所を設け、織工を養成した。 これ以降今立地方でも蚊帳織が発展し、明治二十年代には越前蚊帳の生産が上がり近江蚊帳をしのぐ勢いを示した。