荒島岳(1524b)

◇福井県大野市◇


荒島岳   荒島岳登山   登山日記




荒島岳

 大野の東にそびえる荒島岳は「大野富士」とも呼ばれ、山もまた越の大哲・泰澄によって開山されたといわれる。 信仰の山としてあがめ近世まで人を寄せつけなかったと伝える。荒島岳

 この山は、和銅六年(722)に書かれた風土記によれば「蕨生(わらびょう)山」という名で表されており、延喜式には「阿羅志摩我多気(あらしまがたけ)と書かれている。 延喜式を作らせられたのは、醒醐天皇の延喜五年(九〇五)で、風土記が書かれてから二百年後で「蕨生山」が「荒島岳」になったのだろうか。 和名抄という本には「大山」と書かれており、絵図記(貞享二年、一六八五)には「嵐間ケ嵩」の字を使い、仙人がいた山で「仙山」ともいうと、但書をつけている。またいつから呼ばれたかは定かでないが、「越の黒山」ともいわれてきた。

 この山には荒島神社が鎮座されている。 延喜式によれば、継体・安閑・宣化・欽明・敏達天皇の朝廷に仕えた物部氏らの祖霊をまつり、社の麓には佐比良気(さひらき)村(佐開村)・和良比婦(わらひふ)村(蕨生村)ありと書かれている。

 また荒島神社には、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿祢をまつるとか。 本朝世紀や日本地名辞書には、式内荒島神社は土俗白山権現をまつるという。

「荒島岳高さ五〇町余、半腹より上に白山三社を祭る。 それより上は草木繁茂して登るべからず。 近来採薬の為に登る人あり。 その人の云へるは社と称すべきものはなくて、至って小さき石禿祠あれども半ば埋れて、安置の像もさだかならず。 夫より上は小竹のみ生茂りたるを踏分けて登るに、絶頂にいたるまで尺余の閑地なし」 とある。

 享保書上げでは 「山頂神祠の尊体(御神体)真名川に落下流出云々」 とある。また万延元年八月(一八六〇)「嵐山紀行」を書いた横田莠(はくさ)は、「佐開から頂上までの三分の一くらい登った所に、一反歩(10e)程の平地があって、周囲15b、樹幹七株に分かれた古杉が亭々として直列し、杉の前に小祠があって木仏が安置されている。 しかし頭のみ、傍にまた六体の木仏があるが、自然の風化作用によって、顔面など摩滅して、何様であるか分りようがない。 可成りの年月を経過したもので、覚えず合掌礼拝をした。」云々と書いている。

 荒島の神をまつる荒島神社は、天児屋根命物部氏の先祖とを合祀し、佐開から少しばかリ登った鬼谷の中腹に鎮座したが、度々の山崩れで祭神もろとも流出して、祭神の頭だけは拾い上げられ安置されている。 別殿にあった六体の木仏は、いまいっしよに合祀され、どの仏体も古めかしく年代の経たものである。 荒島岳は殺生禁断の制札を掲げて一般の立入りを許さず、もし登るとすれば鬼谷から登った。

 影響録に 「この山、烏類制禁の地なるに、大野の人、推して持登りて怪異あり」 ...と書かれており、また帰雁記には 「荒島嶽には餐霧(さんむ)という仙人の住居せる山といへり、これは常陸房(ひたちぼう)が事なりと言う者あり。 かかる事もや侍りなん、延喜式には荒島神々というあり、今もありや...」云々、と書かれている。

 郡史によると、旧上庄村佐開の荒島神社は、もと嶽頂にあったものを、明治元年八月 現地に遷したといわれる。 村の人の話では、鬼谷に本殿、山頂に奥宮があり、本殿の跡は八畳ほどで大きな杉の切株もあり、昔は鬼が棲むといってこわがられた。 また鬼谷は「蛇谷」ともいい、毒蛇も多かったと伝えられる。 鬼谷の山崩れは明治二十四年十月にも発生し、堰堤工事が明治三十年(一八九七)から始められた。 鬼谷は崩壕を続け、壮年期の侵蝕地形を呈し、この名がつけられた。

 昭和三年には頂上に、石造りの御堂が建てられて、印度から渡来した観音がまつられた。 荒島岳の登山は明治以降から次第に盛んになり、中出・勝原・佐開・下山からの四コースがある。 中出・勝原の両コースは福井国体の山岳部門のコースとして使用したために、要所には立派な道標も立てられ道もよく整傭されているので歩きやすい。

 佐開コースは開山以来の登山道であったが、前者に株を奪われ、沢登りやヤセ尾根などを登り、夏草が茂るとわかりにくい道であり、下山コースは大垂(おおだる)ノ滝を目的として、最近福井工業大学の人達で開発されたばかりのコースである。 経験の豊富なガイドをつける上級向のコースである。 

 この山は大野郡の中央に位置し付近に高い山がないため、山頂からは三六〇度の展望がほしいままにできる。 北東に白山の霊峰を、その右へ別山三ノ峰二・一ノ峰の連山が、願教寺山赤兎山経ヶ岳法恩寺山などが。 南東を見渡すと御岳乗鞍岳北アルプス連山の雄姿までが望見できる。 西側には部子山銀杏峰がすぐそこに見え、眺望において県内一であろう。

(山々のルーツ「上杉喜寿」より) 

荒島岳より白山を望む



荒島岳と物部氏

 荒島岳の北側は、勝原に、東は下山に、南側は山大納から伊勢に向かい、西側は佐開若生子にいたっている。
 和銅六年の風土記によれば(わらびおやま)と表され、延喜五年(905)の延喜式にも荒島神社の名が見える。 

  〈荒島大権現略縁起〉によれば、(道臣尊の孫、物部荒山連公が天皇からこの山を賜り、以来、この山を荒山、嵐山、荒島山に変わったという。) と見えることから、荒島岳は古代の一大豪族、物部氏と密接な関係を持つ山であったと云える。 荒島大権現の本地は聖観音像であるが、垂迹は物部荒山連公で、足羽社記によると(延喜式言荒島神社按 継体、安閑、宣化、欽明、敏速、朝廷棟梁臣、物部氏等神霊座山地、麓有佐比良気村、和良比婦村) とみえる。

 物部氏とは、その氏族伝承を伝える〈旧事記〉によると、(鐃速日命が天祖の勅をうけて天盤船に乗り、河内の国河上哮峰に下りた、さらに大倭国の鳥見の白庭山に移り、鐃速日命の妻の兄長脛彦を殺して、族を率いて天皇家に仕える様に成った。) とあり、天皇家と同じく天孫降臨伝承を持っていることから、物部氏は、天皇家以前に大和地方を制していた先住民族であったといわれている。 谷川健一氏によると、彼らは大和朝以前から金属開発製錬を行なっていた氏族であり、その移動は、鉱山の開発に密接な関係があり、白鳥を神と仰いでいたという。

 大和朝廷内においては、軍事、祭事、宗教面で力を持ち、五世紀代、大和朝廷が全国制覇していく時期には、尖兵として軍を率いて戦い、服属した豪族を物部民としていきながら、最高の地位を獲得していった部族である。
 物部氏が、軍事力を最も発揮したのは、継体、安閑、宣化に仕えた物部の角鹿火であったが、欽明天皇十三年(552)蘇我氏との戦いに敗れ、滅んだ。
 このような物部氏を祀る荒島神社は、大和朝廷が東征の時期、強大な軍事力を持って、反朝廷派と戦ってきた物部氏の襲来を物語るものであり、同時に産金の氏族として、荒島周辺の鉱山開発に係わったことを、物語るものではないだろうか。
 
蕨生(わらびお)村

荒島岳の北西の麓に、蕨生村がある。この村のいわれについて、
『菖事記』に 「物部荒山公弟麻生連は笑原の祖也と見ゆ、荒島山の西北の麓に蕨生という村あるは笑原よこまれるなりといえり。」

 すなわち、蕨生村、麻生島は、荒馬神社の祭主物部荒山連公の弟、物部麻作笑連が開いたとしていて産金の氏族物部氏が開いた村である。 麻(アサ)は、金属を表す古語であり、麻作は産金を意味し、麻生島は、金属を生む場所の意味である。

 佐開(さびらき)村

 蕨生村の南に、佐開村がある。 真名川河岸段丘の上に位置する地で、縄文中後期の住居跡が発見されている。
 物部氏を祀る荒島神社は、現在この村に遷座している。 荒島岳と最も深い関係のあった村であり、〈越前地理便覧〉には(佐開村に荒島岳あり)とある。 サビラキのサはサテツ、サビなど金属を意味する言葉であり、佐開村は、産金を始めた村の意味であろうか。

若生子(ワコウゴ)村。 笹又〈ささまた〉村

 〈足羽社記〉によると、(若子倭香呉、今言、倭香呉雅子媛之御名代也)。 〈深山木〉によると、(若子の里は、おほどの天皇のみあらため、雅子媛の御名代といへり。) とある。

 御名代とは、皇族の名前を後世に伝えるため作られた上地で、皇室直接の隷属民が住む処を意味している。 すなわち、倭姫命天照大神の奉斎地を求めて遊行したさい、隋行臣の一人であった伊勢国造の大若子命が、荒振る賊達を平定した行跡を後世に残す為、この地を御名代とした、(そして、その支配圈は、真名川沿いの断層谷をとおり、穴馬の伊勢まで包含していたのはないか、) とされている。

 伊勢度会神主の系図の中で、(大若子命は、伊勢国造で、伊勢度会神主の子孫である。垂任期には天照大神が伊勢に遷幸されたときに、御供に仕奉した。)とある。
 穴馬伊勢には、伊勢皇太神宮〈神明社〉があり、倭姫命の天照大神遷座地であったという伝承が、古くから残っている。 若生子村が大若子命の御名代であり、穴馬伊勢も同一支配圈であったとしたならば、伊勢という地名の由来と倭姫命の伝承は、ここに起来するのであろう。

 ところで、若子という名称であるが、美濃不破にある伊福貴大明神には(若子臣は、祷祈を持って息を疾風に変化する。) とあり、フイゴの作用が出来るため、気福部臣〈伊福部臣〉の名を賜った、物部氏系である。

 美濃の物部氏族が、荒島周辺の鉱脈に目をつけ、進入し、その抗争の際、伊勢国造の大若子命の説話を持ち出し、皇祖神天照大神を祀りながら次第に鉱脈を確保していった。若生子御名代は、その時の伝承ではないだろうか。

  神社  話題  登山  今立町

荒島岳登山

     平成11年5月1日(土) 晴れ         登山参加者 5名

中出コース(予定)

 みずごう(25分)

 二又(1時間45分)

 小荒島(20分)

 シャクナゲ平(1時間)

 荒島岳山頂

 みずごう(2時間20分)

中出コース(実行程)

 林道終点    9時30分

 小荒島岳   10時35分−55分

 シャクナゲ平 11時15分−20分

 荒島岳    12時10分−13時35分

 シャクナゲ平 14時15分−20分

 林道終点   15時25分

荒島神社 奥の院

登山日記

 五月一日朝七時、会社の駐車場に集合。 メンバーは最初は十名の予定だったが、天候の都合で日にちが変更になり五名になってしまい、ドタバタしたりして出発は八時頃になってしまった。

 まず、大野に着くと佐開の荒島神社に参拝し、隣村の蕨生中出に向かう。 林道を車で登って途中から歩くつもりだったが、行き止まりまでいってしまった。 登山道の脇に車を止め、ここから登り始めるが、予定の一時間近くは短縮してしまったようだ。 登山道は、やや急になったり緩やかになったりで登りやすいが、展望はなく一時間ほどで小荒島に着いた。 小荒島は尾根の上の小山になっており、荒島岳を背にまわりの山々や大野盆地を一望に見渡すことができる。 もう少し行くとシャクナゲ平で、勝原コースと合流する。 ここからが大変、急峻な登りが続くのである。頂上まで三段の尾根になっていて、最初の一段が厳しいのです。 山の陰にはまだ残雪が結構残っていて、登山道にはほとんどないが濡れているため、何人か下りでは滑ってしまった。

 頂上に着くと、雪渓がかなり残っており、コンクリートの無線中継所、巨大な電波反射板が二面どっかりと居座っています。 その間に荒島神社奥の院の小さなお堂があり、中には石仏が多数収められていました。 お堂の後ろに石碑が建っており、どういういわれかはわかりません。

 頂上からの展望はいうことはありません。 雪をいただいた山々が荒島岳を取り囲み、眼下には大野平野が一望できます。 特に今は田植えのシーズンでもあり、大野の町が水面に浮かんでいるようにもみえます。

 しかしやはり最大の問題は、頂上にある中継所の建物と反射板ですね。 立地条件が良かったのでしょうけど、歴史的ないわれのある山でもあるというのに、もう少しの配慮があっても良いのではないかと思われます。 この二つがなかったらどれだけ変わるだろうか、と頭に描いてみたりしてしまいました。

※ 2000/11 頂上の中継所の建物は、現在使用されていないため、また、登山者よりの苦情が多いためようやく撤去することに決定したようです。


荒島岳の頂上すっきり   −平成15年10月25日 福井新聞 より−

 荒島岳山頂にある電波反射板がこのほど、36年ぶりに撤去された。 跡地では埴生復旧に向けた試みも始まっている。

 反射板は和泉村の九頭竜ダム完成に伴い、1969年に設置。 前年に建設された鉄骨2階建ての無線中継所と共にダム水位や放流量、画像情報などやダムへの指示を大野市の管理事務所との間で送受信する中継を担ってきた。
 国土交通省では、災害時の通信ネットワークの信頼性向上に向けた整備計画に基づき、和泉村の越戸谷村に反射板、大野・勝山市境の保月山に無線中継所を新設。 撤去費用は約1000万円。 ヘリコプターで重機を運び上げ、5日で作業を終えた。

 跡地には山頂付近に分布するハクサンフウロ、やシモツケ、クガイソウなどの種をまいた。 来春には発芽するという。


まぼろしの大垂平成15年5月5日(月)晴れ     登山者2名と1匹

 荒島岳登山のコースに裏から登る「下山コース」というのがある。 5時間近くかかるが、このコースのメインはなんといっても「まぼろしの大垂」という大滝である。 この大滝をぜひ見たいという事で決定する。

 大野より九頭竜ダムにむかい、中竜鉱山跡方面の手前、下山に入る。 林道を終点まで車で上り9:30着。 他に4台ほどあったが、山菜採りや岐阜蝶を探しの人たちばかりでした。
 コースはここより尾根づたいに上まで登り、一気に谷まで下る。 その途中に大滝が見えるという。 荒島岳へは、その谷からまた一気に頂上に向けて登っていく過酷なコースである。 

 9:40登山開始。 尾根の登りは急ではなく楽に登れます。 天気が快晴なので暑さのほうがきいてます。 キースは雪渓の所に来ると体を雪の上にこすりつけていました。 10:30尾根の頂につき、ここより一気に下りとなる。 さすがに急であり、ロープが所々に配置してある。 そんなわけでここを下まで降りるのは、また登ることを考えたら即パス。 で、大滝のよく見えるあたりまで降りて休憩となる10:40。 

 11:20出発(帰り)。 尾根の途中日陰にて昼食11:50。 今から滝までと言う登山者と2回すれちがう。 12:50出発。 キースは最後の方になって遂にダウンみたい。 暑さ、疲れ、満腹などのせいか、動こうとしなくなりました。 仕方がないので、おぶっておりました。13:15着。

 春の足慣らしにと来たのですが、ちょっと短すぎたようだ。 かといってあの急斜面を下まで降りてまた登るという過酷なことはしたくないし、まあこんなんでもいいかと納得。



荒島神社(佐開村鎮座)   
祭神      物部大連ノ霊  天津児屋根命

社名      神社明細帳では荒島神社。 『越前国官社考』は 「当社は荒島ヶ嶽に座す荒島大権現也」 とある。 神社明細帳に越前国大野郡佐開村五五番地字下宅地とある。 同帳の由緒の項に 「明治元年八月村人相謀リテ荒島岳ノ頂ヨリ今ノ世ニ遷宮ス」 と出ている。 旧鎭座地は荒島岳(1,524m)の四合目にあつたという。 現在は杉が植えられている。


社殿      もと春日神社の境内に荒島神社が山から下りて合祀となった。 山の神社は七間四方の堂であったという伝承がある。
      本殿 流造、間口一間・奥行一間半、神社明細帳では本殿、前口二間・奥行二間三尺であった。
      拝殿 七坪五合、神社明細帳のころは前口二間・奥行二間三尺であつた。
      鳥居二基、神庫五坪五合。


境内神社  境内神社は五社。 白山神社(伊邪那美尊)神明神社(天照皇太神)天満社(菅原大神)八幡神社(応神天皇)村上神社(少彦名命)
         神社明細帳には由緒不詳となっている。
境内神社   天満宮  白山神社  村上神社  神明神社  八幡神社

 創立年代不詳、社伝によれば 「大野郡式内神社 九座の一座なり」 という。 『神社明細帳』 に 「明治元年八月村人相謀りて荒島岳の頂より今の地へ遷宮す。 木像は従来岳頂の堂宇に遺存せしも、明治四十三年八月現今の境内に遷し、神宝として神庫に保存す。 明治九年村社に被列」 と記している。

中山正治著 「穴馬の歴史と伝説」より