巻の三

◆福井県越前市粟田部町一九−一三◆


県社 岡太神社(おかふと)

福井県今立郡粟田部村 第十九号大山十三番地鎮座
由緒  本殿造営の沿革  境内神社  神社に関する事項  口碑伝説   参考語録

祭神

建角身命(たけつぬみのみこと)  国狭槌尊(くにさつちのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)

相殿

継体天皇(けいたいてんのう)   高ヲガミ神(たかおがみのかみ)   少彦名命(すくなひこなのみこと)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)   猿田彦命(さるたひこのみこと)    天鈿女命(あまのうずめのみこと)
金山彦命
(かなやまひこのみこと)  崇徳天皇(すとくてんのう)     火産霊命(ほむすびのみこと)  崇神天皇(すじんてんのう)
応神天皇
(おうじんてんのう)    倉稲魂神(うがのみたまのかみ)    彦主人王(ひこぬしおう)
由緒

 岡太神社勧請の所似は、雄略天皇の御宇(457〜479)、男大迹皇子当国の地勢東南領を始め山嶽四方に位し、激水溢れて恰も沼のごとくにして国民その害に罹るを御煩慮在らせられ、水路をうがち三大川 「九頭龍川、足羽川、日野川」 を開き、建角身神(タケツヌミノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)、国狭槌尊(クニサツチノミコト)の三柱をこの地に勧請ありて岡太神社と号し、祈誓し賜う。 これ式内の神社なり。 継体天皇を相殿に祀りしは、千有余年以前に係れり。 例年正月十三日皇子を奉迎せし日とて鳳来祀と唱え、神輿を奉じて市中を巡行せり。 然れども維新以来この式を廃せりと云う。

 明治四十一年(1907)四月神饌幣帛料供進神社と指定せらる。 明治四十三年三月三日以下の六社を合祀せり。 岡太神社 拝殿

無格社 貴船社
 祭神 高ヲガミ神 由緒不詳

無格社 天神社
 祭神 少彦名命 由緒 男大迹皇子当地に潜龍ありし頃雄略帝十八年の勧請なりと云う。

無格社 金比羅神社
 祭神 素盞鳴尊、猿田彦命、天鈿女命、金山彦命、崇徳天皇 由緒不詳

無格社 秋葉神社
 祭神 火産霊命、崇神天皇 由緒不詳

無格社 稲荷神社
 祭神 倉稲魂神 由緒不詳

 なお大正五年二月十六日境内神社 彦主人王宮 祭神 彦主人命 由緒不詳の一社を合祀す。

本殿造営の沿革

 維新前の沿革は詳細をつくすこと能はざれども、廃藩置県後明治六年
(1873)四月四日村内大火あり。 延焼して殿舎ことごとく鳥有に帰せり。 爾来社殿の造営に汲々し漸く復旧に至らんとせしに、同二十八年七月三十日豪雨の為、社殿西部の山崖崩潰して社殿復厭倒せられたるを以て同二十九年五月再建の議成り、これが企画を為し同四十年一月社殿造営の許可を受け同四十二年二月竣功の屈出を了せり。

例 祭  十月十三日    神 紋   五七の桐

建 物  本殿  木造  銅板葺  瓦葺

       拝殿  木造  流破風造

文化財指定  花筐の桜 (薄墨桜)

特殊神事   迹王の餅神事  莱祀  市祭  徳日祭

社 宝   豊臣秀吉禁制  槍一筋  手槍一筋(信国重崇の銘)  古刀一口(廷々松五郎寄付)  松平春嶽筆額面
        鳥尾小弥太筆額面  菱川師福筆「莱祀図屏風」
境内神社
岡太神社 奥の院
須波阿須疑神社
 祭神 建御名方神、大己貴命、事代主命  由緒 不詳

安閑天皇宮
 祭神 広国押武金日尊  由緒 当地において御降誕あらせられ志に因り勧請すと云う     

宣化天皇宮
 祭神
 武小広国押盾尊  由緒 当地において御降誕あらせられ志に因り勧請すと云う

白山比女神社
  祭神 伊弉諾尊 伊弉冊尊 由緒 不詳

大神宮遙拝所   由緒 不詳

神社に関する事項

迹王の餅神事


 毎年九月十三日(現 十月十三日) 未明に行われる神事で、数十の大半桶に盛った餅を積んで献る。 これは、男大迹皇子が潜龍時代に、郷民を愛育撫恤し給うたというその厚徳に酬い奉らんとして餅をついて皇子に奉ったところ皇子もまた、餅をついて郷民を賑わい給うたという故事によるものという。

さて、村内に男児が出生すれば、迹王の子と称して迹王宮の名簿に記載する。 成人になると、筆頭のものから三十二人(迹王方十六人・宮方十六人に分かれる) が選ばれ、迹王若者と称して、当年の迹王の餅を献る当役となる。 当日捧げられた餅は迹王の子たる者に頒たれる。

莱祀 (俗に、オライシという。王位莱祀の義)

 当社の祭礼「莱祀」は、王位来旨の義と伝えられ、藩政時代には国主より代官四名が警衛として派遣された。 また里庄村総代が、礼服で供奉したという。 神祇管領より公達があって制札を建て、公用・私用の者の通行を止め、蓑笠着用の者の往来を禁じた。 この祭礼の日には男女を問わず、他町村に縁付きたる者が必ず帰来するのを常としたという。 また粟田部の礼日として親族知人などの訪問が極めて多く、市中大いに雑踏したという。 莱祀は、天平勝宝年中(七四九〜七五六)に再興してから天正元年(1573)まで退転せず、その後、乱世の世の為にしばらく中絶したが、同十七年より又執行したと伝えている。

皇子の池

 天神町にあり。 古昔、安閑天皇宣化天皇の御降誕ありしに、この池の水を以て御産湯にあて奉る。 されば時俗産湯の池とも云う。 水清冽にして三状の日といえども涸れず、人境域に入りて荒らすことあれば白蛇出でて、その暴行をとがむるものの如し。 故に里人畏敬してあえて犯すことなしと云う。 いつからかこの池の周囲に石の玉垣を廻らし、童幼のみだりに出入りするを禁止す。 以て千古の聖蹟を無究に留む。

皇子の森

 皇谷山の麓、玉の尾に在り。安閑天皇、宣化天皇の御降誕ありし地と云う。味真野名跡誌に、今に粟田部大渓山の麓に皇子の池皇子の森と云うありて、正しき皇居は此処なりと云える。薄墨桜

佐山媛の古跡

 佐山の地に在り。 俗に「鹿の浦」と呼ぶ。 男大迹皇子御遊覧の所なりきという祠あり。 佐山神社という皇子の妃、佐山媛命を祀れり。 味真野名跡誌に佐山御前といえる妃のおはせし跡とて今に佐山と呼ぶと見ゆ。 また帰雁記に粟田部の佐山と云う所に御所跡とて、粟田部丑の方畑の内に東西七十間南北百二十間ばかりの所云々と記載せり。

帝々左右衛門居趾

 男大迹皇子に近侍して常に佐山の地に居住せりと云う。 後、今立郡水間谷(服間)炭焼に移住したれども、その子孫なお岡太神社の祭事には霊剣を奉じて供奉するを例とせり。

薄墨桜

 岡太神社をへだてる西十町ばかり皇谷山の中腹にあり。 往古、男大迹皇子御手植えの桜なり。 皇子の遺愛し給いしことなればとて、世に花筐の桜と云う。 樹廻り一丈五尺ばかり、幹三丈あまり、根幹苔生してその年齢を知らず。 されど、春毎の花期には遠くこれを望めば白雪の残れるかと疑われ、近くこれに接すれば一層の壮麗をくわう。 傍らに祠あり。 花筐神社という。 元八幡社なりしにや。 ある書に、この桜のちに八幡の神木となれりと。 此処より遠からぬ西方の山の彼方に孫桜と云うあり。 薄墨桜の分檗にやあらん。 その名称にて推しはかられぬ。 枝幹長大また一つの奇観なり。
口碑伝説

 当社は、泊瀬朝倉宮に天下知食し大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の御宇(457〜479)、男大迹皇子当国に潜龍し給いし時(ある書に雄略天皇八甲辰年と云えり)勧請し給いきと云う。 皇子は軽島明宮に天下統治し、誉田天皇(応神天皇)五世の御孫にして彦大人王の御子にて坐ましまける。 御母は振媛命と申し纏向珠城宮に天下治し、活目天皇(垂仁天皇)七世の御孫なり。 皇子幼にして父王みまかりし給いければ、御母と共に越前国に下り給い。 かしこくも、ひなのご住居に数多の年所を過ごさせ給いけり。

 当時越前国の地勢、東高嶺を負い山岳四方に塞がり、漲水氾濫してもっとも湖沼の如くなりき。 舟津、水国(三国)などの称あるはこの故なり。 国民その害を被り流離せるもの多かりしかば、皇子いたくこれを憂い給い当地に宮居を定め給い、九頭竜川、足羽川、日野川の三大川を穿ち、横流を決し水理を通し給いき。 かくて越の中山、蓬莱山(三里山)の麓に岡太神社を奉祭し給いて、竣功の祈請をこらし給いき。 すなわち延喜式神名帳に載する今立郡十四座の一つにして所謂式内の古社なり。

 男大迹皇子天資寛仁にして大度ましましき壮なるに及びて、士を愛し、賢を礼し、民を撫で、物を慈しみ給うこと深く、さらに御心を民事に留め給いしかば、民皆その高徳に懐き在す所すなわち郷を為し村をなせり。 尊称して迹王様と云う。
 此処において、治水を始め海門を開き土地の宜しきを相して農桑を奨め織り紡を励まし給いき。 さて、水患ことごとくやみ田園大に開け、国内殷富萬民悦服して無究の恩波に浴せり。 ゆえに、皇子に関する御遺跡国中至る所に存せり。 就中本村の皇子の池皇子の森皇谷の薄墨桜佐山御前の古跡等今に残れり。


 時に、泊瀬列木宮に天下知食して、小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈天皇)崩じ給いて儲弐なかりき。 大伴、金村大連等議を定め、男大迹皇子を迎え奉りて天位に即かせ奉りき。 御年五十七歳にぞましましける。皇子登極の後、御名部を定め給い、永く民望にかなはしめ給いき。 もと大迹部と云えりしを今粟田部と云うは訛れるなり。 かくて男大迹天皇崩じ給いて後、郷民楡々聖徳皇恩を欽載敬慕する余り、岡太神社の相殿に斎奉りき。

 かかる由緒ある社なれば歴聖の御崇敬も厚く、官弊あるいは宝物など納めさせ給いき。 中世となりて武将国主等の信仰浅からざりしが、応仁以降擾乱相つぎたびたび兵火に罹り、かつ村内数度の水難に遭い近くは明治六年(1873)の大火にて社殿は鳥有に帰し、古記録を始め神賓等ほとんど焼失もしくば散失し、今はわずかに宝物目録によりてその一班を伺うことを得るのみ。

 また、合祀の彦大人宮は男大迹天皇の御父君なれば鎮祭せりと云う。 勧請年月は詳かならねど、ある記に欽明天皇の御宇(540〜571)と見えたり。 越前惣神分に載せたる彦人神は恐らくは彦大人宮をさすならんとあり。
−今立郡神社誌−
式内社岡太神社について

 「延喜式」神名帳に岡太神社と記されているが、現在の岡太神社は式内の岡太神社と直接関係なく、明治維新時に命名されたものである。 それでは、いったい式内社岡太神社は何処に鎮座していたのであろうか。

 「岡本村史」によれば、岡太神社のオカフトは岡本とも訓じ、大滝など「五ヶ地方(不老、大滝、岩本、新在家、定友)」の岡本に通じる。岡本は少なくとも、室町期には岡本郷の呼称があったと考えられ、それが大滝寺の大滝児権現との関係から、その鳥居前集落を一般に「神郷」という呼称で代表されるようになり、近世にはいると、これが大滝村と改名されていくようである。

 また、権現山に水源を有する川に、現在も「岡太川」の遺名を有し、大瀧神社下宮付近に「岡本」の地籍名も存する事から、岡太神社の所在地をこの地に求めることは決して根拠がないことではない。 しかも、大瀧神社の奥院に本社の祭神と相並んで摂社として祭祀されている川上御前を式内岡太神社としており、紙漉きの伝承を付加してこれを五箇製紙の紙祖として奉祀している。 (大瀧神社)


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