荒島岳(1524b)

荒島岳
大野の東にそびえる荒島岳は「大野富士」とも呼ばれ、山もまた越の大哲・泰澄によって開山されたといわれる。 信仰の山としてあがめ近世まで人を寄せつけなかったと伝える。
この山は、和銅六年(722)に書かれた風土記によれば「蕨生(わらびょう)山」という名で表されており、延喜式には「阿羅志摩我多気(あらしまがたけ)」と書かれている。 延喜式を作らせられたのは、醒醐天皇の延喜五年(九〇五)で、風土記が書かれてから二百年後で「蕨生山」が「荒島岳」になったのだろうか。 和名抄という本には「大山」と書かれており、絵図記(貞享二年、一六八五)には「嵐間ケ嵩」の字を使い、仙人がいた山で「仙山」ともいうと、但書をつけている。またいつから呼ばれたかは定かでないが、「越の黒山」ともいわれてきた。
この山には荒島神社が鎮座されている。 延喜式によれば、継体・安閑・宣化・欽明・敏達天皇の朝廷に仕えた物部氏らの祖霊をまつり、社の麓には佐比良気(さひらき)村(佐開村)・和良比婦(わらひふ)村(蕨生村)ありと書かれている。
また荒島神社には、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿祢をまつるとか。 本朝世紀や日本地名辞書には、式内荒島神社は土俗白山権現をまつるという。
「荒島岳高さ五〇町余、半腹より上に白山三社を祭る。 それより上は草木繁茂して登るべからず。 近来採薬の為に登る人あり。 その人の云へるは社と称すべきものはなくて、至って小さき石禿祠あれども半ば埋れて、安置の像もさだかならず。 夫より上は小竹のみ生茂りたるを踏分けて登るに、絶頂にいたるまで尺余の閑地なし」 とある。
享保書上げでは 「山頂神祠の尊体(御神体)真名川に落下流出云々」 とある。また万延元年八月(一八六〇)「嵐山紀行」を書いた横田莠(はくさ)は、「佐開から頂上までの三分の一くらい登った所に、一反歩(10e)程の平地があって、周囲15b、樹幹七株に分かれた古杉が亭々として直列し、杉の前に小祠があって木仏が安置されている。 しかし頭のみ、傍にまた六体の木仏があるが、自然の風化作用によって、顔面など摩滅して、何様であるか分りようがない。 可成りの年月を経過したもので、覚えず合掌礼拝をした。」云々と書いている。
荒島の神をまつる荒島神社は、天児屋根命と物部氏の先祖とを合祀し、佐開から少しばかリ登った鬼谷の中腹に鎮座したが、度々の山崩れで祭神もろとも流出して、祭神の頭だけは拾い上げられ安置されている。 別殿にあった六体の木仏は、いまいっしよに合祀され、どの仏体も古めかしく年代の経たものである。 荒島岳は殺生禁断の制札を掲げて一般の立入りを許さず、もし登るとすれば鬼谷から登った。
影響録に 「この山、烏類制禁の地なるに、大野の人、推して持登りて怪異あり」 ...と書かれており、また帰雁記には 「荒島嶽には餐霧(さんむ)という仙人の住居せる山といへり、これは常陸房(ひたちぼう)が事なりと言う者あり。 かかる事もや侍りなん、延喜式には荒島神々というあり、今もありや...」云々、と書かれている。
郡史によると、旧上庄村佐開の荒島神社は、もと嶽頂にあったものを、明治元年八月 現地に遷したといわれる。 村の人の話では、鬼谷に本殿、山頂に奥宮があり、本殿の跡は八畳ほどで大きな杉の切株もあり、昔は鬼が棲むといってこわがられた。 また鬼谷は「蛇谷」ともいい、毒蛇も多かったと伝えられる。 鬼谷の山崩れは明治二十四年十月にも発生し、堰堤工事が明治三十年(一八九七)から始められた。 鬼谷は崩壕を続け、壮年期の侵蝕地形を呈し、この名がつけられた。
昭和三年には頂上に、石造りの御堂が建てられて、印度から渡来した観音がまつられた。 荒島岳の登山は明治以降から次第に盛んになり、中出・勝原・佐開・下山からの四コースがある。 中出・勝原の両コースは福井国体の山岳部門のコースとして使用したために、要所には立派な道標も立てられ道もよく整傭されているので歩きやすい。
佐開コースは開山以来の登山道であったが、前者に株を奪われ、沢登りやヤセ尾根などを登り、夏草が茂るとわかりにくい道であり、下山コースは大垂(おおだる)ノ滝を目的として、最近福井工業大学の人達で開発されたばかりのコースである。 経験の豊富なガイドをつける上級向のコースである。
この山は大野郡の中央に位置し付近に高い山がないため、山頂からは三六〇度の展望がほしいままにできる。 北東に白山の霊峰を、その右へ別山、三ノ峰、二・一ノ峰の連山が、願教寺山、赤兎山、経ヶ岳、法恩寺山などが。 南東を見渡すと御岳や乗鞍岳や北アルプス連山の雄姿までが望見できる。 西側には部子山や銀杏峰がすぐそこに見え、眺望において県内一であろう。
(山々のルーツ「上杉喜寿」より)

平成11年5月1日(土) 晴れ 登山参加者 5名
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みずごう(25分) 二又(1時間45分) 小荒島(20分) シャクナゲ平(1時間) 荒島岳山頂 みずごう(2時間20分) |
林道終点 9時30分 小荒島岳 10時35分−55分 シャクナゲ平 11時15分−20分 荒島岳 12時10分−13時35分 シャクナゲ平 14時15分−20分 林道終点 15時25分 |
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登山日記
五月一日朝七時、会社の駐車場に集合。 メンバーは最初は十名の予定だったが、天候の都合で日にちが変更になり五名になってしまい、ドタバタしたりして出発は八時頃になってしまった。
まず、大野に着くと佐開の荒島神社に参拝し、隣村の蕨生中出に向かう。 林道を車で登って途中から歩くつもりだったが、行き止まりまでいってしまった。 登山道の脇に車を止め、ここから登り始めるが、予定の一時間近くは短縮してしまったようだ。 登山道は、やや急になったり緩やかになったりで登りやすいが、展望はなく一時間ほどで小荒島に着いた。 小荒島は尾根の上の小山になっており、荒島岳を背にまわりの山々や大野盆地を一望に見渡すことができる。 もう少し行くとシャクナゲ平で、勝原コースと合流する。 ここからが大変、急峻な登りが続くのである。頂上まで三段の尾根になっていて、最初の一段が厳しいのです。 山の陰にはまだ残雪が結構残っていて、登山道にはほとんどないが濡れているため、何人か下りでは滑ってしまった。
頂上に着くと、雪渓がかなり残っており、コンクリートの無線中継所、巨大な電波反射板が二面どっかりと居座っています。 その間に荒島神社奥の院の小さなお堂があり、中には石仏が多数収められていました。 お堂の後ろに石碑が建っており、どういういわれかはわかりません。
頂上からの展望はいうことはありません。 雪をいただいた山々が荒島岳を取り囲み、眼下には大野平野が一望できます。 特に今は田植えのシーズンでもあり、大野の町が水面に浮かんでいるようにもみえます。
しかしやはり最大の問題は、頂上にある中継所の建物と反射板ですね。 立地条件が良かったのでしょうけど、歴史的ないわれのある山でもあるというのに、もう少しの配慮があっても良いのではないかと思われます。 この二つがなかったらどれだけ変わるだろうか、と頭に描いてみたりしてしまいました。
※ 2000/11 頂上の中継所の建物は、現在使用されていないため、また、登山者よりの苦情が多いためようやく撤去することに決定したようです。
荒島岳の頂上すっきり −平成15年10月25日 福井新聞 より−
荒島岳山頂にある電波反射板がこのほど、36年ぶりに撤去された。 跡地では埴生復旧に向けた試みも始まっている。
反射板は和泉村の九頭竜ダム完成に伴い、1969年に設置。 前年に建設された鉄骨2階建ての無線中継所と共にダム水位や放流量、画像情報などやダムへの指示を大野市の管理事務所との間で送受信する中継を担ってきた。
国土交通省では、災害時の通信ネットワークの信頼性向上に向けた整備計画に基づき、和泉村の越戸谷村に反射板、大野・勝山市境の保月山に無線中継所を新設。 撤去費用は約1000万円。 ヘリコプターで重機を運び上げ、5日で作業を終えた。
跡地には山頂付近に分布するハクサンフウロ、やシモツケ、クガイソウなどの種をまいた。 来春には発芽するという。
平成15年5月5日(月)晴れ 登山者2名と1匹
荒島岳登山のコースに裏から登る「下山コース」というのがある。 5時間近くかかるが、このコースのメインはなんといっても「まぼろしの大垂」という大滝である。 この大滝をぜひ見たいという事で決定する。
大野より九頭竜ダムにむかい、中竜鉱山跡方面の手前、下山に入る。 林道を終点まで車で上り9:30着。 他に4台ほどあったが、山菜採りや岐阜蝶を探しの人たちばかりでした。
コースはここより尾根づたいに上まで登り、一気に谷まで下る。 その途中に大滝が見えるという。 荒島岳へは、その谷からまた一気に頂上に向けて登っていく過酷なコースである。
9:40登山開始。 尾根の登りは急ではなく楽に登れます。 天気が快晴なので暑さのほうがきいてます。 キースは雪渓の所に来ると体を雪の上にこすりつけていました。 10:30尾根の頂につき、ここより一気に下りとなる。 さすがに急であり、ロープが所々に配置してある。 そんなわけでここを下まで降りるのは、また登ることを考えたら即パス。 で、大滝のよく見えるあたりまで降りて休憩となる10:40。
11:20出発(帰り)。 尾根の途中日陰にて昼食11:50。 今から滝までと言う登山者と2回すれちがう。 12:50出発。 キースは最後の方になって遂にダウンみたい。 暑さ、疲れ、満腹などのせいか、動こうとしなくなりました。 仕方がないので、おぶっておりました。13:15着。
春の足慣らしにと来たのですが、ちょっと短すぎたようだ。 かといってあの急斜面を下まで降りてまた登るという過酷なことはしたくないし、まあこんなんでもいいかと納得。
荒島神社(佐開村鎮座)
祭神 物部大連ノ霊 天津児屋根命
社名 神社明細帳では荒島神社。 『越前国官社考』は 「当社は荒島ヶ嶽に座す荒島大権現也」 とある。 神社明細帳に越前国大野郡佐開村五五番地字下宅地とある。 同帳の由緒の項に 「明治元年八月村人相謀リテ荒島岳ノ頂ヨリ今ノ世ニ遷宮ス」 と出ている。 旧鎭座地は荒島岳(1,524m)の四合目にあつたという。 現在は杉が植えられている。
社殿 もと春日神社の境内に荒島神社が山から下りて合祀となった。 山の神社は七間四方の堂であったという伝承がある。
本殿 流造、間口一間・奥行一間半、神社明細帳では本殿、前口二間・奥行二間三尺であった。
拝殿 七坪五合、神社明細帳のころは前口二間・奥行二間三尺であつた。
鳥居二基、神庫五坪五合。
境内神社 境内神社は五社。 白山神社(伊邪那美尊)神明神社(天照皇太神)天満社(菅原大神)八幡神社(応神天皇)村上神社(少彦名命)。
神社明細帳には由緒不詳となっている。
境内神社 天満宮 白山神社 村上神社 神明神社 八幡神社
創立年代不詳、社伝によれば 「大野郡式内神社 九座の一座なり」 という。 『神社明細帳』 に 「明治元年八月村人相謀りて荒島岳の頂より今の地へ遷宮す。 木像は従来岳頂の堂宇に遺存せしも、明治四十三年八月現今の境内に遷し、神宝として神庫に保存す。 明治九年村社に被列」 と記している。