巻の七

◆福井県今立郡池田町水海五二−二四◆


村社 鵜甘神社
(うかん)

福井県今立郡上池田村水海区 第五十二号宮ノ谷二十番地 鎮座
由緒 境内神社 神社に関する事項 口碑伝説 参考語録

祭神

応神天皇(おうじんてんのう)  神功皇后(しんごうこうごう)  武内宿禰(たけのうちのすくね)  保食神(うけもちのかみ)

天御中主尊
(あめのみなかぬしのみこと)   太田命(おおたのみこと)  大国主命(おおくにぬしのみこと)  御年神(みとしのかみ)
由緒
鵜甘神社鳥居
 雄略天皇七年(463)二月十五日創立。 明治四十三年(1910)九月三日福井県の許可を得て全区無格社、加宝(賀宝)五所神社祭神、保食神、天御中主尊、太田命、大国主命、御年神由緒、至徳三年三月十三日創立を合祀し、翌四十四年五月勅令にもとずき、神饌幣帛料供進神社に指定せられたり。

 継体天皇が越前に御潜龍の時、「足羽の水源神」として祀られた古社である。


例祭     九月十五日    神紋   丸に対ひ鳩

建物    本殿   木造 瓦葺 流造

         拝殿   木造 瓦葺      鳥居 

本殿造営の沿革

 明治三十二年(1899)四月、社殿回禄のため仮御殿建設し、明治四十三年八月現今の社殿を造営す。

境内神社

     時頼神社        祭神  北条時頼
      由  緒        寛永五年(1628)八月二日創立
     文化財指定     田楽能舞
神事   田楽能舞  棒ちぎり鵜甘神社本殿

神社に関する事項


加宝五所神社

 加宝五社神社由緒、創立年代等は幾度の災害により不詳。
 言い伝えによれば、美濃国より飛んでこられた神だとも云われているが、定かではない。

 加宝五所神社ありては、新年祭として毎年二月十三日(旧暦正月十三日)、五穀豊穣国家安泰を祈り、棒の先に大なる鏡餅を刺し鍬になぞらえ、耕作の事を行う「鳴合」今なお古例のごとし。

 水海は、藤左衛門九左衛門の二人の豪農が草分けで、明治初年まではそれぞれ二十人くらいの男女の使用人を使っていたので、それらの人を中心にした祭りであった。


 当社には、鎮座された境内地にのみ「ゆりわさび」という植物が自生し、当地方の山林、原野などには見ることができない。 これを辛菜(からな)と称し、一般民は鑑賞して食す。

水海の「なるわい」神事 ”棒ちきり”

 ほの木を長さ六寸くらいに切り、まわりを薄く削って稲に似せた削りかけを作る。 丸ゴウギは二十本作り、本ゴウギの二十本とあわせ四十本にして拝殿の前でまく。 ゴウギをとった人は拝殿に付けるのだが、これを皆が競い取らんと奪い合うのである。 
 丸ゴウギを拾った人には、小さい餅を渡す。 この餅はオヒレイといって、腹が年中空腹知らずだという。 
 本ゴウギを拾った人は、細き木の先に径二尺くらいの餅を刺し、これを鍬になぞらえ、十三日の神事の荒田起こし、苗代、畦ぬり、稲刈りなど、なりわいの行事をおこなう。
 この棒を執りしものには、鏡餅一重を賞与し、この鏡餅を得たるものは当年豊作を得るといわれる。
口碑伝説

水海の田楽能舞


 相伝う、後深草天皇正嘉年中(1250頃)、鎌倉執権北条時頼諸行脚の際、当社に参詣し、天下太平国家安穏を祈願し鎌倉帰館の後、神主及び社家四名を召し、境内地二反四畝六歩、永代供御田七畝二十六歩、舞楽執行者へ四畝六歩を寄付せられしという。 時頼参詣の折り、田楽を催せしを賞覧せられしより、毎年正月十五日に執行するを例とせり。
 鎌倉幕府執権の北条時頼が隠密裡に鎌倉から鎌倉街道を踏破して水海までやってきたものの、意外な豪雪で滞留し、越冬を余儀なくされた。 村人は今をときめく執権時頼とは知らず、たんなる廻国修行僧と思いこんでいた。

 若者達はつれづれを慰めるために田楽を舞った。時頼はその返礼として「能」を伝授して去った。 これが今に伝える水海の田楽能舞である。 鎌倉に帰館した時頼は、越冬中の謝礼としてさっそく水海の役人達を呼んで厚遇した。

その時拝領したお墨付きは、正徳年中
(1711〜15)の水海村の大火で鳥有と化してしまった。

 数々の恩賞を拝領した役人達は、その徳を敬慕してすぐ時頼神社を創建し、お礼に代えて修得した「能」を奉納、これが七百年の昔から今日まで伝承されてきたのである。
水海最明寺最明寺、奥に鵜甘神社本殿

 往古、後深草天皇の御宇、正嘉年中執権北条時頼入道最明寺道崇、諸国を巡視して民情を探れるとき、水海八幡宮に参籠して年を経たり。 ここに正月十五日、法楽奏三番並びに舞楽をなし以て恒例となし、かつ自己の肖像を彫り、これを社内に納む。 よりてその旧跡に一堂を造営しその像を安置し、最明寺堂と号す。

 今に正月神事祝文の詞に、天下国家の御祈祷のため、最明寺殿においてこれを行う云々、と述ぶという。
 この他の説について紹介しますと、水海はもと鎌倉街道の道筋に当たり、芸能団が伝えていったとも説明されています。 

 池田には稲荷、月ヶ瀬、志津原にも能楽が江戸時代の末頃まで行われており、志津原の面の箱には「天正十八年
(1590)箱有。文政五年(1822)正月に改」とあり、大口(袴の一種)には、寛永十五年(1638)八月の日付もあり、稲荷の面には、元亀二年正月の銘がある。 水海の能楽もその時分からの伝承ではないかとも思われる。 また、志津原の箱には濃州群上群の大工が細工したとあるので、岐阜県の能郷の能(岐阜県根尾村)との関係も深いと思われます。

    神社  話題  登山  今立町


「今立郡神社誌」