覆面議員さんのお話 
 
 例の覆面議員さんの問題が一応解決したようです。

 言うまでもなく私個人は、この覆面問題に関しては“容認派”です。私自身はみちのくプロレスの興行を直接生で見た事はないですし、ザ・グレート・サスケというプロレスラーのファンでもありません。ただ県議会議員選挙に出てトップ当選した事は素直に凄いと思いましたし、その後の様子を見て彼のファンになりました。言うなれば「プロレスラーとしてではなく議員としての彼のファンになった」訳です。

 私は当時の岩手県議会議員選挙の様子は知りませんから、どういう経緯や雰囲気の中でサスケ議員が当選したのかは分かりません。しかし少なくとも彼は選挙ポスターも覆面姿で写り、公約にも「覆面のまま議会に出ます。」と公言したようです。しかも議員活動に専念するためにみちのくプロレスの社長も辞めた。となれば、彼は本気で県議会議員としての仕事を全うする気なのでしょう。そして何よりも彼に投票した有権者は彼の覆面着用を容認し、それで当選に必要なだけの支持者を集めたのです。もし彼が周囲の反対を受けて覆面を取って議会に行けば、その時点で彼は公約違反を犯した事になります。それでも彼に「覆面を取れ!」と迫った方々は、じゃあ実際にそうなって彼が有権者から責任を追及された時に「まあ我々が無理を言って覆面をご遠慮願ったので、その辺はご理解の程をお願いします。」等と彼をかばう言動を取ったでしょうか・・・多分無理でしょうね(笑)。まあサスケ議員自身は、覆面着用が認められなかった場合には辞職まで考えていたようですけど。

 岩手県の人口は140万人ちょっとだそうです。果たしてそのうちサスケ議員の覆面着用を認める人、認めない人、そして関心がない人の比率はどの位なんでしょうか。ただ今回の一連の騒動で我々が垣間見た事実は「覆面着用を公約したサスケ議員がある選挙区でトップ当選した。」そして「それにやはり同じ県議会議員選挙で当選した一部の議員が異議を唱えた。」たったこれだけです。例えばその後インターネット上の掲示板等からマスク着用に賛否両論が出た。しかしそれはこういう事実を本当の意味で容認できたり否定できたりする物ではありません。これは私がこうやって書いているこのエッセイにしても同じです。少なくとも岩手県民以外のすべての日本国民がサスケ議員の覆面着用を否定しても、法律上それでサスケ議員を免職にする事はできないのです。そして現時点では岩手県民の相当数がサスケ議員を支持しているし、今現在彼をリコールしようという岩手県民による大きな動きは起きていない。それが現実なのです。数万人の有権者がサスケ議員を支持して当選し、彼が覆面を付けたまま議会で活躍する事を望んだ。それに複数の議員が異議を唱えるというのは、ある意味多くの有権者の意向を無視するに等しい訳です。例えば汚職とかセクハラとか明らかな落ち度があるならまだしも、仮にも選挙で有権者が「覆面OK!」という意思表示した事を覆すのは、余程の根拠と覚悟が必要だろうと思います。そもそも反対派の議員は「私が当選したらサスケ議員の覆面着用を絶対に阻止します!」なんて選挙公約を掲げて当選した訳ではないでしょう。それを自分が得た得票を振りかざして同じ議員の活動を制限しようとする。本来はそれこそ長野県知事の不信任騒動並に「これがダメなら議員やめます!」位の覚悟は必要なんじゃないでしょうか。

 あとこういった議論の場では、よく“サイレント・マジョリティ”という言葉が出てきます。例えばさっき例に挙げた長野県知事の不信任騒動はどうだったのか。そもそも県民のサイレント・マジョリティは「田中知事のやり方で全然OK!」だったのに、それが気にくわない一部の議員が知事の不信任案を可決してしまったのです。つまり不信任案に賛成した方々は完全に“世論を読み間違えた”のです。見方を変えると、本来県民の世論を代表して動くべき県議会議員が、実は多くの県民の意見や世論を掴めていなかったのです。だから出直し選挙で田中知事は再選を果たした。ある意味当たり前ですよね。自分達が知事を叱責した事そのものが多くの県民の意識とは食い違った行動になっていた。彼らはその事にすら気が付いていなかったのです。サスケ議員の件にしても同じ事が言えるかもしれません。それこそ覆面着用に反対する議員に「なんかあの議員さんは頭が固いなあ。今までいい政治家だと思ってたのにちょっとガッカリした。」なんて見方をする人がいないとは誰にも言い切れないでしょう。少なくとも私だったらそう感じるだろうと思いますし。私に言わせると反対派の議員は岩手県という地域のサイレント・マジョリティなんか見ていなくて、要するに「自分達と相対する議員を叱責する格好の口実があったから利用しよう。」と思っているだけなのです。私だったらそんな議員には今後一切投票はしないですけどね。

 こういう話はインターネット上の掲示板なんかでもあります。ある意見や個人のやり方に対して誰も賛成意見を口にせず、1人あるいは2〜3人が強力な反対意見を唱える。そういう光景はよく見られますよね。じゃあその議論の元となった意見ややり方は本当に間違った、あるいは意味のない物なのでしょうか。その反対意見は世のサイレント・マジョリティを代表する物なのでしょうか。そんな事はないと思います。実は自分の意見を口にしなかった人の大部分、要するにサイレント・マジョリティは「この意見は当然だろう。」「こんなの当たり前すぎて賛成意見を書くまでもないよ。」と思っているかも知れないのです。(ひょっとすると単なる無関心なのかも知れないのですが。)ところがそこで反対意見を唱えた人間は、そういう様子を見てなぜか「ほら見てみろ。お前の意見に対する賛成意見はゼロで反対意見はこんなにある。だからお前の意見は間違っている、今すぐ訂正して謝罪しろ。」とか言い始めるのです。(いや確かに多数決でいうと1対0は1の勝ちなんですけどね。 (^^; )じゃああなた方が口にしたその反対意見は、そんなに多くの人達に支持されているのでしょうか・・・実はそれを示す根拠はどこにもありません。サイレント・マジョリティの動向を誰1人として掴めていない以上、この時点ではある意味“どちらの言い分も正しい”のです。となれば、当然その反対意見もある程度は取り上げるべきだとは思いますが、だからと言ってその元になった意見も引っ込める必要はないのです。立場的には両者は同じ状態であり、その重さというか重要度も同じなんですから。ただそういう場に唐突に不躾な文言を書くお子様とか、あと「俺様の意見こそ正義で絶対!」とか思い込んでる勘違い君が現れる事で、大抵話はおかしくなる訳ですが。 (^^; あと美容整形した個人を中傷する発言とか「死ね!」なんて類の便所の落書きにまで、意見としての正当性とか市民権があるとは到底思えませんし。

 意見とか主張という物は、自分である程度裏付けがある確固たる物を持っていて、なおかつある程度それを支持してくれる人達がいる、そういう状態でこそ有効に機能する物ですし、本来はそうなる事を目指すべきだろうと思います。やはり一定の賛同者が現れない意見や主張には存在意義は薄いんですよ。ですから自分で何か新しい意見を出すにしろ、人が書いた意見をある理由から否定/修正するにしろ、そうするにはそれなりの手順と準備が必要なんです。ましてや他人の主張や意見、あるいは立場を否定するのであれば、それに代わる元の案に比べてより大きな魅力を持った代案を示すべきなのです。サスケ議員の覆面が多くの有権者に支持された、その勝因の多くはサスケ議員自身の日頃の言動とか人柄、そして岩手県に対する貢献度にあったんじゃないでしょうか。世の中ってやっぱり個人のわがままは通らないように仕組みができてるんです。でもそれが多くの人達の共感を呼んだ瞬間に、時には個人の夢や目標が一人歩きまでして実現に動く事があります。私としては覆面を被った議員に「議会の権威が脅かされる。」なんて民間人にはよく分からない理由で異議を唱えるんじゃなくて、彼が覆面の着用も含めてなぜ多くの有権者の支持を集められたのか、その理由をよく見て自分自身の活動にも活かせる部分は活かして欲しいんです。そしてそれでもどうしてもサスケ議員を認める事ができないのであれば、自分がサスケ議員よりも魅力のある(票を集められる)議員になるべく努力すべきだと思います。さもないと、いつかそういう個人は“批判癖のある人”等と言われて誰にも相手にされなくなるのですから。

 それにしても、福井にもそういう個性的な政治家が現れませんかねえ。この前の知事選はそういう期待感のある候補が出馬して、本命ガチガチの候補をかなり追いつめるところまでいったんですけど。あ、ちなみに今回のエッセイは私個人の政治思想を語るための物ではないので、これをきっかけに私に対して政治論の問答を挑まれるのは御免被ります(笑)。私個人はいわゆる典型的な無党派層ですが、ちゃんと選挙には行って投票しています。