モノポリーを考える 
 

第1部:2001.10.7 日本選手権 北陸予選 回顧録

 10月7日にフェニックス・プラザで開催した(“開催された”でない所に注意 (^^; )モノポリー日本選手権・北陸予選にスタッフ&プレイヤーとして参加しました。

 参加者総数は30名で、そのうち北陸地方(富山県/石川県/福井県)の方は10名程でした。この数はイベントの周知期間が短かった割には上出来ではないかと思っているのですが、これには日本モノポリー協会や全国各地のモノポリーサークルの関係者諸氏、また福井でのモノポリー普及に志を持って新聞紙面やインターネット上に広告を掲載して下さったH氏の貢献が大きかったと感じています。またプレイベントとして企画した前夜祭から多くの皆様のご参加を頂きました。この場をお借りしまして改めて感謝申し上げます。 m(__)m

 当日の会場の雰囲気は、かつて私が開催したり参加してきたTCG等のイベントの物とはある種異なる感じでした。表向きには全くと言っていい程緊迫感の無い和やかな雰囲気なのですが、しかしそれが大会の開催とほぼ同時位に何とも言えない空気に変わりました。ちょっと私の文才では、あの雰囲気を言葉で書き表すのは至難の業だと思います。ただ私の日頃の活動を知っている方々には「その雰囲気に当てられて私が司会進行をしどろもどろになってやっていた。」と書けば、何が起こったのか少しは感じて頂けるのではないかと思います。 (^^; またイベントの進行は(イベント慣れしている遠征スタッフの皆様のご尽力により)非常にスムーズでした。遠征先でいきなり開いたイベントであれだけの運営ができるのは流石だな、と思わず感心する事しきりでした。

 大会での私個人の成績ですが、これが“3回戦を戦って(!?)すべて3位”という何とも中途半端な物でした(笑)。私が途中で完全に主導権を握った試合を自分で場を動かした事で結局メンバーの力関係が均衡して・・・というケースもありました。私自身最近のモノポリーを十分に理解している訳でもないため物件の相場等結構手探り状態でのプレーでしたので「それにしては良くやった方かな?」と感じています。イベント全体としては北陸地方からの参加者が決勝テーブルに2名残ったのですが、最後は遠征組の方が優勝されました。(あ、これに関して私個人は「これはこれで良かったかも。」と感じています。その理由はこの後第2部で少し触れる事になるでしょう。)あと大会終了後の抽選会が爆笑物で、記念品授与のために優勝者の方に引いて頂いたくじが軒並み遠征組の方々に当たり、その遠征組の皆様から「(なんで地元の人間を当てないんだ。)こいつ使えねえ!」とかブーイングを食らっていたりとか。 (^^;;;

 開始早々私が“掴み”を大失敗してどうなる事かと思われた大会ですが (^^; 最後は非常に良い雰囲気で終わる事ができました。ただ大会の最後にもコメントしたのですが、これは“北陸地方の選手権予選の1回目”な訳です。2回目あるいは3回目以降をどうするのか?。特に北陸地方でのイベントの知名度や参加者数アップをどう考えるのか?。とまあ、今後に考えるべき事&やるべき事は山のようにあるのです。


第2部:素人の頭で考える“モノポリーの将来像”
 第2部として、私が北陸予選での経験等から考える“モノポリーの将来像”を書いてみます。

 ○ モノポリーの世界

 これは掲示板でも書いたのですが、今回の日本選手権が“思ったよりも狭い世界での話”になっている、そういう雰囲気を私はちょっと感じています。(いきなりこんな導入ですいません。 (^^; )

 これは良いか悪いかの話ではないのですが、モノポリーというゲーム自体の知名度の割に、こういったモノポリーのイベントに興味を持たれたり実際に参加される方が限られている。私はそう感じています。例えば私の知り合いに“ゲームの探求”を唱って活動をしている大学サークルがあるのですが、そこのメンバーですら今回の選手権に関しては“他人事”であるという雰囲気を感じました。あ、勘違いしないで欲しいのですが、私は決してその事自体をとやかく言うためにこの事例を引き合いに出した訳ではありません。ただそういう現実を特にモノポリーのイベントを推進している皆様に知って欲しい、そう考えているだけです。

 これは Duelist Fukui が推進しているトレーディング・カードゲーム(TCG)にも見られる話なのですが、どうも1つの遊びに趣味として取り組む方々に比べ、競技として取り組む方々は“浮く”傾向が見られます。 (^^; しかも競技プレイヤーの中には競技として取り組む事が唯一の正義であるかのような誤解をし、そうでないプレイヤーを自分達の下に見るような傾向すらあるのです。すると何が起きるかというと“競技的発想の遊び方を一般プレイヤーに押し付ける”事を始めます。ただはっきり言ってしまいますが、これって一般プレイヤーから見ると決して有り難い話ではありません。中にはそういう発想や思想の押しつけを嫌い、その遊びから離れてしまうプレイヤーだって少なからずいるのです。

 こういう論理が飛躍しすぎである事を理解した上であえて書くのですが、私個人は「だからモノポリーの競技人口は増えないのではないか?」と感じています。元々こういった趣味は遊んで楽しいから始める訳だし、だから長続きするし人が集まる(=プレー人口が増える)のです。しかし私の目から見る限り、モノポリー日本選手権というイベントを推進する過程の中に「モノポリーは楽しい遊びなんだ!」という視点なり提案がやや欠落している気がします。だからそれを見た一般人が関心を持たない。そういう図式になっている印象を私は受けるのです。

 ○ 分かりにくい“常識”

 上に挙げた“競技プレイヤーと一般プレイヤーとの意識の違い”に関して、私が気が付いた実例を書いてみます。

 現在の競技モノポリーでは“自分の順位を少しでも上げる”事を重要視します。今は残念ながらトップ目こそ無いが、ここで交渉をまとめる事で自分の順位が少しでも上がるならやる価値はある。とにかく破産しないように生き残って少しでも上の順位を目指せ。そういう発想は競技モノポリーではごく当たり前の物ですし、実際それを実現するために競技モノポリーのセオリーは構築されているようです。

 しかしはっきり言ってしまいますが、こんな発想は普通にモノポリーを遊んでいる人間には多分理解できないと思います。極端な話、他人に特定の色の物件をまとめさせるような交渉を自分から持ちかける発想からして理解できないでしょうし、また流石にトップ目が無くなったら「もう君の1位でいいから次のゲームをやろう!」になると思うのです。それが「いや君にもまだ2位になる目があるから頑張れ!」と言われても「それが何になるの?。トップになれないなら同じじゃん。」という反発を受けるだろうと思うのです。

 それと“仮破産したプレイヤーを他のプレイヤーが助ける”という話です。これってパッと見ると上の話と完全に矛盾しているのです。他のプレイヤーが破産すれば自分の順位が確実に上がるのに、なんで自分が損をしてまで助けるのか?。それに対する説明が全くないのです。プレイヤーが1人いれば1周毎に$200のサラリーが外部から供給されるからゲーム内の総資産が増える。また1位の人間を蹴落とすにはより多くのプレイヤーで狙い撃ちにした方が可能性が上がる。だからプレイヤーを簡単に破産させる事には自分に取ってもデメリットが大きい。多分そういう事なのだろうと私は勝手に解釈しています。でもそういう話を理解してもらうのってなかなか難しいですよね?。

 競技モノポリーでの発想やプレイングは、普通にモノポリーを遊んでいるプレイヤーにはなかなか気が付いたり身に付いたりしない物が結構ある気がします。ただそういうスキルが少なくとも日本選手権という場でのモノポリーには間違いなく求められますし、しかも例えば前夜祭といったフリー対戦の機会にすら要求される。私は以前からこういうのを“ゲームの敷居の高さ”と表現しているのですが、要するに競技モノポリーは一般のモノポリーに比べても敷居が格段に高いのです。元々モノポリーというゲーム自体が決して敷居の低い遊びではないと私は感じています。その敷居を更に競技プレイヤーが高くしてしまっている。これはTCGでも全く同じ問題が起きているのですが、だからプレー人口そのものが伸び悩んで結局は競技人口の伸び悩み(あるいは減少)にもつながってしまうようです。

 ○ モノポリーって何なの?

 これは決して十分とは言えない私個人のモノポリーの体験から言うのですが、本当にモノポリーってボードゲームなのでしょうか?。最近私は「実はモノポリーってボードゲームじゃなくてテーブルトークRPGなんじゃないの?」と感じるようになっています。 (^^;

 モノポリーというゲームは「自分が資産家を演じて場の資産を独占するために暗躍するゲームだ。」という気がします(笑)。しかもその目標の実現のためには、プレイヤーには場には公開されていない膨大な量の情報やスキルが求められます。これは(一般的に)その場に公開されている情報だけで遊べる多くのボードゲームとは一線を画しているのです。そして何と言ってもゲームのメイン&山場は“交渉”にあって、目の前にある公開情報の解読&操作ではないのです。

 それとモノポリーにおける“相場”は、結構同じ人達と繰り返し遊び続ける事で形成される物だという印象があります。例えばあるサークルのメンバーがモノポリーを遊んでいる中にニューカマーなり他のサークルの人が入ってきたとします。多分間違いなくその人は“自分が持っている相場の常識と周囲とのギャップ”に戸惑うのです。言い換えると同じサークルの人達は“前に遊んだゲームの続き”をしていて、そこにそれ以前のゲームの経過なり様子を知らない人が入ってきた訳です。そうなるといきなりゲームに馴染むのはまず不可能で、場合によってはそれ以前のゲームで何が起きたのかという情報(リプレイ)を知る必要が出てくる。ほら、やっぱりどう考えてもTRPGですよ、これ。

 ただどうでしょう。もし本当にモノポリーが分類的にボードゲームよりもTRPGに近い遊びだとしたら、これをボードゲームだと言い切れる状態に比べて“一般の人達から見た敷居は高い”と言えるのではないでしょうか。先程も書きましたが、多くのボードゲームは場に公開されている情報だけを見れば感覚的に遊べるし、だから初心者でもすんなり入れるのです。でもモノポリーは断じてそうじゃありません。ある物件の価格は所有者の所持金によってすら変動し、しかも所持金の金額そのものは非公開情報。もうこれだけで“初心者お断り!”のレッテルを貼られたって不思議じゃありません。 (^^;

 これは別にモノポリーというゲームを貶す意図が無い事をお断りして書くのですが、要するに「モノポリーを推進する側にそういう意識があるのだろうか?」という事なのです。モノポリー未経験者にモノポリーを勧める事が、実は事前に予習すべき情報量が膨大なTRPGを勧める事に等しい行為である、そういう自覚が多分必要なのです。そしてこの話は「何度か遊べば慣れるよ。」で済む話では多分ありません。実際にはその“身に付けるべき非公開の情報”はあまりにも膨大で、それ故途中で挫折するプレイヤーは決して少なくはないであろう事が容易に想像されるからです。

 ○ モノポリーというゲームをどう見るのか?

 じゃあ「モノポリーというゲームは面白くないのか?」あるいは「競技モノポリーに魅力はないのか?。」と聞かれると、間違いなく私の答えは“断じてNO!”になります。

 例えば先程触れた“あってなきがごとし物件の相場”です。確かにこれって初心者に取ってはかなり分かりにくいのですが、逆にモノポリーが分かってくると“相手を言いくるめて高く売りつける(あるいは安く買い叩く)”という選択肢が発生します(笑)。一旦別の人に$500で売った物件を$200で買い戻して勝った。そんな試合は多分モノポリーの歴史の中には山のようにあるはずです。こういう駆け引きは物件の相場が固定(公開)されている多くのボードゲームでは味わえません。つまり逆に言うと「この部分がモノポリーの『他のボードゲームとの差別化』の部分だ。」と言えるのです。

 またこういったモノポリーのファジーな部分が“初心者救済”になるケースもあります。モノポリーの世界ではいわゆる“献上(物件を抵当価格未満の価値で売買する行為)”は禁止されているそうなのですが、しかし普通なら数百$する(例えばオレンジといった有力な)物件を、交渉相手が初心者だからという理由で格安に譲る事はできるのです。もちろんそういう手加減を快く思わないプレイヤーもいますが、しかしやり方次第で1つのゲームを囲んだプレイヤー達が長時間同じゲームを楽しむ事は可能なのです。これもスタートからゴールまでが一本道に近いゲームでは難しい事です。

 “ゲームの奥の深さ”と“ゲームの敷居の高さ”は実に相反する要素です。競技モノポリーという遊び方はモノポリーの持つ“奥の深さ”を探求しようとする試みなのだろうと私は勝手に解釈しています。確かにそういう視点から1つのゲームを突き詰める事は有意義だろうと思います。しかしそれと同時に、競技としての取り組みと同じ位“敷居を低くする施策(ニューカマーを招き入れるための工夫)”を熱心に実践する個人なり組織が現れなければ、間違いなくその遊びは廃れるのです。ちょっと今、日本のモノポリーは“日本選手権やモノポリーサークルのイベントへの動員を増やす事”に意識が集中していて、そのくせ“モノポリー人口そのものを増やす施策”に目がいっていない気がします。ただし、じゃあ具体的にどうすればいいのか、それに対する私個人のアイディアというか私案がある訳でもないのが困った物なのですが。 (^^;;;

 ○ 私個人のモノポリーとの付き合い方

 本編の最後として「じゃあ私自身は今後モノポリーとどう関わっていくのか?」を書いてみます。

 私個人はモノポリーで競技プレイヤーになる気はありません。今回の北陸予選の結果を見れば明らかなのですが、現在福井に競技モノポリーを語れるような土壌なんて全くないのです。まずはモノポリーを遊びとして広め、より多くの人達に遊んでもらい、そしてその中から「そろそろ競技モノポリーもやってみるか!」という声が出た時点で考える。それで良いと思っています。私が第1部で「福井から優勝者が出なくて良かった。」と書いた理由もここにあったりします。間違って今回福井から優勝者が出ようものなら、たちまち「福井で更に“競技モノポリー”を推進せねば!」等という勘違いをする人が現れかねません。 (^^;;; また地元の人間はそう思っていなくても、周囲の競技モノポリーを推進している方々からそういう風に思われかねないですし。

 最近多人数で遊ばれるゲームの多くが“他人の妨害をする”事をゲームの骨格というか醍醐味に据えている物になっている気がします。しかしよくよく考えてみるとモノポリーはそうではなく“自分の頑張りが勝敗を決めるゲーム”になっているのです。ある物件を手にする事ができたのは別に誰かを妨害したからではなく、サイコロ運だったり交渉がうまかったり家やホテルの建て方が良かったからなのです。例えばダークブルーにホテルが建とうが、そこに止まらなきゃ自分には$1の被害も無いのです。またそれ以前に別のプレイヤーにダークブルーを揃えさせないように交渉に介入する事だってできたはずです。でもなぜか結局ボードウォークを踏んで$1000オーバーを支払うハメになった。これって誰が悪いかと言えば“自分”なのです。そう考えるとモノポリーってある意味非常に平和的なゲームだという気もします(笑)。

 前に書いたエッセイでも触れたのですが、モノポリーってある意味で“自分と向き合うゲーム”だと思います。そういう部分の魅力をもっと前面に押し出して“自分に勝つためのモノポリー”を広める。その方がモノポリーという遊びに人が定着しやすいのではないか?。私はそう考えています。言い方を変えると“プレイヤー全員が勝つモノポリー”という事になるでしょうか。ゲームに参加したプレイヤー全員が某かのお土産を持って笑って家路に着ける。そんなモノポリーを私は人に勧めたいです。

 もちろんそのためには、何よりも自分自身がそういうモノポリーを遊べるようにならなければいけません。ゲームに勝つ事を目標にしつつ勝敗にはカツカツせず、ゲームの参加者全員に自分が楽しい時間を提供できるような人間になりたいです。話題や情報も豊富でなければいけないですし、人の話もちゃんと聞けるようにならなければいけません。また勝っておごらず負けて怒らずという人間性も求められます。そこまで考えさせるだけの魅力が、間違いなくモノポリーにはあります。そしてそうやって周囲のプレイヤー達を楽しませ、でも気が付いたら毎回ライトパープルとイエローにホテルを建てている。そういうプレイヤーになれると良いですね(笑)。

 ○ 余談

 モノポリーの世界が“交渉”によって成立する以上、当然そこにはプレイヤー個人の人間性がモロに反映されます。当然交渉が巧い人もいれば下手な人もいます。また多少交渉が強引で他のプレイヤーに嫌な顔をされたり、中には相手が初心者である事につけ込んで法外な相場で交渉を持ちかける人もいるでしょう。そこまで露骨でなくても「自分が少しでも損をする交渉は絶対にしない。」そんなプレイヤーは案外少なくないのではないでしょうか。

 で、皆さんは「これはゲームの中だけの話。実際の自分はこういう人間じゃないから。」と思われているかも知れません。でもね、実はこのモノポリーというゲームの中での自分の振るまいが、そのままその個人の仲間内やサークル内での評価になっている、という事を皆さん自覚なされているでしょうか?。いや、私がこういう話を書く時は大抵“実例”があって書いているのですがね(笑)。ただ流石にここで具体例は書けないかなあ。 (^^;;; あまりに内容が露骨すぎて(爆)。

 最近気が付いたのですが、どうも私はカタンのような“他人を妨害して自分が勝つ”系のゲームが性に合わないようです。そういうゲームってちょっとしたきっかけで実際の他人との友好関係にもひびを入れかねないですし、何よりも遊んだ後に笑顔で「今日は面白かったね。じゃあまた今度! (^^)/ 」と言えない場面が少なからずあるのが嫌なのです。私はゲームに競技性は全くと言っていい程求めていません。それでなくても人間の一生なんて“競争”に溢れています。それを趣味の世界でまでなんでやらなきゃいけないの?、というところでしょうか。

 とにかく、もしあなたが自分の人間としての評価を下げたくないと願うのであれば、あなたはモノポリーといったゲームの中でもそれを心がけるべきでしょう。そういうのって周囲の人間は案外よく覚えている物で、それこそゲームが終わってあなたがいなくなった後で「あいつとは絶対に交渉したくないよなあ。」「そうそう、ゲームが終わった後の飲み会に一緒に行くのも嫌だけど。」等と囁いているのです。

   

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