私的勝利条件 
 
 対戦型ゲームの世界では“私的な勝利条件”という話題が出る事があります。例えば Magic で言うと「このコンボが決まったら俺的には勝ち。」とか「このクリーチャーで1発でも殴れたら試合には負けても勝った気分。」とかいうあれです。当然ゲームにはルール上決められた勝利条件があるのですが、この私的な勝利条件はそれ以外の、言ってしまえばプレイヤーの自己満足的な部分になるかと思います。最近ちょっと感じているのですが、こういう勝ち方というか遊び方がユーザーによって数多く編み出される遊びは傾向として流行るし、逆にそれが画一化される遊びは一般論として廃れる。そんな気がしませんか。実際に対戦格闘ゲームにしてもトレーディング・カードゲームにしてもそういう傾向は見られると思いますし、その他対戦型ゲーム全般にこれは言えると思います。

 全盛期の格ゲーにしても Magic にしても、ユーザーは実に多種多様な楽しみ方をしていました。その実例がこの私的な勝利条件にも良く現れていたと思います。格ゲーでは多くのプレイヤーが自分お気に入りのキャラクタでの勝利を目指し、また複雑な連続技や戦術の修得に日々取り組んでいました。確かに対戦での勝利はゲームを楽しむ上での重要な要素ではあったのですが、それと同時にプレイヤーは自分が操るキャラクタとの一体感を味わう事にも趣を置き、それが達成できた時には対戦での勝利以上の喜びを味わっていたと思います。(そしてそういう一体感をより深く味わうためにグッズも売れたのです。)それは Magic といったTCGにしても同じだろうと思います。例えば自分が好きなカードと出会い、それを10枚/100枚あるいは1000枚と揃える。その事を対戦での勝利の何倍も重要視したプレイヤーだって数多くいました。また他の人が使わないカードの活用を目指したり、自分が考えたカードのコンビネーションをデッキで実現する。そういう達成感は間違いなくTCGを楽しむ上での重要な要素だったはずです。

 しかしそういう達成感というのは個人によって千差万別ですし、何と言っても抽象的すぎるのです。ですからゲーム情報を扱う雑誌等では極めて扱いにくい代物だったはずです。しかもそういうメディアで記事を書くライターは基本的には対戦で強いプレイヤーがなるものであり、従って「俺はこのゲーム界では凄い存在なんだ。皆俺様の事をもっと知ってもっと敬え!」と考える輩が少なからずいるのです。そうなると当然発信されるコンテンツは対戦での勝利のみに固執し、それ以外のゲームの楽しみ(あるいは価値観)を事実上否定する内容になります。対戦型ゲームは対戦で勝てるプレイヤーこそが偉い。だからこのゲームの対戦が強い俺は偉いんだ。そういう理論を明示的、あるいは暗示的に読者に押し付けた訳です。実際に格ゲーでも Magic でもありましたよねえ、そういう暗黒の時代が(爆)。そしてそういう雑誌の情報というのはある意味一部のプレイヤーに取っては絶対の存在なので、それが唯一の正義であり正論であり真実だと勘違いしてしまうのです。

 ただ実際問題として、そういう形でユーザーを煽ったゲームは結果として遠からず衰退しているのです。そして後に残るのは「対戦での勝利こそがゲームを遊ぶ唯一の価値だ!」と信じて疑わない、いわゆる“お寒いプレイヤー”が主力になります。でも普通はそんな人達との対戦が面白いはずがなくて、結果としていよいよ多くの人達がそのゲームを離れてしまうのです。それで実際に格ゲーは廃れた訳です。じゃあ Magic はどうかというと、要するに Magic という世界全体を競技指向で煽って、それこそ勝利至上主義が Magic 全体の正義としてまかり通る文化を作ってしまった訳です。デュエルルームでの平素のデュエルですら日本選手権を見据えてのテストプレーかも知れない。だから対戦相手がコピーデッキだろうがデュエル中の巻き戻しをとがめようが文句を言うのはおかしい。言ってしまうとそういう理論が Magic では主流派の意見としてまかり通ってしまっているのです。それが良いか悪いかの判断は多分誰にもできないでしょう。しかし結果として、それが嫌で多くの人達が Magic から逃げ出してる。それは紛れもない事実なのですが。

 格ゲーには1つのゲームに10名あるいはそれ以上のキャラクタが登場するはずです。またTCGはあるフォーマット(レギュレーション)で実現可能なデッキのバリエーションは、無限とは言いませんが無数にあるはずです。しかしいざ蓋を開けてみると格ゲーでは特定のキャラクタが特定の戦術を延々と繰り返し、しかも他のキャラクタではそれに対抗できない。TCGでは下手するとたった1つのデッキタイプが猛威を振るって他のデッキでは手出しができない。しかもそういうクソみたいなバランス取りしかされていないゲームが“競技”あるいは“勝利至上主義”という名の下に正当化されてしまう。勝ちたきゃお前もこれを使え。お前が負けたのはこれを使わなかったからだ。そういうゲームに満足できるユーザーはそれでいいと思います。でも皆さんはそんなゲームに初心者が手を出すと思いますか。周囲の人達がその様子を見て「このゲームは良くできている。」と思うでしょうか。何よりもそういうゲームには対戦での勝利以外の楽しみが無くなってしまうのです。そして“弱者は去れ”“ヲタクは去れ”的な思想が蔓延し、実際にそれに該当する人達はそのゲームから逃げ出してしまうのです。そうなればゲームなんて廃れるのは当たり前です。だってゲームの世界はまあ間違いなく、その弱者やヲタクがゲームにお金を出す事で市場が支えられているのですから。

 じゃあ、どうすれば対戦型ゲームは昔の賑わいを取り戻せるのか。それには何と言っても“価値観の多様化を認める(あるいは育てる)”事が最優先だろうと思います。最近 Magic では発売されるエキスパンションの販売不振が決定的になりつつあります。しかし例えば Magic に今でも熱心なカードコレクターが大勢生き残っていたら、あるいは「こんなヘッポコなカードは俺が使いこなしてやるしかない!」とかいう変な使命感に燃える人が現れて (^^; 色々なデッキを工夫して大暴れしていたら、ひょっとしたら今みたいな深刻な販売不振は起こらなかったのではないでしょうか。でも最近の Magic ではどういう訳か、デュエルに勝てないデッキはそれだけで悪であり存在価値はないのです。ましてやコレクターなんて人種には Magic 界での生存すら認められていない気がしますし、あまつさえWoC自身が「ヲタクな Magic コレクターは死ね!」と言わんばかりにカードイラストを画一化し、人気イラストレーターの首を切ろうとする。これで Magic が昔と同じ賑わいを維持できるなんて不可能でしょう。しかし実際問題として、未だに Magic の世界ではそういう主義が台頭しています。さすがにWoCやHJがそれを後押ししている以上、我々ユーザーがこれをどうにかするのは不可能なんじゃないかという気がします。

 で、実は先日K−1の試合を観ていてちょっと思いついたアイディアがあるんですよ。ある選手が入場行進の際に「1ラウンドで左のボディブローでKOするぜ!」という宣言文をプラカードに書いて掲げていたというのを見たのですが、あれを Magic なんかでもやってみればいいんじゃないかと思うんです。その宣言は別にデュエルでの勝利を掲げる必要はありません。極端な話「このロックが決まったら満足。」「対戦相手の土地は1枚たりとも場に残さん!」でいいのです。 (^^; そうするとあるデュエルにおいて、対戦しているプレイヤーが2人とも勝利条件を満たす場面も出てくると思います。そうなったら別に“2人とも勝者!”でいいんじゃないでしょうか。それで特に何か不都合な事はないですよね。でもこんな事はそれこそ全盛期の格ゲーや Magic では当たり前のようにできていた話なんですが。対戦者が2人とも狙っていた連続技を決めてガッツポーズとか、2人ともデッキの理想起動が実現して2ターン目終了時点で手札が空になったとか(笑)。そうなるとその後試合に勝てるかどうかなんて運の問題だし、そもそもさほど大した重要度ではなくなるでしょう。まあTCGの場合ですと勝利条件の開示=デッキがネタバレするという問題があるので、勝利条件は伏せておいて試合終了後に開示するという方法が適当かも知れません。

 創生期〜全盛期のゲームでは普通にできていたことが、途中でなぜかできなくなってゲームが衰退する。これはよくある事です。人間を始めとする生き物がバランス良く栄養を摂取しないと生命を維持できないように、ゲームだって実はメーカーやユーザーの緻密なパワーバランスで世界が維持されているのです。対戦型ゲームではユーザーの多くが勝利を目指す。これは今さら言うまでもなく当然の流れです。だったらより多くのプレイヤーが自分なりの勝利条件の実現により達成感を味わう。対戦で負けたプレイヤーも何かを得られるような雰囲気をゲームの中に作り出す。本来ゲームを推進する側はそういう気運を育ててユーザーを育成すべきなのです。そうやってあるゲーム界を構成するすべての細胞(=ユーザー)が活性化してこそゲームは末永く遊ばれ続けるし、結果としてメーカーに最大の利益をもたらすはずなのです。そしてそういう発想を忘れたゲームは滅びる。これは既に歴史が証明している話なのですが、相変わらず分かっていないメーカーや販売サイドが多いのが何とも困りものです。

あいせんの“本音の部分”

 実を言うと私個人はここ最近になって「 Magic は本気でつまらなくなった。」と感じています。それはなぜかと言うと Magic の世界でカードコレクションの話題がほとんど取り上げられなくなったからです。

 私の“牛姉コレクション”は、言うまでもなく私個人の自己満足のためにやっている事です。しかし昔はそれでも私のファイルを見て「これ凄いですね。」「よく集めたなあ。」といった好意的なコメントを言ってくれるデュエリストが結構いました。言うまでもなくそういうコメントはやはりうれしいし、更にコレクションを増やそうという励みにもなるのです。でも最近はというと、そもそも Aysen Crusader というカードを知らないデュエリストが圧倒的多数で、コレクションには全く興味を示さないデュエリストも割合的にかなり多い。そんな状況では私自身コレクションの励みようがないし、何よりもコレクションという活動そのものが停止してしまうのです。多分これは日本国内の Magic コレクターの大部分が感じているであろう印象だと思いますが。

 実はこれと似たような事が競技 Magic でも起こっている気がします。最近の競技 Magic ってデッキの出典やオリジナルを誰が作ったかには興味が薄くて、その時点での最強デッキは何でどういうレシピかという話題のみが大きく扱われます。これは某雑誌にしてもインターネットにしても基本は同じでしょう。つまり自分でどんなに工夫してデッキを作ろうが、それで今流行っている最強と言われるデッキに勝てなければ、そのデッキの存在価値はもはやゼロなのです。そして何かの弾みで地区予選を上位で通過できるデッキなんか作ろうものなら、途端に「レシピ公開しやがれ!」「本戦終了まで秘密なんて、お前は心底クズな卑怯者だ!」とまで言われてしまうのです。(本来我々がそのデッキビルダーにかけるべき言葉は「自分で考えたデッキで地区予選通過ですか。凄いですねえ。」だと思うのですが。)そういう雰囲気の中でそれでも知恵を絞り手間をかけて自分でデッキを作る。そこまで頑張って競技 Magic に取り組んでいる人がいるとすれば、私個人は素晴らしい事だと思います。しかし実際問題として多分日本にはほとんどいないんじゃないでしょうか。多くのデッキビルダーもコレクターと同じように Magic に取り組むためのモティベイションとか活力みたいな物を失っているはずです。そういう状況で日本から世界を席巻できる独創的なデッキが生まれるか。まあ無理でしょうね。

  Magic 販売店が売り上げというエネルギー無しでは維持されないように、コレクターやデッキビルダーもまた某かのエネルギー無しでは Magic と関わり続ける事は難しいのです。じゃあこの両者のエネルギーは何なのか。それは自分のコレクションやデッキが多くの人達の目にとまり、そして話題になったという事実なのです。でも最近の Magic って使われるカードと使われないカードの落差が激しすぎて、デッキビルダーが自分なりの工夫を盛り込む余地がどんどん失われている印象を受けます。しかもカードイラストもどんどん画一化している。これでは競技で使われる一部の人気カード以外が活躍する場は本気で無さそうです。こういう状況でコレクターやデッキビルダーが昔のように Magic を楽しめるのか。私個人は不可能だと言い切って構わない気すらしています。日本の Magic の主流はあからさまな競技指向、というか競技偏重です。ですからそういう状況でも Magic はやっていける、そういう判断がWoCやHJにもあるのかも知れません。しかし日本のデュエリストの全員が全員競技プレイヤーではないはずですし、また全員が全員コピーデッキで Magic を満喫できる訳でもありません。だからその“主流派に入れなかった人達”がどんどん Magic を離れていて、しかもどうやらそういう人達は全体としてそんなに少数派ではなかった。これが現実なのだろうと思います。

  Magic というTCGがデュエリストを呼び戻して昔の繁栄を取り戻したいと思うのであれば、何よりもそういう人達に“やっぱり Magic ってこんなに楽しいんだ”という経験を数多くさせる事を考えるべきだろうと思います。しかしそのための施策として今の構築戦や限定戦フォーマットがほとんど何の役にも立たない。これは既に歴史が証明しています。昔の Magic はイラストの良さで売れ、デッキ構築の面白さで売れていたのです。そういう魅力が最近の Magic からはどんどん薄れている。だから売り上げは落ち、お店もプレイヤーも Magic から離れている。たったこれだけの事なんですよ。じゃあ具体的にどうすればいいのか。それはWoC自身に是非とも考えていただきたいものです。だってあなた達はこんなヲタクなコレクターの苦言になんか耳を貸す気はないんでしょうから(笑)。

   

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